第31話 ホドの記憶 後編

 意識が戻った。俺は床でうつ伏せで倒れていた。

 手の傷は完全に治癒しており、元々傷などなかったかのような見た目だ。痛みもまったくなく、握力にも問題はない。

 体を起こして部屋を見渡すが、レオンは既にいなかった。

「……すまない」

 俺の声は静寂に包まれた空間に虚しく響くだけだった。

 エレンを忘れていたことに対する罪悪感が、地下深くにあるマグマのように湧き上がる。同時に脳──思考をノコギリで切られるような感覚を覚えた。まるで彼女が実行しているように。

「エレン……俺はあなたを覚えている、覚えている、忘れてなんかいない、だからもうやめてくれ……」

 頭を抱えてうずくまる。


 体にあるすべての水分が涙として流れ出すようなほど泣いた。罪悪感に苛まれ、夜を明かした。朝日が昇り、窓から日が差し込む。

 俺は日光がどうにも嫌で嫌で、ベッドに戻って布団を被った。全身を覆い、眠りにつく。

 日が沈むと目が覚めた。体を起こそうとするが、異様に重かった。

 丸一日何も食べていないのだから当然だが、次の瞬間、猛烈な空腹感に襲われた。胃が、脳が、本能が食べ物──肉を欲した。それも人間の肉だ。

 今まで食べたことがないのに、それが至高の食べ物だということが本能に刻まれている。考えるだけで涎が垂れた。

 俺は家を飛び出した。そして最初に視界に入った人間を襲った。その人は二十代前半の女性だった。

 欲求が満たされるこの幸福。飢えを恐れていた俺にとってこれは一種の薬物のようなもので、あっという間に脳はその薬物に支配された。

 どのように殺したかは覚えていない。気がついたらそこに原型を留めていない無残な死体があった。──エレンの屍を思い出す。

 今ならエレンを殺した吸血鬼の気持ちを理解できる。食人という行為でこれほどの幸福が感じられるのなら、大切な人だって食い殺してしまいかねない。

 飢えから解放された俺は我に返って死体を見る。そして自分の手を見る。月明かりに照らされて赤色がてらてら光った。

「……俺の負けか」


 それからは欲求を満たすためだけに人を襲った。飢えから逃れるためだけに幾千の人間を犠牲にした。

 ある日、里帰りして出産した妻が赤子を抱きかかえて帰ってきたが、飢餓状態になっていた俺は妻子だと認識できず、食い殺してしまった。

 判別不能な死体となった妻子を前に俺は絶叫した。神はなぜ俺にこのような仕打ちをするのか。俺が一体、何をしたのだろうか。

 しばらくして連絡がつかなくなったことを心配し、俺のところに仲間が訪れた。

 吸血鬼となった俺はその仲間も食い殺した。ホロコースト部隊に所属していただけあって、戦いには慣れていた。そして今の自分には人間を超越した身体能力がある。負けるはずがなかった。

 異能が発現した俺の元に再びレオンが現れた。彼は不吉な笑みを浮かべ、手を黒く変色させるとそれは液状の生物のようになり、俺の体を改造した。

 背中にはセフィロトの樹、左目の下には[Hod]の文字が印された。眼球を抉られ、一瞬眼窩を晒したのち、新たな眼球を入れられた。新しい眼球は少し冷たく、皮膚が粟立つ。そして髪の毛一本一本に黒血がまとわりつき、橙色に変色した。

 そして黒血を耳から摂取させられた。痛みは初めてのときより幾分かマシだが、それでも凄まじい苦痛を味わった。痛みもそうだが、耳から入ったことで脳が掻き混ぜられるような強烈な不快感を覚えた。

「……なんのつもりだ?」

 体が順応し、痛みから解放された俺は地面を這ってレオンの足首を掴んだ。手に自然と力が入る。

「強い君を私の直属の部下にしただけじゃないか。ちょうど第八のセフィラが殺されてしまったのでね、次の駒が欲しくなったのだよ」

「部下にしてどうするつもりだ?」

 俺はレオンを殺意の篭った目で睨みつけるが、それはなんの意味もなさなかった。

 レオンは咳払いをし、

「君に現実改変能力を持つ者を探してほしいのだよ。それは吸血鬼の異能でもいいし、特異体でも構わない」

 と機械のような感情のない声で言った。

「特異体?」

「科学では解明できない不可解な現象を引き起こす存在のことさ。そうだね……例えば──吸血鬼を生み出す、とか」

 口角を上げ、不敵に笑った。

「どうやったら見つかるんだ?」

「その前に──」

 レオンは一度指を鳴らし、

「──跪け」

 と氷点下のような声で吐き捨てるように言った。

 すると床を黒血が触手のように這って、四肢と胴体に絡みついた。そして操り人形のようにし、強制的に片膝をつかせる。

「私は君の上司なのだよ。だから口の利き方には気をつけるべきだと思わないかい? その程度の知性はあるのだろう?」

 レオンが目を細めて笑うと、それが合図のように巻きついた黒血が体を締め上げた。皮膚が裂けて血が滲む。肉が切れて血が噴き出す。そして骨が晒された。

 骨も折られ、上半身と下半身で両断された俺は姿勢を保てず電源の切れた機械人形のように床に転がった。

 鮮やかな赤が床に花を咲かせる。

 脈を打つたびに激痛が走った。呻き声を上げ、浅い呼吸をして痛みを和らげる努力をするが、あまり意味はなかった。

 切断面から鮮血が溢れ出る。いつもならこの程度は即座に治るはずだが、なかなか下半身や四肢は生えてこない。

 背中を嫌な汗が伝う。

「この“希望”も特異体の一つだ。特異体によって負った傷はなかなか治らないのだよ」

 黒い触手になっていたものを元の白い手に戻し、くつくつと笑った。

「希望?」

「君たちが言う、黒血というものさ。私はそれを“希望”と呼んでいる。そもそも特異体に正式名称なんてものはないのだよ。君たちが勝手にそう名付けたにすぎない」

 俺に侮蔑の視線を向けて言った。

「……分かりました。それで俺はこれからあなたの望む、現実改変能力を探せばいいんですね?」

 レオンはコクコクと頷いて言う。

「その通りだよ。せいぜい私の期待を裏切らないで──」

「──俺がお前なんぞの言うことを聞くと思ったか? 俺の大切なものを奪っておいてタダで済むと思うなよ!」

 俺は手を集中して治し、膂力だけでレオンに飛びかかった。下半身はないままなので体は軽かった。

 だがレオンはそれをまるで分かっていたかのように体を捻って避けた。俺はそのまま前方に飛んでいく。受け身を取ろうとするが、体は宙に浮いたままで床には届かない。

 ──床から生えた一本の黒い棘が胸を貫通していた。

 一拍置いて猛烈な痛みが走った。レオンは吸血鬼がこれでは死なないことを知って実行したのだ。

 宙に浮いたまま俺は棘を抜こうともがくが、その行為はまるで意味をなさない。体は重力に従って少しずつ下に落ちていく。円錐の形をした棘によって傷が広がった。

 痛みに喘ぐ俺を尻目にレオンは、

「現実改変能力があれば、君の大切な人を“死ななかった”ことにすることもできるのだが……それでもやらないのかい?」

 と嘲笑して言った。


 気に食わないが、俺はレオンに従うしかなかった。なぜなら俺が従順になって頷くまで、痛めつけられたのだから。

 俺は体は黒血に拘束されており逃げられない状態で、手足が生えてくるたびにそれらが切断された。俺はそれを十回は耐えたが、これ以上は精神が壊れてしまいそうで、諦めたのだ。

 それからは簡単だった。レジスタンスと接敵したら殺す。欲求を満たすためだけに善良な市民だろうが罪人だろうが関係なしに殺す。レオンの命令通り、現実改変能力を探す。これの繰り返しだ。

 ──だが、現実改変能力は見つからなかった。


 ──思えば俺の人生ってなんだったんだろうか。こんな世界、クソ食らえだ。神の存在なんざ一ミリたりとも信じちゃいねェが、この対応は少し辛辣すぎるだろ。

 意識が遠のき、思考ができない。

 ──エレン、俺は悪いことをしてしまった。だからそっちでは会えそうにない。だから──。

 ──また来世で。今度はどこか平和な世界であなたと出会いたい。


 俺はこの世から消滅した。

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