第30話 ホドの記憶 中編

 俺はある日、エレンに一つの質問をした。

 不定期にアタッシュケースを持って仕事に出かけるのがずっと気になっていた。ついでに少し前に肩を負傷した理由も知りたかったのだ。

「エレンはなんの仕事をしているんですか?」

 俺がそう訊ねると、エレンは微笑んで、

「人の願いを叶えるために戦う仕事よ」

 と答えた。

 当時の俺にはその意味は分からなかったが、戦うということに興味を持った俺はエレンに土下座して戦い方を教えてもらった。

 ナイフを使った戦い方、拳銃を使った戦い方、素手での戦い方。この街で暮らしていくのに必要な技術を会得した。

 そんなある日、珍しくエレンと仕事の前に会話した。いつもは俺が起きる前にいなくなっているのに。

「今日の夕飯はハンバーグがいいな。ガブリエル、作ってくれる?」

「もちろん。エレンが食べたいものならなんでも作ります」


 それがエレンとの最後の会話だった。

 ハンバーグを作ってエレンの帰りを待っていたが、いつになっても帰ってこない。日付が変わって、日が昇った。それでも帰ってこない。俺は一人で食卓テーブルで待ち続けた。とっくに冷めたハンバーグを前に。

 すると電話がかかってきた。

 エレンだと思ってすぐに出たが、違った。相手の声は低く、口調からして壮年の男性だろう。誰だ、と訊ねると彼は警察と答えた。

 そこで俺の目の前は真っ暗になった。

 ──エレンが亡くなった。

 俺はすぐに遺体が安置されている病院に向かった。人生で二度目の筋肉がちぎれそうなほど走った。

 霊安室でエレンと再会した。彼女はもう冷たくなっている。頭は砕かれ、眼球は抉り取られており、体もあちこちかじられて無残な状態だった。

 思考が停止した。

 エレンは俺の人生のすべてだった。それを失った俺はもう生きるのが嫌になって、気がついたら近所の自殺の名所になっている橋に来ていた。

 橋の転落防止柵をまたぎ、下を見る。

 ここから飛んだらまたエレンに会える。そう信じて飛び降りようとした次の瞬間、

「待って!」

 と俺を止める声が聞こえた。聞き慣れた、安心する声だ。

 振り向くがそこには誰もいなかった。

「……エレンは死んだんだ」

 目から大粒の涙がこぼれる。

「……だから俺も死のう」

 飛び降りようと体を前に倒す。目を閉じて、またエレンに会えることを願った。──だが、いつになっても落ちはしなかった。

 痩身の中性的な顔立ちの女性が俺の服の襟を掴み、落下を防いだのだ。

「死ぬ前に一矢報いようとは思わないのかい?」

 低めの声で言葉が発せられた。女性の腰には二本のサーベルを携えている。

「……なにに一矢報いるんですか?」

 俺は涙でぐちゃぐちゃになった顔に震えた声で訊ねた。

「あれ? 聞いていないのかい? あなたの扶養者を殺したのは吸血鬼なのだよ。だから、その吸血鬼をぶち殺してやろう、とか思わない?」

「……吸血鬼?」

「そう、吸血鬼」

 女性は目を細めて言葉を繰り返した。

「吸血鬼って空想上の生き物なんじゃないんですか?」

「皆そう言うんだよね。馬鹿みたい。まあ、それを言っていられるのは被害を受けていない平和ボケした人間だから、ある意味幸福かもしれないね」

 女性は顔に憎悪を滲ませた。

「吸血鬼は実在する。それであなたは被害を受けた。だから報復する。人の感情としてごく自然なものだとは思わないかい?」

 一呼吸置いて、

「私は吸血鬼を殲滅する組織の人間だ。あなたにやる気さえあれば、報復のために手助けをしてあげようと思う。──どうする?」

 と俺に選択を委ねた。

 既に答えは決まっている。

「お願いします!」

 頭を下げた。


 またしても生活はがらりと変わった。毎日早朝に起きてランニング。朝食を済ませたら戦闘の訓練。昼食後には座学。黄昏時まで筋肉を鍛え、夕食を食べ終えてしばらくしたらまたランニング。それの繰り返しだ。

 それを一年行ったら、女性の言っていた吸血鬼を殲滅する組織──レジスタンスへの入隊試験の受験資格が得られた。

 入隊試験の地獄のような三日間を過ごし、ぼろ雑巾のようになったが生還した。

 こうして俺はレジスタンスの隊員になった。祈りを込めた銀で作られたクレイモアを片手にいくつもの死線を超えていった。


 数年を経て俺はレジスタンスの最終兵器──ホロコースト部隊に所属した。ここまでくると、多くの人から尊敬の眼差しで見られ、神か仏のように崇拝された。この頃には俺の記憶からエレンの存在は消えつつあった。

 共に死線を越えていった信頼できる仲間が沢山できた。だから今の俺にエレンの存在はもう必要なかったのだ。

 そんなある日の夜、俺の元に一人の男──否、吸血鬼の頭であるレオンがやってきた。同性の俺から見ても惚れそうなほど綺麗な顔立ちに品のあるたたずまいだ。

 レオンはくつくつと笑ってから、

「こうも調子に乗っては彼女も報われないね」

 と冷酷に言った。

 次の瞬間には俺は素手で殴りかかっていた。だがそれがレオンを捕らえることはなかった。

「君では私を殺せない」

 レオンの手が変形し、棘となって俺の拳に突き刺さった。それは肘まで到達していた。同時に耐えがたい激痛が走り、本能が感じ取った危機により脳内で警報が鳴り響く。

 突き刺さった黒い棘は腕の中で蠢き、俺の体を侵食していった。

 死んだほうがマシだ。死にたい。いっそのこと殺してくれ。

 ──そう何度願っただろうか。

 その苦しみは脳が痛みに耐えきれず、保護するために意識を遮断するまで続いた。

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