第71話 地獄のオアシス 後編

 僕は靴やレジスタンスの制服を脱ぎ捨て、インテリゲンツィアから支給された体に密着して抵抗が少なくなるものだけを身につけていた。

 ──これで少しはこの吸血鬼の動きについていけるだろう。

 口からいくつかの泡を吐き出した。

 僕は小さく息を吐いて集中すると、吸血鬼を視界の中央に捕らえて睨みつけた。

 ──なんとしてもここから脱出してやる。

 僕はクレイモアを構えて吸血鬼のいる上方を目指して泳ぎ始めた。

 こちらの動きを察知した吸血鬼が距離を詰めようと加速した。再び拳を作り、僕の顔面を狙う。

 クレイモアに適した間合いに入る直前に僕は大きく振り下ろした。水を両断し、吸血鬼の拳の表面を裂いた。

 傷口から鮮血が滲み出る。絵の具を水に垂らしたように赤色が漂い、消えていった。

「痛いじゃないですか」

 吸血鬼は拳を見つめて呟いた。

 ──その程度、お前らにとってはかすり傷以外だろ。

 案の定血はすぐに止まった。瞬く間に傷口も塞がり、そこには最初から裂傷などなかったかのような状態にまで回復した。やはり異能力を持っている個体は治癒力も高いのだ。

「もう怒りましたからね。覚悟してくださいよ。一思いに殺してあげようと思っていましたが、溺死させます。ここから出してあげません」

 ぷりぷりと怒っている様は子供のようだった。

 それから吸血鬼はその場から最低限の回避行動以外の動きをしなくなった。

 正面から突っ込んでいき、クレイモアを振り下ろすが、吸血鬼は横に少しズレるだけでそれを簡単に躱してみせた。

 続けて薙ぎ払うと、それを上に逃げることで回避した。

 吸血鬼は水の中をふわふわと優雅に浮きながらこちらを俯瞰し、侮蔑の眼差しを向けている。

 ──クソッ! どうすればいいんだよ、この状況!

 吸血鬼の異能の空間で、ましてや水中だ。こちらが圧倒的に不利な状況である。しかしこれ以上、僕の頭では良い案が思い浮かばない。服や靴は脱いで身軽になっているのだから。

 ──一体どうすればいいんだよ。

 闘志から体の芯は噴火するように熱くなっているが、それとは対照的に表面は水によって冷えている。

 それでも僕は攻撃をやめなかった。

 四方八方から幾千もの斬撃を放ったが当たらなかった。ここはこの吸血鬼のホームグラウンドということもあり、回避するのは容易だった。

 動くたびに体に残された僅かな酸素は消費されていく。末端の感覚は薄れていき、注意して持っていないとクレイモアが手から滑り落ちてしまいそうだった。

 だが諦めずに僕はクレイモアを振るった。何度も何度も──それは武道の概念など存在しないような稚拙な動きだった。切羽詰まった人間が恐怖に支配されたまま、体力の続く限り振り回すだけのようなものだ。

 ──当たれ、当たれ、当たれ! 倒せなくていい! 異能が解除される程度でいいから! どうか当たってくれ!

 苦しい。枯渇している酸素を奪い合うように細胞ひとつひとつが暴れているようだ。

 落ち着け。酸素の血中濃度が著しく低下している今は無意識のうちに息を吸おうとしてパニックを起こしかねない。それに一度肺に水が入ったらドミノ倒しのように溺死してしまう。

 ──吸血鬼はどこにいる?

 なんとか自分を落ち着かせたかと思えば、次は目が見えなくなってきた。視界の隅から墨汁をこぼしたかのようにじわじわと黒が侵食していった。

 そろそろ限界が近い。もう体内にはほとんど酸素は残されていない。命の灯火は今にも消えてしまいそうなほど弱くなっている。

 体の力も抜けてきた。僕は未来を選ぼうと手を伸ばす。

 死にかけていることに変わりはないから、発動条件は満たしている。しかし僕の能力は発動しなかった。──否、能力自体は一応発動するのだが、既にそれを実行するだけの酸素は残っていないのだ。

 ──ここで僕は死ぬのか。結局……ヴィオラを助けられなかった……。

 悔しいという感情は僕の深層でグツグツと煮えたぎっていることに変わりはない。だがそれは現実という分厚い耐熱性のある布で覆われており、今は鳴りを潜めている。

 ──ごめんな、ヴィオラ。僕が助けてあげられなくて。

 僕は落としかけたクレイモアを抱きしめるように持った。

 ──ごめんな、ヴィオラ。人並みの幸せを与えてやれなくて。

 口から最後の空気が漏れ出し、泡となって浮上していく。

 ──結局、僕なんか生まれてくる必要なんてなかったんじゃないか。

 思い返せば僕の人生はロクなものではなかった。虐待され、体には消えない傷が残って──。


 僕の意識はここで途切れた。

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