第34話 イェソドの記憶 前編

 僕はクラレンス。どこにでもいる普通の人間だ。他の人と異なる点を挙げるとするならば、病弱だったということぐらいだ。

 主に気管支の調子が万年悪く、家にいるよりも病院のベッドで横たわっている時間のほうが圧倒的に多かった。

 そんな僕は常に時間を持て余し、天井のしみの数を数えるのが日課になっていた。だが、ある日家族が持ってきた小説を読んだとき、世界が変わった。

 小説の世界に引き込まれたのだ。まるで自分が旅をしているような感覚に僕の乾いた心は潤いを取り戻した。

 内容は今でも鮮明に覚えている。主人公が旅をする物語だった。幾千もの苦難を乗り越えて希望を追い求めるその姿は英雄に見えた。

 何度も何度も繰り返し読んだ。既に展開は分かっていても面白かった。

 いつしか僕は小説を書くようになった。

 長くは生きられない僕に夢を与えてくれた、この作家のようになりたい。そして似たような境遇の人間を救いたかった。


 だがそれは叶わなかった。

 僕は病院のベッドに腰掛け、折りたたみテーブルに原稿用紙や筆記具を乱雑に置いて、窓から外を眺めた。

 息を呑むような美しい満月の夜だった。闇を照らす光に手を伸ばす。届かないのは分かっていても、その美しさに魅力された僕の思考は鈍くなっていった。

 途端に僕は咳き込んだ。口に手を当てており、手のひらから生温かいものを感じ取った。それを見る。──赤い。

 僕の体は結核菌に蝕まれていた。

 ここはサナトリウムだ。結核菌に冒された僕は、この世界と乖離した場所に閉じ込められたのだ。

 今の医学では結核を治す画期的な治療法は確立されておらず、罹患したら最後、人里離れた場所に隔離されて死を待つだけとなる。

「……僕には才能がないのか」

 僕は無意識のうちに言葉を漏らした。

 出版社に持ち込むこと数十回。だが掲載に至ったことは一度もなかった。僕は体が弱いことよりも小説家の才能がないことを恨んだ。

 まもなく僕の体は彼岸へと向かう。

 体調は日に日に悪化していき、ペンを持つこともできない日が増えた。

 ベッドで横になって窓の外を眺める。

 ふと涙がこぼれた。

「……僕の人生ってなんだったんだろう」

 小さく漏らしたその言葉は誰かに聞かれることもなく空に消えていった。


 その日の晩、すべてが変わった。

 一度眠ったら朝まで起きない僕が、珍しく真夜中に目を覚ました。体調は悪いことに変わりはないが、普段よりも元気だった。

 僕はベッドから起き上がり、窓から外の景色を眺めながら、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 この日も満月だった。

 背後に気配を感じた僕は振り返る。そこには闇と同化した一人の男性が立っていた。異性愛者である僕でも惚れてしまうほどの美丈夫だった。

 穢れのない白い髪、新雪のような肌。その姿とは似つかわしくない真紅の双眸が僕を見据える。その瞳には僅かな慈悲と、宇宙のように無限に広がり、膨張し続けている漆黒の闇があった。

 男性はこう名乗った。──レオン。

「君は救済されたいかい?」

 静かに発せられたその言葉が狭い空間にこだまする。声の温度は限りなく絶対零度に近く、澆薄なものだった。

「救済……?」

 僕は首を傾げた。レオンは死を待つだけの存在となった僕の体に巣食う結核菌を消し去ってくれるのだろうか。

「私も昔は病弱でね。人生のほとんどを病院で過ごしていたのだよ。当然、いいこともあったが、それ以上に悪いことがあったのだよ。……だが私は望まぬ形ではあったが、救済された」

 レオンは羽織っている黒のロングコートの袖をまくって、前腕に爪を立てた。手入れの行き届いている長い爪は皮膚を破り、血管を傷つける。

 じわじわと血液があふれた。しかしそれは血液と呼ぶべきではない墨汁のような黒色をしている。

 レオンは出血した前腕を見せて、薄幸に笑った。一拍置いて、

「この最強の肉体を手に入れたのだよ」

 と言って、愛猫を撫でるかのように傷に触れると、瞬く間に傷は治癒していった。

「君にいくつか選択肢を与えよう。一つ目、私の“希望”で吸血鬼になって、私から与えられた生を享受する。二つ目、痛みを伴って、この世のありとあらゆる苦痛から解放される。三つ目、私に無残に食い殺されて死ぬ」

 レオンは僕との間合いを一瞬で詰めて、頬に触れた。

「さあ、どれがいい?」

 呑み込まれてしまいそうな闇を宿した瞳が僕を見つめる。

 僕の答えは既に決まっていた。

「一つ目がいい」

 夢を叶えるための時間を稼ぐために僕は吸血鬼になる未来を選んだ。

「分かった」

 そうぽつりとレオンが言うと、内面の読めない笑みを浮かべ、僕の首に爪を立てた。同時に手は黒く変色し、液体となって僕の体を侵食していった。

 首から背中にかけてミミズが這うような不快な感覚を味わい、掻きむしった。皮膚を剥ぎ取るように爪を立て、血を流す。

 この後に来るものと比べれば、これはまだマシだったのだ。その不快感が去ったかと思えば、全身の細胞が燃え上がるような激痛を感じた。

 耐えられず床に倒れ込んで、その痛みから逃れようとのたうち回った。死を羨望したことは後にも先にもこの一度限りだった。

 レオンはその光景を恍惚とした表情で眺めたかと思えば、すぐに興味をなくし、折りたたみテーブルの上に散乱した原稿用紙を手にした。


 その痛みから解放された僕の視界に、窓外の夜空に浮かぶ満月が入った。月の位置は先ほどと少ししか変わっていないようで、時間はあまり進んでいないことを理解した。そしてその月は返り血を浴びたかのような、レオンの瞳のような月だった。

 そこに温度を感じさせない声でレオンが口を開いた。こちらには一切の視線を送らなかった。

「やあ、ようやくお目覚めかい?」

 左手には綺麗にまとめられた原稿用紙の束があり、右手で一枚一枚ページをめくって文字を眺めている。紙が擦れる音が静寂な空間に響く。その音は異様なほど大きく感じられた。

「なかなか面白く書けているじゃないか」

 レオンは僕と目線を合わせ、少しだけ人間らしい感情を顔に滲ませて言った。

「……ありがとう……ございます」

 無意識に言葉が発せられる。

 呆然としている僕から視線を逸らすと、レオンは原稿用紙の束を元の場所に置いて、一度指を鳴らした。

 黒い霧が漂い、それが晴れたときには既にレオンはそこに存在しなかった。

 

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