第35話 イェソドの記憶 中編

 レオンが消えてから二時間ほど経った頃、僕は猛烈な空腹感に襲われていた。喉の渇きも感じ、いち早く胃に食物を入れたくて仕方がなかった。

 居ても立っても居られない僕は部屋を出て、隣の部屋へと飛び込んだ。蝶番が破損し、音を立てて扉が吹っ飛んだ。蹴ったところに亀裂が入っている。

 自分の身体能力の高さに驚愕した。僕はロクに運動もしていないので、筋肉の出力はたかが知れている。それでも一撃で部屋に侵入できた。

 この音で、ベッドで寝息を立てていたまだ若そうな男性患者が目を覚ました。上半身を起こして眠い目をこすり、咳き込んだ。

 僕は一切の躊躇なく飛びかかって、首に噛み付いた。首を狙ったことに意図は存在せず、ただ本能がそうさせただけだった。

 頸動脈に傷がつき、鮮血が噴き出した。

 互いの白い病衣が赤く染まる。

 呆然として目を見開いた患者の瞳に僕の姿が映る。目が血のように赤く染まっているということ以外、外見の特徴に変化はないようだ。

 我に返った患者は出血を止めようと噛まれた首を押さえた。だが、肉が抉れているせいでその行為はまったく意味をなさない。

 僕は気にせず患者を食い殺した。

 本能のまま胃に人肉を詰めて食欲を満たす。一心不乱に僕の体は人間を食べる中、僕の意識は体から乖離していた。汚く食い散らかしている自分を俯瞰し、嫌悪した。

 眼球をほじくり出し、眼窩に指を沿わせる。弾力のある眼球は噛むとグチュりと簡単に潰れた。

 耳を引きちぎると、口に入れて咀嚼した。軟骨、耳たぶ問わず食感はイカに似ており、コリコリとしていてよかったが、なかなか噛み切れない。噛むたびに人間特有の味が染み出した。

 髪の毛は食べられないので、頭皮を剥がして一掃した。そして頭蓋骨を叩き割った。中に詰まっているピンク色のウニを掻き出して口に入れた。ぷよぷよとしており、濃厚な味だった。

 顎をかち割って舌に噛み付いた。唾液はほとんど分泌されておらず、舌はパサパサと乾いていた。だがそれも気にせず僕は舌を噛み切った。耳よりもコリコリとした食感で、味もよかった。

 元の人物が判別できないほど無残な状態になったので、次は体だ。僕は死体となった患者の病衣を剥ぎ取り、体の中心に爪を立てる。人差し指の第二関節まで体に刺すと、下へと引いていった。すると布製のティッシュケースのように割れ目ができた。

 僕はそこに手を突っ込んで、適当な臓器を掴んで引きずり出すと、それは肝臓であることが分かった。

 口に入れるが、ねっとりと血の味がして、僕の口には合わなかった。

 かじられた肝臓は空き缶のように床に投げ捨てられる。そしてベチャという汚い音を立てた。

 臓器を片っ端から食べていく。心臓や胃袋の食感はよかったので、また食べたいと思った。他の臓器は食べるものがなければ食べる、程度のものだった。要するに極力食べたくはないのだ。美味しくはないから。

 四肢も食べるが、この体が男性のものということもあり、肉は赤身が多く、あまり好きにはなれなかった。

 そうやって食べ進めて残ったものが一つだけある。──生殖器だ。

 さすがにこれは食べる気がしなかった。


 空腹を満たす頃には外は明るくなっていた。自室に急いで戻った僕は本能から日光を避けて、ベッドの下に隠れた。

 騒ぎになるかと思いきや、まったくそのようなことにはならなかった。それもそうだ、この施設はサナトリウムで、皆近いうちに死ぬ運命にあるのだから。患者の一人が無残な死体で発見されても、なんら問題はないのだ。

 それから数日後、僕はこの施設から逃げ出した。吸血鬼の仕業だと気づいた人が、対吸血鬼部隊──レジスタンスに報告したのだ。

 山へと追い立てられた僕は日中は樹洞に隠れて息を潜めた。幸いにも僕は平均的な成人男性よりもかなり小柄なので、隠れることは容易だった。

 恐怖に体は硬直していた。服に虫が入ってどれほど不快であっても、身じろぎ一つせずに、呼吸も極力しないで過ごした。一刻も早く夜が──我々の時間が訪れることを願って。

 そして夕刻を過ぎた頃、僕はようやく樹洞から這い出た。体には土や葉っぱが付いて汚れている。

 それから僕は夜を駆けた。走って、走って、走って──足の筋肉がちぎれてしまいそうなほど全力で走った。

 こんなにも走っても、多少の息切れこそすれ、心臓は苦しくならない。人間だった頃の身体能力を超越していたことに歓喜した。

 下山すると、小さな村に出た。家はまばらに建てられており、隣人は百メートルは離れているというような過疎地だった。家以外にあるものは畑だけで、代わり映えのしない風景が延々と続く。どうやらこの集落は小麦を農作して生計を立てているようだ。

 僕は服についた汚れを払い、近くの家の扉を優しく叩いた。

 すると中から齢一桁の女の子供が出てきた。その子は酷く痩せ細っており、飢餓状態となっていた。そして外気に晒されている四肢は絵の具のパレットのように色とりどりな痣で埋め尽くされている。

 この子以外に人間の臭いはしない。

 幼女は恐怖に身を震わせる。目は虚ろで生気が感じられない。そして驚いたことに、幼女が恐れているのは僕ではなく、他の誰かだった。

 僕は幼女をよそに家に押し入った。入ってすぐのところにある部屋は真っ暗で、割れたガラスの破片が散らばっている。どうやらそれはランタンの覆いに使われていたガラスのようで、近くにランタンの枠になっていた金属の部分が落ちていた。

 金属は床に叩きつけられたようで、ところどころひしゃげていた。

 部屋に入ると、大人二人でも狭くない大きさのベッドが一つ置いてあった。シーツには血が付いており、性欲の臭いがまだ濃く漂っている。

 嗅覚を働かせると、幼女とこの部屋の臭いが一致した。

 僕は幼女に訊ねる。

「こんな夜更けに貴方はどうして一人なんですか? いくら田舎とはいえ、危険だと思います」

 すると幼女は、

「パパはどっか行っちゃった。ママはもう死んじゃった。だからわたしひとりなの。でも大丈夫。もうすぐパパ帰ってくるから」

 と気丈な声で答え、顔に笑顔を貼り付けて笑った。

 僕は悲しい気持ちになった。

 すべてを理解したからだ。

 この幼女は父親から性的虐待を受けている。父親は人間の底辺──否、人間と呼称するのもおこがましい存在による家庭内暴力で、母親は自殺したのだろう。

 家庭環境を推察するにはこの家はあまりにも臭いが残りすぎている。吐き気を催すような邪悪が立ち込め、精神が汚染されていくのが分かった。

 僕は幼女の頭を撫でて、

「もう大丈夫ですよ。僕が助けてあげますから、安心してください」

 と言って抱きしめた。

 その瞬間──幼女の頭が床に転がった。

 僕の手に血液が付く。断面からも血液が噴き出し、血の雨を浴びる。

 幼女の目は変わらない。虚ろで、なにかを恐れたままだ。

 体を離すと、頭を失った幼女は糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。

「死も一種の救済でしょう?」

 そう同調を求める言い方で幼女に訊ねた。もううんともすんとも言わない死体は答えることなく虚空を見つめている。

 そして僕は幼女を食べた。やはり思った通り、女の体は美味しかった。自身が浄化され、夢見心地を体験した。


 朝日が昇る。僕はベッドのある部屋のカーテンを閉め切って、日中を過ごした。

 正午を少し過ぎた頃、一人の男性が家に来た。彼は酒臭く、足取りも覚束なく、酷く酔っ払っている様子だ。

 男性は玄関に転がっている幼女だったものを見ても、なにも驚かなかった。ゴミが落ちている、程度の認識なのだろう。

 臭いで判別した僕は部屋から飛び出して男性を襲った。首を薙ぎ払って、頭が宙を舞う。一瞬の出来事で、男性はなにが起きたのか分からないようで、呆然と僕を凝視していた。

 僕はこのクズも食べた。だが、一口食べたとき、猛烈な吐き気を催し、嚥下することなくその場に吐き出した。

 とても食べられたものではない。

 僕は男性の死体は放置し、幼女の死体だけを持って山へと行き、土に埋めた。そして手を合わせる。

 僕は理解した。自分がすべきことを。


 

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