第32話 第九のセフィラ戦 前編
一進一退の攻防を繰り広げる。一瞬でも気を抜けば僕の体は簡単に壊れてしまう。ただでさえ肋骨を折られているのだから、もう一発胴体に当たったら動けなくなるだろう。
神経を張り詰め、反撃の機会を窺う。
右足で上段に回し蹴り。その足を軸にして左足で中段に後ろ回し蹴り。続いて体を捻って右の拳が僕の顔を狙う。
ナイフで攻撃を一つずつ受け流していく。素手でこれをしたら、こちらの腕がひしゃげるだろう。
イェソドの皮膚が切れ、鮮血が散った。だがその傷も僅かな時間で修復され、意味をなさなかった。
「いい加減死んでくれ! お前が死なないと僕がレオン様に殺されるんだよ! 死にたくない! まだ僕は死にたくない! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──」
イェソドは一度大きく息を吸い、言葉とともに吐き出した。
「──異能力『異形の教祖』」
同時に自身の腕を引っ掻き、血を流した。鮮やかな赤は液体生物のように蠢き、龍のように宙を舞ったのち、名状しがたい生命体へと変貌した。
「小説の世界には飛ばせないけれど、小説の世界からこちら側に持ってくることは何度でもできる! だからお前はここで死ぬ! 死刑だ!」
物体はイェソドを庇うように僕の前に現れた。体は僕よりも非常に大きく、この空間が狭く感じられた。
体表に無数の目を持ち、触手が何本も生えている。肌はてらてらと粘度のある透明な液体を纏っており、動くたびにぐちゃりぐちゃりという不快な音を立てる。嗅いだことのないような強烈な腐敗臭を漂わせている。
その悍ましい生命体に僕は恐怖した。この世に存在してはいけない、空想上の生き物が、異能とはいえ目の前にいるのだ。
本能は今すぐにでもこの場から逃げ出そうとするが、理性のほうがまだ優位を占めており、戦うことを肉体に命じた。
恐怖からナイフを握る手は震え、うまく力が入らない。
「さあ、死ぬ前に何か言い残したことは?」
イェソドが目を細めて侮辱するようにくつくつと笑い、ゆっくりと手を前に出した。小さく息を吐いて、指を曲げた。
同時に生えている触手が一斉に飛んできた。
横に転がってすべて避ける。僕を捕らえようとした触手の何本かは空を切る。残りは潰そうと床に叩きつけられ、亀裂が入る。
連続で触手が飛んでくる。僕はナイフで応戦するが、皮膚がぬるぬるしていて刃はまったく通らない。
表皮を覆う粘液が刃に付着し、その部分が煙を出して溶けていった。
「おいおい、金属が溶けるのかよ……」
一撃たりとも当たることは許されないこの戦いに僕は戦慄した。使い物にならないナイフを床に投げ捨て、大きく深呼吸した。
──当たったら生きて帰れない。すべての攻撃を確実に回避し、ホロコーストの二人が来るのを待とう。
連続して触手は僕を捕らえようとするが、回避に専念しているので捕まるはずがない。しかし既に体を損傷しているせいで動きはだんだんと鈍くなっていった。
脇腹を押さえ、小刻みに呼吸する。すると幾分か痛みが和らいだ。これならまだ戦える。
勝ち目のない戦い。僕は必死に負けないように時間を稼いでいたが、体力の限界だった。脇腹の腫れが酷く、息をするたびに痛んで、呼吸もしづらくなってきた。足は金属をつけているかのように重く、跳躍での回避が難しくなってきている。
呼吸が浅くなっていたせいで酸素が全身に行き渡らない。足取りが重く、触手を回避に最低限の動きで対処した。そのせいで服を触手がかすめ、粘液がついた部分が溶けていった。
「そろそろ限界のようですね」
イェソドが生命体の後ろから現れ、こちらにゆっくりと歩いてきた。すっかり冷静さを取り戻し、知性のある生物になっていた。
脇腹を押さえて睨むが、イェソドはまったく気にも留めず、侮蔑した態度で僕の顔を覗き込んだ。
「チェックメイトだ、お嬢さん」
イェソドは腰を捻り、蹴りを放つ。
僕にはそれを避けることはできなかった。蹴りは胸部を捕らえ、体が宙に浮いた。またしても体内から嫌な音が鳴った。
受け身も取れずに壁に叩きつけられ、肺にある僅かな空気も吐き出した。咳き込んですぐさま呼吸を再開しようとするが、間髪入れずに触手が飛んできて僕を捕らえた。
壁と触手に挟まれて逃げられない。粘液は服をじわじわと溶かした。死へのカウントダウンが始まっている。
「体が溶けて死ぬというのはきっと……とても苦しいのでしょうね。僕は絶対に味わいたくないです」
肌が晒され、直接粘液が付着した。皮膚は容易に溶け出し、痛覚をヤスリで削られるような激痛を感じた。
叫ばずにはいられない。蓄積された疲労も核爆弾を落としたかのように消し飛んだ。ただ痛みを和らげるために本能で叫んだ。喉が痛む。肺が悲鳴をあげる。それでも叫んだ。目の前の苦痛から逃れるための無意味な行為を愚かにも実行した。
目を見開いて、死を渇望する。
「貴方は不愉快な存在だ。だからできるだけ多くの苦痛を与えてから殺す。──だからまだ生きていてください」
イェソドは手を下ろし、腕を組んで僕を見据えた。その声はまったく感情が入っていない無機質なものだった。
同時に触手から分泌される粘液の量が著しく減少した。幾分か痛みは和らぐが、依然として状況は改善されない。
僕が苦痛に喘いでいるのをイェソドは少しだけ愉快そうに見てから再び触手から粘液を分泌させた。
その瞬間、痛みは加速度的に増加し、意識を失いそうにはなるが、最悪なことに耐えてしまった。この苦しみから少しでも早く脳を遮断させたいが、どうやら神はそれを許さないようだ。
刹那、僕の体は人形のようになって床に転がった。何が起きたのかは分からないが、とりあえず触手からは解放された。痛みも僅かながら和らいだ。
視界の端から黒が闇のように侵食してきた。
僕はそれから逃れられず、意識は闇へと引きずり込まれた。
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