第84話 ずっと忘れていたかった

 ──熱い、痛い。

 僕の体に大量の熱湯がかけられた。それは僕の脚や背中を焼いていく。皮膚は広範囲に無残にも爛れて赤く腫れ上がった。

 痛みから逃れるために反射的に僕は叫んだ。だかそれは気休めにもならず、僕は床でのたうち回ることになった。しかし動けば動くほど皮膚に負荷がかかり、痛みは増すばかりだ。

 あまり日に焼けていない白い肌は痛々しい赤色に変色しており、すぐに冷却しなければ大変なことになるということは容易に想像できる。

 僕はヴィオラを愛していた。ようやく守るものができて嬉しかった。だから僕にとってこの程度の火傷はかすり傷に過ぎない。

 そう決意したとき、僕の理性は弾け飛んだ。痛みを感じる神経は融解して跡形もなく消失し、僕の心底に根付いていた恐怖も粉々になって崩壊した。

「……愛してる、ヴィオラ。なにかあっても僕が守ってやる。だから安心しろ」

 震えた声で呟くと僕は立ち上がり、姿勢を低くして踏み出した。収納棚に吊るしてある包丁を素早く手に取った。ここは台所で、料理をするのは僕しかいない。そして重度の火傷を負ったにも関わらず敏捷な動きをする僕を母は追えなかった。

 包丁を握りしめて僕は母の腹を刺突した。そして体内にある刃を捻ってから引き抜いた。そして続けて太ももにも同じことをした。皮膚を裂き、肉をを切り、神経を傷つけた。

 傷口からじわじわと鮮血が流れ出し、気づけば血溜まりになっていた。

 母は呆然としていたが、痛みによって現実に引き戻されて声帯が裂けそうなほど絶叫した。耳をつんざくような大音声に腹が立った僕はすかさず母の喉笛を掻き切った。それも頸動脈を傷つけないように細心の注意を払って。

 すると声は出なくなった。喉笛から空気が漏れる音がするだけで静かになったのだ。

 それらの痛みに耐えられなくなった母は傷口を押さえてうずくまった。

 そうやって弱っている母を見て僕は最高に清々した。人生で一番と言ってもいいほどに気分は高揚して胸の中に漂っていた黒い霧が晴れた。

「…………」

 僕はヴィオラの手を引いて寝室に移動した。寝室の前でヴィオラに待っているように言い聞かせると、一人で部屋に入った。ベッドで父が寝息を立てている。深い眠りについているようで僕が近づいても起きはしなかった。

 ──ちょうどいい。

 僕は一切の躊躇なく父の首に包丁を突き刺した。今度は頸動脈を傷つけるために横を狙って切りつけたのだ。

 痛みから父は目を覚ましたが、時すでに遅し。傷口から鮮血が勢いよく噴き出した。それは天井にまで届き、部屋一面を赤く染め上げた。

 父は傷口を押さえて僕を忌ま忌ましそうに睨みつけたが、今の僕がその程度のことで怯えることはなかった。僕の心に立てられた蝋燭に灯る恐怖の炎が完全に消えた。ようやく解放されたのだ。

 それはとても喜ばしいことだったが、この程度の屑に対して怯えていた自分に非常に腹が立った僕はこれまでの鬱憤を晴らすように父の体を滅多斬りにした。包丁の刃の切れ味が落ちようとも構わず刺して、切って、抉ってを繰り返した。

 最初のうちは痛覚が正常に反応しており逃げようともがいていたが、五回目にもなったらビクビクと震えるだけで大した反応もしなくなった。

 ──つまらない。もっと泣き喚けよ。僕が今までしていたようにさ。

 反応がなく虐めるのは楽しくなくなったが、それでも僕はやめなかった。最初に傷つけた首からの出血の勢いがなくなり、量が減ってきたにもかかわらず僕は体を刺し続けた。眼球を抉り取り、耳を引きちぎり、開腹してはらわたを曝け出した。皮膚を剥がして脂肪や筋肉、骨までも露出させて、最後に陰茎を切り落とした。

 息絶えた父を放置して僕は寝室を後にした。そして部屋の前で待っていたヴィオラを抱きしめて、

「……愛しているよ」

 と言った。

 ヴィオラはなにも言わず、泣くこともせずに僕にしがみついたまま離れなかった。

「……悪い奴は僕がやっつけたから、もう大丈夫だ。でももうここにはいられない。だから逃げよう」

 僕はヴィオラの手を引いて家にある金目のものを手当たり次第鞄に詰めて家を出た。

 夜明け──僕はヴィオラとともにスラム街にいた。

 血まみれの服を着た薄汚い子供がいようと通行人は誰一人として気にも止めないような街だ。ここなら捕まることもないだろう。

 僕は抱きかかえているすやすやと眠っているヴィオラの頭を撫でて、

「僕が両親の分も愛して、幸せにしてやるからな」

 と囁いた。するとヴィオラが心なしか笑ったような気がした。

 それを見て僕は安心した。同時に疲労や痛みが一気に僕の体を襲い、その場に崩れ落ちた。脚から背中にかけて重度の火傷があり、酷い部分は衣類が皮膚にくっついていた。たとえくっついていなくとも火傷した皮膚に布が擦れると燃え上がるように痛んだ。それは痛覚の神経にやすりがけするようなものだった。

 僕は這いずって路地裏に来ると、体の側面を壁にもたれかけさせた。小刻みに息をして痛みを和らげようとするがあまり効果はない。

 疲労もピークに達しており、視界が黒に侵食されていく。体に力が入らず、危うくヴィオラから手を離しそうになった。

「……もう少し待ってくれ。僕の体が良くなるまで」

 僕はヴィオラを守るように覆い被さって眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る