第85話 再戦
腹部が圧迫されて不快だった。寝返りを打つことができず体に違和感を感じ、まだ眠っていたいのにもかかわらず僕は起きる羽目になった。ただでさえこの宿泊施設のベッドは硬くてよく眠れず、体の疲れは取れていないというのに。
「──ったく、なんだよ……」
上体を起こすと腹に乗っていたナスチャがズルズルと僕の体からベッドへ滑り落ち、意地の悪そうな顔をして僕を見つめた。
僕は部屋に設置されている時計を見た。短針は七を指している。
「なんだよ。こっちは悪い夢を見ていたんだ。今からでもかき消すためにもう一眠りしたいんだが……」
朧げな夢の記憶は僕の心を侵食していった。それは自分がずっと昔に殺人をしていたという事実によるものではなく、その事実を都合よく改変し、なかったことにしていたからだ。
「外を見てよ」
ナスチャに促されて僕は窓を見た。窓から差し込むのは日光ではなく、月明かりだった。
──良かった、丸一日眠っていたわけじゃないんだな。
「外だよ! そ! と! 大変なことになってる! だからモニカやヴェロニカを叩き起こして出撃するよ!」
「大変なこと?」
ベッドの上だけ重力が何倍にも増しているようで、僕が立ち上がろうとしてもすぐに引き戻されてしまう。──否、純粋に疲労が取れていないだけで体が重く感じられるだけだ。
「くだらないことやってなくていいから早く見てってば!」
僕は渋々ナスチャに従って窓外を見た。その大変なことになっているものを探して。すると耳をつんざくような悲鳴や絶叫が少し道をいくつか挟んで聞こえた。
集中して聞き耳を立てると、声の発生源は露店が並ぶ表通りだということが判明した。続けて目を凝らし、嗅覚を働かせると、不快な情報が入ってきた。
人々の断末魔の叫びが聞こえるのはもちろんのこと、もげた手足や赤色の体液が散っており、嫌な鉄の臭いがした。そしてなによりもむせ返るような吸血鬼特有の色々混じった臭いがしたのだ。
「また襲撃か……さっき仕留めたばかりじゃないか……」
僕が眉間を押さえて大きなため息をつく一方で、ナスチャはやけに嬉しそうに笑っている。
「おいナスチャ、なんで笑ってんだよ。連戦なんてシャレにならないだろ。怪我はなくとも僕はまだ疲れているんだ」
吐き捨てるように言ってナスチャの頬を引っ張ると、
「だって……ようやく仕返しできるから……」
と人を馬鹿にするような視線を僕に向けて言った。
「仕返し……?」
僕が首を傾げると、
「そう、仕返し」
とナスチャは鸚鵡返しに言った。
僕はナスチャから手を離し、外を注視した。心当たりはないことはないが、もしもこれが僕が思っているものだとしたら自主的に墓穴を掘って埋まりたくなる。
「──って言ってたら来たよ」
瞬く間に血の臭いが強くなり、自分に悍ましいほど濃厚な殺意が向けられたのを察知した。空間が一気に冷たくなり、あたかも自分が観客のいない血みどろの舞台に立たされているような気がした。
ナスチャはその場からひょこひょこと跳ねて部屋の隅へと移動してこちらを伺っている。
一瞬の間を置いて窓から細い透明な糸が僕を捕らえようと飛んできた。
「おっと、こいつかよ!」
即座に天井にぶつからない程度に後方に跳躍して糸を躱し、ベッド近くに置いてあるクレイモアを手に取った。素早く抜剣して構えた。
「半年ぶりだな。前とは違うというところを見せてやる」
僕は窓を睨んで次の攻撃に備える。
「異能力──人形劇『悲劇』」
次の瞬間、悲鳴がこの空間を満たした。そして窓からかろうじて人間の原型をとどめた人形が這うようにして入ってきた。顔面を始め体のいたるところが溶けており、腐臭を漂わせている。
声の主はこの表皮がドロドロに溶けた気色の悪い人形であった。口のような器官を開いて空気を吸い込んで体を傍聴させると、一度口を閉じて空気が漏れないようにすると、先ほどよりも大きく口を開けて大きな悲鳴を上げた。
それを声と呼ぶにはあまりにも不適切で、同時にその行為がとても悍ましく思えた。全身の皮膚が粟立って、名状しがたい恐怖が僕の体に纏わりつく。
「──ったく、なんでどいつもこいつも異能がこんなにも気持ち悪いのかな。本当、嫌になるよ」
吐き捨てるように言うと僕は姿勢を低くしてその悍ましい人形との距離を詰めて、頭部と思わしき部分を叩き切った。すると人形は断末魔の叫びを上げて絶命──するかと思えばすぐに起き上がり、僕に飛びかかった。
僕はとっさに無数の攻撃を繰り出して人形をバラバラに切り刻むと、勢いよく窓から飛び出した。縁を蹴ってできるだけ遠くを目指して跳躍した。
部屋に残したナスチャにヴェロニカやモニカを呼ぶように頼んで僕は宙を駆ける。
この宿泊施設は五階建ての建物で、僕が宿泊しているのは五階の一室だ。だからこのまま地上へ落下すると足のカルシウムがお亡くなりになるだろう。しかし向かいの建物の屋根に着地することができれば僕の足のカルシウムは僕と一生を添い遂げてくれることに違いない。
全身の筋肉を余すことなく使って向かいの建物の屋根に到達した。しかし距離が足らず、屋上に着地することはできず、縁にクレイモアを持たない方の手をかけることになった。
自分の質量と落下によるものがすべて縁にかけている指にかかり、指の筋肉が悲鳴をあげた。皮膚が突っ張って今にも裂けそうだ。
痛みに耐えながら上腕の筋肉を酷使してクレイモアを持つ手を前腕まで屋根に乗せると、どうにか這い上がった。
すると急に暗くなった。自分に照らされていた月光が何者かに遮られたのだ。
そして言葉が投げかけられる。
「お久しぶり」
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