転校生の友達

花咲風太郎

転校生の友達(一話完結)

がんばったな、リョウタ。いい挨拶だったじゃないか。

セイジは僕の自己紹介を心配そうに見守り、話し終えて腰を下ろした僕に小さく声をかけた。

僕は照れ臭くなり、ああ、うん、と口の中でもごもご呟いた。セイジ、僕だってあの時のままじゃないんだよ。中学、高校、大学といろんな経験をして、会社に入り、転職もして、人並みのことを乗り越えて来たんだ。純情可憐な小学生じゃないんだぜ。その言葉を口に含んだままグラスを掴み、苦くて不味いと思いながら、黙ってビールで喉に流し込んだ。


五年一組にセイジが転校生としてやってきたのは、五月の連休明けのことだった。黒板の前に先生と並び、緊張した面持ちで立たされた子のように立ち、先生からの紹介が終わるとぺこりと頭を下げ、そそくさと用意された席に収まった。

そうだよ、セイジ。君もろくに挨拶できなかったね。こんな場面では。

みんなは珍しい物のように、それとなくセイジのことを盗み見ては、こそこそと何か話している。しかし子供たちにとって物珍しさはさほど持続せず、二時間目が終わり二十分休みになれば、セイジのことを気にする奴は誰もいなかった。いつものように小学生に独特の嬌声を上げて、カラーボール、カラーバットを持って校庭に駆け出していく。嵐が去るように男子が、続いて女子もがあっという間に教室を後にして、残されたのは主を失くしてぽっかり口を開けた恰好の机と椅子、それに僕とセイジだけだった。

僕自身はみんなと外で遊ぶのが苦手で、教室で漫画を描いているような子供だった。運動も得意ではないし、それ以上に集団の中で、集団を率いる誰か声の大きい者の意思に従うことが苦手だった。だから外で遊ぶにしても、参加者の少ない遊びを、小さなグループで遊ぶことが多かった。大きな集団の中では、小さな一人の気持ちなど誰も気にしない。そこには大きな声の正義があり、集団に属する誰もがそのヒエラルキーに従うのが当然のことだ。気がちっちゃくて思ったこともはっきり言えない僕だけど、だからなのか、そこに働く強い力に従いたくなかったのだ。

置いてきぼりにされたセイジは、所在なげに黒目を動かして、下げた両手をどこへ置いてよいかも分からない様子で突っ立っていた。彼の目が僕を視界に入れた時、僕は精一杯の柔和な笑顔を作り、君を受け入れることを表明してみせた。僕は知っていたんだ。右も左も分からないこの場所で、平静を装いながら、小さな胸は不安に打ち震えていたことを。ここでの集団のルールを知らない君は、大海に投げ出された者のようにひとりぼっちだった。僕は君が探す大陸ではないが、つかまれる流木か、道案内をする鴎になろうと思った。

僕はその日から、セイジに得意の漫画を描いて見せたり、校内を案内したり、クラスメートのことや、先生のことを多少の脚色を加えておもしろおかしく説明したのだった。校内で僕のお気に入りである体育館裏にも連れていった。みんなが校庭に繰り出す二十分休みに、意外に誰も来ないこの場所で、僕は一人で空想に耽るのが好きだった。二人の秘密基地になったそこで、僕らは新しい遊びを考え出した。体育館の周りをぐるっと一周競争するというだけの、今思えば他愛のない遊びだ。体育館の出入り口が二ヶ所あり、そこはコンクリートが九十センチぐらい高くなっている。その一つがスタート地点となり、スタート地点から背中合わせに反対方向に走り出す。中間地点でもう一ヶ所高くなる場所を乗り越えて走る。これがまたちょうどいい障害物となって、面白みを増した。スタート地点が最後にゴールとなり、そのコンクリート台に飛び乗るのが、なぜだかやけに盛り上がったものである。スタートからほどなく建物の形に添ってカーブを曲がると相手の姿が見えなくなり、ただ自分だけのレースになる。次のカーブを曲がると相手の姿が正面に現れる。中間地点のコンクリートを乗り越えてすれ違うタイミングで、現在のレース状況を把握する。また相手の姿が見えない状況で追い込みをかける。そして最終コーナーを曲がると同時に再び相手の姿を発見してラストスパートする仕組みなのだ。今思えばどうということもない、しかし、赤ん坊の「いないいないばあ」のような原初的な歓びが組み込まれていたのかもしれないと今となり思う。ゴールした後、二人はひんやりしたコンクリート台の上に仰向けに寝転がり、息を整えながら笑いあった。空が青かった。

僕らは毎日飽かず青空の下で、このレースを繰り返した。セイジも転校当初の不安気な目を見せることはなくなり、日に日にクラスに溶け込んでいった。

その日、セイジは体育館裏に来なかった。僕はコンクリート台の上に寝転がり、空を見上げた。初夏の空はどこまでも青かった。体育館の建物で遮られた残り半分の空を僕は眺めていた。


県外の高校に入り、地元の友達と会う機会もなくなり、大学入学と同時に都内に一人暮らしを始め、そのまま実家に戻ることはなかった。これまでも同窓会は開かれていたらしいのだが、僕は連絡先不明ということで案内は届くことがなかった。幹事の女子が実家に電話したのだが、母が怪しんでしまい現在の連絡先を伝えることも、僕に連絡があったことが伝わることもなく。さあ何年経ったのだろうか。町内の役員会で父と知り合いになったことで、ようやく僕に連絡が取れたと、彼女が今回の席で教えてくれたのだ。

三十年が過ぎていたんだ。だけどみんなの目に映るのは昔の僕だ。誰もが僕の顔を見ると、「漫画、描いてるのか?」と訊いてくる。当時の僕は漫画家になると断言した、ちょっと漫画のうまい男の子だ。おとなしくて、泣き虫で、言葉数も少ないけれど、漫画を描かせたら一番だったんだ。でも、ごめんね。もう僕は漫画を描いてない。なんだかみんなの期待を裏切ったような気持ちになった。ただ余計なことは言わず、ううん、もう描いてないんだよとだけ言って、僕ははにかんでいた。はにかんでいることが赦されたのに甘えた。そう、ここにいる僕は、みんなの知っている僕でいることが赦されるから。頑張らなくていいんだ。こうした席でも、相変わらず中心になる大きな声で、場を支配する意思はある。でも、そこに参加しない自由もある。僕は広い座敷の隅っこで静かに苦手なビールを飲みながら、穏やかに微笑んでいて、それを誰も咎めないことがただ心地よかった。そうして、誰かが連れてきた小さな子供のお絵描きにつき合ったりして、この赦された時間を過ごしていた。


セイジはみんなと校庭で遊ぶようになり、もう体育館裏に来なくなった。僕らの秘密基地は、僕だけの秘密基地に戻ったのだ。それは当然の帰結だ。リョウタも一緒にやろうぜ、と僕を誘った。僕は精一杯の笑みを浮かべて、首をふった。セイジ、君はもう大丈夫だ。もう不安なことはない。僕の役目は終わったんだ。今更、流木につかまる必要はないんだよ。


三十年ぶりに会うセイジは僕の隣に座り、変わらないなあと懐かしみながら酒を飲んだ。ひとしきり、お互いの近況なんかを大人らしく話したあと、座の中心で盛り上がる辺りを見やり、あいつらも変わらねえなあ、まったく、と呟き、ちょっと行ってくるかな、とグラスを持って腰を上げた。セイジは僕を振り返る。僕は初めて会った時のように、精一杯の柔和な笑顔を作り、見送った。

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