第70話 地獄のオアシス 前編
僕はとっさに後方に跳ぶが、水を汲んだ鍋のせいで普段よりも体が重く、距離を置けなかった。
着地した瞬間に地面から水が湧き出た。それは瞬く間に泥沼と化し、僕を引きずり込んでいった。
全身が沈む前に僕は鍋の中身を捨てて野営をしているモニカたちのほうへ全力で投擲した。
一拍置いて僕の体は完全に飲み込まれた。
地面の下は水で満たされていた。そこはなにがあるのかギリギリ視認できる程度の明るさで、泳ぐことができる。しかし上へ上へとどれだけ泳いでいってもここから出ることは叶わなかった。
底はかなり深くにあるようで、この目で確かめることはできなかった。下には闇がどこまでも続いているだけだ。
砂漠にいたというのに、気がつけば水中にいるだなんて現実的ではない。
──吸血鬼の異能だ。
再び気配を感じた僕は背中にあるクレイモアを抜いてその気配を発しているほうへ剣先を向けた。
──早く倒して地上に戻らなければ溺死してしまう。
恐怖と緊張からクレイモアを握る手が震えた。
下から黒い影が一定の速度で近づいてくる。それも人間より圧倒的に早い速度でだ。
──一撃で首を刎ねよう。
相手の動きを予測する。真っ直ぐ突っ込んでくるのであれば、こちらは相手の直線上から横にずれて首を切らなければならない。逆に曲がって他の方向から襲うのであれば、クレイモアを方向によって持ち替えなければならない。
──だが、どこから来ようと同じだ。前の僕とは違うところを見せてやる。
水の中にいることによってヴィクトリアに教えてもらった呼吸法は使えない。だが彼女による特訓の成果はそれだけではないのだ。
一にも二にも集中が大切。
僕は体内に残っている僅かな空気を吐き出して目を見開いた。
敵は一体。真っ直ぐ突っ込んでくる。
僕は吸血鬼を見据えて横に避ける準備をする。
距離──残り十メートル。
──まだ。
距離──残り五メートル。
──もう少し粘れ。
距離──残り三メートル。
──動きを悟られるな。まだだ。
距離──残り二メートル
──あと少し。引きつけて。
距離──残り一メートル。
──体を捻って躱せ。
──今だ!
僕は腰の辺りから体を捻って突っ込んできた吸血鬼の直線上から消えた。今まで僕がいた場所には吸血鬼の前腕が突き出してした。
もしもこの攻撃が当たっていたら僕の胴体は風通しが良くなっていただろう。
吸血鬼は清々しい青色の髪に南国の海のような鮮やかな碧眼をしている僕と同じくらいの歳の少女だった。服装は踊り子のような露出の多いもので、とても戦いに向いているようには見えなかった。
僕はすぐさま頭を低くしてクレイモアを吸血鬼の首に振り下ろした。水の中ということもあり動きが遅いクレイモアが吸血鬼を捕らえることはなかった。
攻撃を簡単に避けられ、僕は吸血鬼の反撃を食らった。吸血鬼は即座に方向転換すると、僕との間合いを瞬く間に詰めて横に回転したのだ。
異能力を持っているということもあり、それは脅威となった。
回転して力が乗った踵が僕の鳩尾に突き刺さる。その一撃はまるで砲丸が投げ込まれたかのように重く、抗うこともできずに僕は沈んでいった。
幸いにも水の中だということで、蹴られたみぞおち以外の部位が痛むことはなかった。
沈んでいく最中に僕はクレイモアを持ち替えて顔を防御するように構えた。次の瞬間、吸血鬼の拳が衝突した。
その衝撃をクレイモアでいなすことをせずにすべて受け止めた。それによって水中で踏ん張ることができない僕はさらに沈んでいく。
口から貴重な空気が漏れた。泡が上方に吸い込まれるように上がっていく。
──早く仕留めてここから脱出しなければ。
自然とクレイモアを握る力が強くなる。
──しかしこちらの攻撃は当たりそうにない。
吸血鬼はさらなる追撃を加えようと体を捻ってこちらを正面に捕らえると、突進してきた。
──とにかくここから出ることだけを考えよう。
幸いにも正面から突っ込んできて殴る蹴ることしかしないおかげで動きは読みやすかった。
吸血鬼は腰を捻り、拳に力を乗せで僕の顔面を狙った。速度も相まって直撃したら骨が砕けるどころでは済まなさそうだ。
再度僕はクレイモアを顔の前に持ってきてその攻撃を防いだ。
先程のものよりも威力が高まったその一撃で、僕の体はどんどん沈んでいった。
──水の中ではジリ貧じゃないか。
さらに口から空気が漏れる。
──こんなところで死んでたまるか。
僕は再びクレイモアを握る手に力を込めると、悠々と縦横無尽に泳ぐ吸血鬼を見据えた。
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