第44話 ネツァクの記憶 後編

 深夜二時──私は三、四階建の建物が連なる街を全力疾走していた。屋根をパルクールのようにアクロバティックな動きで飛び移る。そうする理由はただ一つ。──レジスタンスから逃げるためだ。

 彼らは漆黒の隊服に身を包み、祈りを込めた銀で作られたサーベルを握りしめて私を親の仇のように追っかけ回した。

 早くこの街を出て自然のある場所──森に行きたい。土のあるところであれば、私は異能力の発動による消耗が少なくなるのだ。植物のある場所はすべて私のホームグラウンドになりうる。

 ひたすら逃げ続けたせいで疲労感が足を襲う。それでも私は止まらなかった。ただひたすらに森を目指して夜の街を駆けていく。

 しばらくすると、ようやく自然のある場所に辿り着いた。私は跳躍し、少し離れたところの土に狙いを定め、異能力を発動する。刹那、一斉に土から蔓が生えてきて、私の体を捕らえた。それを利用してレジスタンスと距離を置く。

 一度大きく深呼吸をする。街とは異なる綺麗な空気を肺いっぱいに吸い込んで振り向いた。

 敵は五人。ブラボー部隊が一人、チャーリー部隊が二人、デルタ部隊、エコー部隊が各一人という組み合わせだ。

 私は手を握りしめて、狙いを定めた。小さく息を吐いて集中──異能力を発動させる。

 彼らのいる周辺に蔓が生え、体に絡みついた。サーベルを振り回して切断して抵抗するが、それもすぐに伸びてきて彼らの体を捕らえる。

 絡みついた蔓は体を締め上げて、肉に食い込んだ。それでは止まらず骨にまで及び、へし折って体をバラバラにしていった。

 夜の森に断末魔の叫びが響く。

 これによってブラボー部隊の隊員以外はなす術なく死んでいき、四人は無残な死体に成り果てた。

 私は一人生きている隊員を見据えた。雲に隠れた月が姿を見せる。

 月光に照らされた隊員──それは私の生きる目的となった兄だった。誰もが見惚れてしまうほど整った顔立ちをしている。

「お兄ちゃん……どうして……レジスタンスなんかにいるの……?」

 私の戦意は削がれた。先ほどまで殺意の炎によって熱せられ、沸騰していた血液の温度は一瞬で氷点下まで下がる。

 冷たい汗が背中を伝い、視界が歪む。認めたくない、兄が私の敵だなんて──。

「それはこっちのセリフだよ。なんで吸血鬼になっているんだ? それも──セフィラじゃないか」

 私を一瞥して、

「……ミシェル、ずっと会いたかったよ。──できればこんな形での再開はしたくはなかったがな」

 と僅かに悲哀を顔に滲ませて言った。

「俺は見ての通りレジスタンスの隊員だ。吸血鬼と会敵した場合、逃げることは許されない。だから──ミシェル、お前をここで倒す」

 兄はサーベルを持ち直し、私を殺意のこもった瞳で見据えた。


 私に残ったのは後悔だった。

 目の前には誰だか判別ができないほど惨たらしい状態の死体がある。──私は愛する兄を殺してしまった。

 兄を殺したことは間違いなのか? 私は兄に殺されればよかったのか? 相打ちに持ち込めばよかったのか? どの選択が正解だったのか私には分からない。

 手は兄の血液で汚れていた。それは遅効性の毒となり、私の体を侵食していった。

 罪悪感に押し潰されそうになる。

 涙は出なかった。あるのは私の支配の及ばない底なしの沼を満たす邪悪だけだ。それは私の足を捕らえ、邪悪が支配する沼へと引きずり込もうとする。

 それから救い出したのは、皮肉にもレオンだった。彼の吹雪のように冷たく低い声が脳内に響く。

「さあこれで君は現実改変能力が喉から手が出るほど欲しくなっただろう。これがあれば君の兄の死をなかったことにできるのだよ」

 私の本能が体を操り、レオンに対して片膝をついて敬意を払う。

「酷いじゃないですか……私に現実改変能力を探さないと兄を殺すって脅しておいて……。兄が死ねば、私はそれに本腰を入れなけれざるを得なくなる。……それを狙ってあなたはレジスタンスに私の情報をリークして、兄を殺させたんですよね」

 忌ま忌ましそうに目を細めて愚痴をこぼすと、レオンは私を睨みつけ、

「当たり前じゃないか、そんなこと。言うことを聞かないが、使い道のある駒はなんとしても使わなければ、もったいないだろう?」

 と澆薄に言った。

 私はすべてを理解した。この男はそういう生まれ持った性質なのだ。慈悲を期待してはいけない。


 私はこの日を境に、レオンに勝利を届けるための人形となった。

 体に棲まうもう一人の自分に細心の注意を払い、暴走を起こさぬように行動した。幸いにも吸血鬼になってからというもの、頭蓋骨に詰められた脳は都合よく痛覚を遮断するようになった。これがある私はかなり戦いに向いていた。

 異能を使うことができ、下層とはいえ第七のセフィラである私は勝利の少女になっていた。レオンの命でレジスタンスの隊員を鏖殺したことも数度のことではない。


「死にたくな──」

 それでも私は敗北した。今回ばかりはレオンの望む勝利を届けることができなかった。私の目的である兄の復活もなし得なかった。──失敗だ。

 特異体によって体の一部は食いちぎられ、意識は闇に飲み込まれた。


 第七のセフィラである私──ミシェルの存在はこうして消え去った。兄を殺したせいで生きた証も跡形もなく消失した。

 私に残ったのは後悔だけだった。

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