第49話 理解と憎悪
病の森から戻った僕たちを歓迎したのはシェリルだった。僕が第七のセフィラを倒したという報告を聞いて、ホールケーキを用意していた。
レジスタンス本部にある会議室の一室に呼び出された僕は、ナスチャを自室に置いていこうとしたが、ネツァクの件もあり大層嫌がった。部屋の鍵を閉めても中からすぐに開けて出てきてしまうので、仕方なくナスチャを連れていくことにした。
会議室は相変わらず洒落たアンティーク調の家具で統一されている。
ナスチャは僕の少し後ろをひょこひょこと跳ねてついてくる。
「頑張ったじゃない、セシリア」
そう言ってシェリルは僕の頭を撫でた。一呼吸置いて、
「──だけれど、これはいけないわね」
と僕の匂いを嗅いだ。
「違反。──吸血鬼の臭いがするわ。あなたも知っているわよね? 吸血鬼と会敵したら戦う、というレジスタンスの規律を」
目を細めて吐き捨てるように言った。
シェリルは静寂な殺気の衣を纏い、反応できないほど敏捷な動きで僕の前腕を掴んだ。そして間髪入れずに腹から壁に叩きつけた。腕は背中に回されており、上手く力が入らないだけでなく、動かそうとするだけで肩が悲鳴をあげる。
同時にナスチャが腹部の模様を歪めてシェリルへの殺気を発した。とっさにハンドサインを送り、ナスチャを制止した。
不服そうにしながらもナスチャはその場から動くことはなかった。
ナスチャを止めていなければこの部屋はシェリルの血液で真っ赤に染まっていただろう。
安堵したのもつかの間、シェリルの前腕を掴む手に力が入る。その力は常人のものとはかけ離れており、末端の感覚が薄れていった。
僕の背筋を嫌な冷たい汗が伝う。
「どうして? どうしてあなたは殺さなかったの? 吸血鬼がいたら殺さないといけないわ。慈悲なんて与える必要はないのよ。それとも勝てそうになかったから? なら道連れにして死に花を咲かせなさいよ」
シェリルは僕に矢継ぎ早に質問を浴びせた。その瞳は酷く濁っており、生気が感じられなかった。同時に口は操られているかのような正確さで言葉を紡いでいく。
「エリザ──彼女は僕たちを助けてくれました! 彼女がいなければ僕は今頃あの森の養分になっています! それに彼女は吸血鬼を人間に戻す薬の開発も行なっていて、非常に賢い方なんです!」
僕はエリザヴェータが他の人間に敵対している吸血鬼とは異なるということを説明するが、シェリルはまるで聞く耳を持たない。
忌ま忌ましそうに憎悪の権化となったシェリルが舌打ちし、
「──黙れ! 吸血鬼は皆同じだ! 私たち人類の敵なんだ! あいつらを根絶するためにこれまで何人の同志が死んでいったか知ってるか? どれだけの人間の幸せを奪ったか──それはお前も理解しているはずだ!」
シェリルは血走った目で声を荒げた。そこに普段の落ち着き払った上品な女性の面影はなかった。恐怖に支配されながらも必死に抗う生命の本能を表層に出しており、僕の耳に荒い吐息がかかる。
一呼吸置いて、
「次に会ったとき、確実に殺せ。徹底的に髪の毛一本たりとも残さずに殺せ。いいな?」
と氷よりも冷たい声で吐き捨てるように言った。
シェリルが僕の腕を離した。掴まれていた部位から先は血液があまり送られておらず白くなっていた。反対に掴まれていた部分は圧迫によって真っ赤に腫れ上がっている。
壁と熱い接吻をしていた僕が体の自由を取り戻したので振り返ると、顔面をシェリルの拳が捕らえた。
より線のようにしなやかな筋肉が持つ能力を最大限に引き出した動きは一切の無駄がない。
──本当、この人は何者だよ。
尋常ではない速度で飛んでくる拳を僕が回避できるはずもなく、当然のように直撃した。
視界に赤いものが通っていく。
一瞬の間を置いて僕の顔に痛みが走った。鼻に鈍痛が居住しているようで、僕としては今すぐにでも退去していただきたい。
僕は痛む鼻を抑えてシェリルを見る。シェリルは打って変わって愛想のいい上品な笑みを浮かべて、
「さあ、ケーキを食べよう」
と言って僕を椅子に座らせた。
僕が制止してからずっと動かなかったナスチャがひょこひょことこちらに跳ねてきて、僕の膝に飛び乗った。
ナスチャは愛おしそうに僕のお腹にすりすりと体を押し当てながら、
「……大丈夫? つつくよ?」
と小声で言った。
心配そうに僕の顔を見上げるナスチャの目には大粒の涙が浮かんでいた。それは今にもこぼれてしまいそうだ。
僕は持っていたティッシュを鼻に詰めて止血し、
「もう大丈夫だから。心配するな」
と言ってナスチャの頭を撫でた。
少ししてシェリルが切り分けたケーキを僕たちの前に並べた。純白の生クリームの上に宝石のように輝く大粒の苺が飾られており、非常に美しいものだった。
甘い香りが食欲をそそる。
「……鳥にケーキを与えてもいいわよね?」
シェリルが頬をポリポリと掻いて飼い主である僕を見た。
「ナスチャはなんでも食べるので大丈夫です」
そう答える僕を尻目にナスチャは既にケーキを食べ始めていた。
食べ終わる頃には心の底から幸せそうな顔を見せた。
ナスチャの顔を見て僕はヴィオラとの記憶を思い出した。一年以上前の出来事だということもあるが、それがとても懐かしく思えた。
小さな幸せで満たされるあの日々──。
「──リア、セシリア、聞いてる?」
シェリルが僕を呼んだ。その声で現実に引き戻される。
「食べてみてよ。ここのケーキ、とっても美味しいんだから。いつも行列ができていて、すぐに売り切れになるのよ。だからよく味わってね」
シェリルに食べるように促された僕は、濃厚な生クリームに覆われたスポンジケーキをフォークで一口大に切って口に運んだ。
口に入れた瞬間に控えめな甘さの生クリームが溶け出した。まるで沸騰した水に氷を入れたかのようだ。
そしてスポンジケーキを咀嚼する。今までに食べたケーキとは一体なんだったのだろうか、と言いたくなるような香りや味、食感だった。
「……美味しい」
嚥下した僕の口から言葉が漏れる。やはり甘味は一種の麻薬のようなもので、幸福感が体中を駆け巡るのが感じられた。
「そうでしょう? ほら、まだいっぱいあるから、もっと食べてもいいわよ」
「ありがとうございます」
言われるがままに幸福を貪っていると、突然シェリルの顔つきが変わった。空間に針が一本落ちる音も聞こえそうなほどの静寂が訪れる。
シェリルは僕の深層を覗き込むかのように目を細めて、
「セシリア、あなたは弱い、弱すぎるのよ。それなのに大して努力もしない。──本当に強くなりたいのかしら?」
と訊ねた。
「そりゃあもちろんですよ。一刻も早くヴィオラを助け出して、レオンをぶち殺さないと気が済みませんから」
「……そう」
煮え切らない返事をしてシェリルはケーキを口に運んだ。
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