第50話 甘党は匂いに引き寄せられる

 突如、会議室の扉に殴るかのようなノックがされた。

「どうぞー」

 シェリルがニヤリと口角を上げて不敵に笑って答えると同時に、一人の少女が部屋に駆け込んだ。そしてシェリルに向かって無言で一礼する。

 薄いピンク色の髪が揺れる。目を隠すほど長い前髪の隙間から違和感のある輝きを放つ瞳が見えた。

「あら、ヴィクトリア。どうしたの?」

 ヴィクトリアと呼ばれた少女は特異体の装備と、ぼろぼろになった季節外れの深緑色のマフラーを身につけていた。

 特異体の黒いロングコートは灰色の人の喜怒哀楽の表情が無数に浮かび上がっては消える、を繰り返している。

 武器はハンマーで非常に悍ましい形状をしていた。それは目に優しいピンク色の脳の形をしており、そこから何本も手足が生えていて、それぞれが自立しているかのように動いていた。

「……ケーキ……私……食べたい……お願い……します……」

 機械の振動によって生み出される人工的な声が空間に響いた。電気式人工喉頭を用いたもののようだ。

 ヴィクトリアの表情は長い前髪と口元を隠すマフラーのせいで見えない。

「どうしようかな……」

 八つに切り分けられていたホールケーキはいつのまにか残り一切れになっている。

「……その……ケーキ……なかなか……買えない……食べたい……です……お願いです……シェリル……」

 シェリルは僕を一瞥し、

「いいわよ、この最後のケーキをあげても。──でも、一つ条件があるわ」

 と嬉しそうに言った。

「……なん……ですか?」

 ヴィクトリアは首を傾げて訝しげに訊ねた。

「この子を鍛えてあげてほしいの」

 そう言ってシェリルは僕の頭をペチペチと叩いた。相変わらず力が強いので、僕の脳細胞は叩かれるたびに死んでいく。

 ヴィクトリアが心底面倒くさそうなオーラを漂わせながら僕を見据えた。

「……ケーキの……ため……私……やります……」

「はい、ありがとう。それではヴィクトリアにこのケーキをあげよう」

 満面の笑みを浮かべたシェリルが未使用の皿にケーキとフォークを載せて渡した。


 ケーキを美味しそうに頬張るヴィクトリアを尻目に僕はシェリルに気になっていたことを訊ねる。

「こうなることを予想してたんですか? 皿やフォークが一セット余分に用意してありましたし……」

 シェリルは自信ありげにコクコクと頷いて、

「もちろん。甘党代表のようなヴィクトリアはこのケーキの匂いを嗅ぎつけて突撃するのは分かっていたわ」

 と答えてはにかんだ。

 それから一呼吸置いて、

「私はいずれあなたにホロコーストの誰かをつけて訓練させようと思っていたから、ケーキ一切れでそれが頼めるなら安いものでしょう?」

 と今度は感情を読むのを拒むような先ほどとは対照的な微笑を浮かべて言った。

 会話の途中に訪れる一瞬の間に、ケーキを食べ終えたヴィクトリアが皿をテーブルに置く音が空間に響いた。

 ヴィクトリアがシェリルに、

「……それで……私は……なに……すればいい……ですか?」

 と訊ねた。甘いものを食べたおかげか纏う空気は柔和なものになっている。

「セシリアの強化。内容は問わないから、死なない程度に扱いちゃって」

 そう言ってシェリルは心底に存在する無意識化の脅威を表層に滲ませながらサムズアップしてみせた。

「……分かり……ました……」

 ヴィクトリアはシェリルに対して一礼してから僕の顔を覗き込んで、

「……覚悟……してください……」

 と凄んだ。前髪の隙間から見える違和感のある輝きを放っていた瞳はカメラのレンズのようで、機械仕掛けのぎこちない動きをした。それは僕のつま先から頭まで漏れなく観察している。

 ヴィクトリアが僕と目を合わせたかと思えば、突然彼女の拳が顔面めがけて飛んできた。

 それを間一髪のところで回避して拳は空を切った。

「……いいね……面白そう……」

 ぽつりと言ってヴィクトリアは去っていった。会議室の扉が閉められてからシェリルが僕の肩を優しく叩いて、

「さあ、頑張ってね」

 と言って食器を片付け始めた。

 それから少しの間を置いて、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で囁くように言った。


「──私の期待を裏切らないで」

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