第8話 それは数字になっている
夜空が綺麗だ。ミカエラと不仲になった日の夜もこうだった。
僕は今、寮から少し歩いたところにある墓場に来ている。墓場といってもそれは教会の建物になっており、祭壇の部分に色とりどりの花が手向けられている。
月明かりがステンドグラスを通して床に華やかな絵を描く。
側面の壁にはこれまでに戦死した隊員の名が刻まれている。
幾千もの屍を築いてもなお、レオンを殺すには至らなかった。
新しく刻まれた名を見る。四十六人は僕が知る名だ。
[Michaela]
やはり彼女はあの幼女に食われて死んでしまった。
僕は花と名札を一緒にして祭壇に置いて手を合わせた。
「唯一神の救いがあらんことを」
僕の生まれた地で広く信仰されていた宗教の決まり文句だ。それを最後に言ったのは、僕の救いである優しい隣人に対してだったような気がする。
「セシリア」
僕を呼んだのはアンジェラだった。
「久しぶり。シェリルから聞いたよ。レジスタンス入隊おめでとう。これから共に任務を遂行することもあると思うし、改めてよろしくね」
相変わらず面には笑顔を貼り付けている。
「結局ミカエラと仲直りはできなかった、と。あなたはそれを後悔してここにいるのでしょう?」
口元を隠して笑い、
「わざわざ彼女の名札‘だけ’を回収してくるなんて、あなたもいいところがあるではありませんか」
と褒める。
僕が視線を落として訊ねる。
「……吸血鬼に殺されるのは一体どれほどの苦痛なのですか? ……彼女は生前、僕にこう言いました。吸血鬼に家族を殺してくれた礼に体を差し出そうかな、と。まさかそれが現実になるなんて思わなくて……」
アンジェラは目を細めて、
「本音と建前、どちらからがいいかしら」
と選択肢を与えた。
「……とりあえず建前で願いします」
「では私は死に方による、と答えますね。生きたまま臓器を引きずり出されたら、それは私たちでは理解のできない苦しみがあるでしょう。そのときに脳や心臓を損傷しなかった場合、失血死かショック死するまで、その苦痛が半永久的に繰り返されます」
一呼吸置いて、
「逆にレオンや上層セフィラが行うような攻撃方法でしたら一瞬ですね。苦痛はおそらく無いに等しいでしょう。目を閉じたらもう二度と開きませんでした、だってもう目は疎か頭は原型をとどめていないのだから、ということですから」
昼の出来事を思い出す。
特異体を消し飛ばしたあの攻撃。あれだけ離れていたのに僕の頭部を確実に粉砕しにきていた。
視点が動かない僕を見る。
「レイチェルから聞きましたよ。あなた、随分と無茶なことをしたそうですね。それに……銀の弾丸を無許可で持ち出した、と」
相変わらずアンジェラの顔は笑っている。だが声のトーンは低くなると、僕の皮膚が粟立った。続けて、
「明日からの任務を終えたら、始末書を覚悟しておいてくださいね。私としてはこのようなことはどうでもいいのですが、スカーレットやシェリルの耳に入ったら大変ですよ」
レイチェルはもちろん、スカーレットもアンジェラと同じホロコースト部隊所属の隊員だということを聞いた。
万が一知られた場合、シェリルにされることは大方予想がつくが、スカーレットに知られた場合はなにをされるのだろうか。
──知られませんように。
「アンジェラ、本音の方も聞かせてください」
これでアンジェラの思考を少しは理解できるだろうか。
するとアンジェラは額に手を当てて唸る。
「本音……シェリルと似たような考えのもとたどり着いた答えです。……それでも聞きたいですか?」
僕がコクリと頷くと、渋々話し始めた。
──死とは神より生命体に与えられた最も平等なプレゼントである。何人たりともそれを拒否することはできない。
──しかし疑問がある。死とは一体、どのようなものだろうか。その前に生とは一体、どのようなものだろうか。多くの細胞が一つになって自分という概念を構成している以上、それを一つずつ切除していった場合、そこには何も残らない。自分はそもそも存在しないということになる。生と死が一対に存在するものと仮定すると、こうして生がなくなってしまっては同時に死もなくなるということ。
「──ゆえに私は吸血鬼に殺されるときの苦痛はそもそも存在しないと考えております」
「……ありがとうございます、アンジェラ」
話は究極に長く、理解するのに僕の頭が糖分を要求する。だが仮に糖分を与えたとしても、アンジェラの思考回路は理解するこはできないだろう。
「とは言っても、現実的には私たちは生きているし、どのように立ち回ったとしても確実に死が与えられますからね」
アンジェラがクスクスと笑う。
「お互い頑張りましょう。あの忌々しい男を殺すために」
そう言って手を差し出した。僕はその手を握る。
武器を握り、幾度となく剥がれては皮膚を再生していた手は少女のものとは思えないほどに硬くなっていた。
「はい、よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、アンジェラは少しだけびっくりした表情を見せた。だがそれもすぐに元に戻ってしまう。
「初めて会ったときが懐かしいです。私がいなかったら、あなたは生き返って早々にエスターにボコボコされて死んでいたかもしれないって……そう思うと面白いですね」
と回顧する。
「あれは……本当、すみません」
知らない人間──それも後の上司にタメ口で話していたことは、僕としては忘れたい恥ずかしい過去だ。
「ところでセシリア、知りたくない?」
アンジェラが不敵な笑みを浮かべる。
「何を、ですか?」
僕が訊ねると、アンジェラはバッグから一枚の紙を取り出した。月明かりのおかげで文字が読めた。
[Michaela Alcott]
──ミカエラの名だ。
「これはミカエラ・オルコットの生い立ちを調べ、まとめたものです。とても興味深いことが書いてありました。……セシリアも見たいですか?」
僕がコクコクと素早く頷くと、
「仕方がないですね。見せてあげましょう」
と僕に紙を渡した。
教会内に並べられた祭壇近くにある長椅子に腰を下ろす。
──出生。セバスチャン乳児院に預けられた。
私は二歳になった頃に今のオルコット家に引き取られたそうだ。そのときの記憶はあまりない。彼らは子宝に恵まれなかったようで、私を仕方なく養子にしたらしい。
私がちょうど三歳になったころ、弟が二人と妹が三人生まれた。でも一人の弟を残して皆生まれてすぐに亡くなってしまった。そのころから私は必要とされなくなった。
最低限、死なない程度の食事は与えられた。それでは当然不十分で、手足の骨を皮が覆い、肋骨は浮き出ていた。反対に腹部は膨らんでいた。
毎年何人も家族が増えた。でもその多くが一年経たずに死んでしまう。お母さんは頭がおかしくなっていた。その様子を見ていたお父さんは私を殴った。躾と言っていた。
私が来てからこの村はおかしくなった、とみんなが口を揃えて言う。白い目で見られていた。だから私が全身に痣や火傷した痕があっても誰も気にしなかった。
ある日、折檻されて家の外に引きずり出された。雪の降る日だった。痛みで体が動かない私の体に雪が積もっていった。末端から順に感覚が失われていくのが分かる。
家の中にいた家族は一人残らず食い殺された。私は雪に埋もれていたので吸血鬼には狙われなかった。運が良かったのだろう。
ある日、村に武装した少女が一人と黒いスーツを着た成人した男が何人か訪れた。周辺を警戒する者、死体を回収する者、書類に記録をする者がいた。どうやら吸血鬼に食い殺されたのは私の家族だけではなかったらしい。生き残ったのは私だけだった。
村にある小さな孤児院も被害を受け、壊滅的だったので私は隣の村の孤児院に入れられた。そしてまもなく訓練生になった。
なぜならそこでも私の異常性──人口の増加が発現したから。それをいち早く察知した孤児院の人は私を恐れて訓練生へと追いやった。
「──だそうですよ。かわいそうな少女の正体は特異体だったみたいですね。私は知り合いにインテリゲンツィアの職員がいますが、彼女だったものは今そこで収容されているそうですよ」
そうアンジェラがクスクスと笑う。
「どうして……ミカエラは普通の人間じゃないか。普通の人間で、能力が低かったから試験で吸血鬼に食い殺されたんじゃ……」
一緒に過ごしていた人間が特異体だったとはにわかに信じられない。
「インテリゲンツィアは彼女の子宮が特異性を保持していることを特定したそうなので、試験まで収容せず放置していたみたいです」
アンジェラは羽織っている特異体の装備の袖を指でつまみ、擦るように触れた。
「そして試験のときにどさくさに紛れて確保、収容したそうですね。そのときでしたら彼女がいなくなっても怪しまれないですから。訓練生ミカエラは残念ながら吸血鬼に食い殺されてしまいました、という説明で済みます」
「……一応訊きますが、ミカエラは今、どうやって収容されているんですか? 人の形は保っていますか?」
そう訊ねると、アンジェラは頬をポリポリと掻きながらい薄幸な表情で、
「彼女は吸血鬼に食い殺されてしまったみたいなので原型をとどめていませんよ。子宮もかじられたようですが、特異体特有の驚異的な修復力で無事のようです。インテリゲンツィアの損失はありません」
少しの間を置いて、
「……というわけで子宮だけポンって置いているのではないでしょうか。もしくはなにかしらの液体に漬けて収容されていると思います」
と続けた。
「彼女が特異体だと分かっていたなら、その時点で収容すればよかったじゃないですか……そんな無駄に苦痛を与えてから収容しなくても……」
僕は酸鼻を極め、涙をこぼす。
微笑んで、
「……多分それでよかったのですよ。インテリゲンツィアの選択は正しかったはずです」
と僕の言葉を否定した。
頭が沸騰する。アンジェラの胸ぐらを掴んで、語気を強めて言う。
「どうしてですか、アンジェラ? 子宮以外は必要ないから吸血鬼に食い殺されるように仕向けたんですか?」
アンジェラは一切動じずに胸ぐらを掴んでいる僕の手首に指を絡めた。そして力を加える。
「そうでもしないと肉体への苦痛が大きいですから。インテリゲンツィアは彼女に慈悲を与えたのですよ」
骨が軋む。
「あの組織はここより何十、何百、何千倍と酷い環境です。人は数字です。尊厳なんてものはありません。子宮を摘出したら彼女はただの人間になります」
アンジェラは一切力を緩めない。
「そうしたら彼らのモルモットになりますよ。精神が汚染されたり身体が欠損して使えなくなったら、汚れたナプキンのように捨てられてしまいます。そうならないようにチャンスという名の慈悲を与えたのですよ」
末端が白くなっていく。
「じゃあ……ミカエラがもし試験を突破した場合はどうするんですか?」
指の力が抜ける。
「そのときは特異体である子宮を摘出して肉体はレジスタンスに返すという予定だったみたいです」
アンジェラは悪意のある笑みを浮かべた。
「それにしてもあなたは一体、何様のつもりですか? 私の胸ぐらを掴み、インテリゲンツィアを冷酷なろくでなしな組織と侮辱した」
瞬間、僕の手首が音を立てて砕けた。
「冷酷なのは認めますが、彼らのおかげで、今私たちは吸血鬼と対等に戦うことができるのですよ。そこには感謝こそすれ、侮辱してはいけないと思いませんか?」
僕は手に力を入れようとするが、ピクピクと小さく震えるだけだ。僕の体に恐怖が絡みつく。
「はい、ではセシリアは今、私になにを言うべきでしょうか?」
アンジェラはいつもの微笑みに戻った。
「……すみません」
小さく言うと、
「よくできました。良い子ですね、セシリア」
とアンジェラは僕の頭を小さな子供にするように撫でた。
折れた手首が熱を持つ。
「あらあら、折れてしまいましたね」
アンジェラはまるで他人事のように、あっけらかんとしている。そして腫れているところをつつく。
「痛い、痛いですって! それより明日から僕は任務があるんですが……これでは得物が持てません」
「大丈夫ですよ。私は明日から一週間は休暇なので。任務を頑張ってくださいね、エコー部隊セシリア」
僕の顔が青ざめる。このクレイモア は片手で扱うには少々重い。それに折られたのは利き手だったからだ。
「……ホロコーストジョークです。それに大丈夫ですよ。この程度、私が一瞬で治してあげますから」
アンジェラは羽織っている特異体の防具の内側にある琥珀色の短剣を一本取り出した。そしてそれを僕の折れた手首に突き刺した。
「──痛い! なにをするんですか、アンジェラ! こんなことしたら怪我が悪化するでしょうよ!」
傷口から脈打つたびに鮮血が噴き出る。
「まあそう焦らないでくださいよ」
すると今度は短剣で自身の指先を小さく切った。当然ながら血液がじわじわとにじみ出てくる。
「なにをしているんですか?」
質問を無視してアンジェラは僕の傷口に自身の血液を数滴垂らした。すると瞬く間に骨折の腫れが収まっていく。
最終的には深く切られた傷口も一切の跡を残さず再生していた。
「ほら、一瞬で治りましたね。これで明日からの任務を遂行できるでしょう。初任務、頑張ってくださいね」
一拍置いて、
「このことは内緒ですよ」
と口に人差し指を当ててジェスチャーをした。
呆気にとられた僕を置いて、アンジェラはスタスタと教会を去っていった。
「……今のは一体なんだったんだろう」
僕の声は静寂な空間で反響する。
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