第4話 轍を踏んで

 夜刀神の髪の一糸一糸が、蛇の如くするりと水の上を這っていた。その後ろを、白さを失った黒髪を艶やかに揺らす現が歩く。ちゃぷちゃぷと水は次第に深さを増していった。当初、足首程度だった水深は、膝まで上がっていた。水分が、息苦しさを含んでいる。喉の奥の不快感を、口呼吸で和らげた。

 次第に、冷たさが懐かしさと温もりを消し去っていく。陽気そうなのは、佐島一人だけだった。

 ぐらりと再び地面が揺れる。震度は明らかに上がっていた。より長く揺れが続く。蛇と少女が急ぐ。それにならって、葛城も足を急がせた。


 ちゃんちゃぷんと水が波紋を広げ続けている。暗い水の底のような、動きを鈍らせる、寒さを敷き詰めたような空間。井戸の底、水道の掃き溜めは、その姿を薄っすらと魅せた。

 巨大な蛇ような、鰐のような、それとも恐竜とでも言えばいいだろうか、そんな頭骨と長い長い脊椎が縄のように空間を埋めていた。

 その視界の端に、白い人影を見て、葛城は駆け出す。それを遮ろうとした鈴を跳ねのけて、更には追いかけ制止しようとする佐島さえも突き飛ばして、探し求めていた少女のもとへ向かう。


「荻野さん!」


 水底に沈んでいる彼女を葛城は引き上げる。荻野はまるで死んだように、呼吸一つしていない。それでも、心臓の鼓動だけが聞こえた。口を無理やりに開けさせるが、ダラダラと中にあった水が滴るばかりで、呼吸は元に戻らなかった。


「葛城君! 逃げて!」


 ふと現の声が聞こえた。その次の瞬間、近くで、爆発するような轟音が鳴る。

 咄嗟に顔を見上げた葛城の目の前にあったのは、巨大な腐った爬虫類の牙と喉。それらが、強烈な腐臭と共に自らと荻野を飲みこまんとしているのが見えた。

 恐怖で一瞬が一つ一つ、切り取られる。全てがハッキリと止まって見えた。水飛沫が二人を濡らす。

 腐った大蛇の、その首に嚙みついたのも、また蛇であった。再び角ある大蛇の姿となった夜刀神が、腐り蛇の首を噛み千切り、宙へと投げる。


『再生するぞ! 構えておけ!』


 夜刀神が叫んだ通り、腐り蛇の千切れた頭は、縄のような脊椎に再び継ぎ、動き出す。それが息を吐く度、立ち眩みを起こす程の腐敗臭がした。

 一瞬の隙を突いて、現と佐島、そして鈴が葛城と荻野の傍に駆け寄った。夜刀神の影でひっそりと、鈴はその場に座り込んだ。


「葛城君。鈴さんと一緒にここを動かないで。佐島さんと、夜刀神様と一緒に、守るから」


 現はそう言って、何処からともなく少し細いピアノ線のようなものを出す。それは鋼鉄の糸。


「うっちゃん、俺が夜刀さんと一緒にアレの注意を引くから。再生を止める方法探して来て」

「はい。わかりました」


 ナイフを取り出した佐島の指示で、現が腐り蛇の視界から外れた。佐島は複数のナイフを蛇の目に向かって投げ付ける。被弾するとそれらは腐って濁った肉を周囲に散らす。しかしそれにも関わらず、蛇は夜刀神に迷いなく牙を立てる。

 目の前で繰り広げられる化け物たちの戦闘に、葛城は口を開けるばかりだった。落ち着いて心音を繰り返すだけの荻野を抱え、彼女の手を握る。自分よりも温かい、否、熱い彼女の掌を反射的に握りしめる。


「こんな時にいちゃいちゃしてんじゃねーぞ、クソガキ」


 唐突に、鈴がそんなことを言った。驚いて、パッと葛城は手を放す。鈴の方を見ると、彼は辛うじて意識を保っているという風体で、顔からは血の気が引き、汗か水かわからないほどの冷や汗を垂れ流していた。剣幕に、真剣に、気の狂った様子で、彼は葛城の胸倉を掴んだ。


「良いか、よく見ろ。お前がやらなくちゃいけないことがある。お前にしか抜けない楔がある。ここにいる他の誰も出来ないことだ。目を凝らせ。お前が生きるべきだった時代の、遺物があるだろう」


 鈴の示す方向に、葛城は恐る恐る顔を向けた。爆発的な破壊衝動が、喉の奥まで這いあがっていた。細かく息を吸って、それを腹の中に追いやる。辛うじて荻野を自ら引き上げている足と腕をそのままに、彼はハッキリと腐れ蛇の尾を見た。

 そこには、腐れ蛇の尾とは別に、もう一本、黒い鋼のような鱗の束が見えた。そして、それらを繋げる楔のような、錆びた鉄の塊が、深く肉と骨を貫いて突き刺さっていた。

 既に現がそれに気づいて、破壊しようと試みている様子がある。しかし、彼女がどんなに力んでも、鉄の塊は動かない。ヒビの一つも入らない。

 その瞬間に、葛城はその鉄の塊から目を離せなくなる。


――――あれは、自分が振るうべきものだ。あれで、滅ぼさねばならないものがある。あれで、神を殺さなければならない。恨めしい神の時代を壊さねばならない。


 使命感にも似た、呪いが葛城の頭の中を走る。自分の考えではない。自分が知っている言葉ではない。自分の中身に、自分の理性が追い付かなかった。吐き気がした。ウっと、顔を下に向ける。荻野の美しい顔が見えた。

 彼女の鼓動が、手と足から伝って分かった。強く強く、波打つ熱が、葛城の中に入り込んでいく。


――――彼女に与えなければならない。彼女に産ませなければならない。彼女にあの剣を突き立てなければならない。


 やらなければいけないことが次々と頭に浮かんでいく。生命の欲求にも似た、それを吐き気と共に飲みこんだ。

 葛城は、自らの唇を噛む。痛みと共に、正気と血を垂れ流した。


『――――黒姫?』


 夜刀神がそう呟いて振り返ったと同時に、葛城はその影から飛び出す。膝まで水があったことを忘れる様な速さで、鉄の楔まで蛇たちの肉を超え、走り去った。鉄の塊が目の前に認められた瞬間に、葛城はそれの頭を握る。


「葛城君!? 何してるの! 待ってて言ったでしょ!」


 現は目を見開いて葛城を見た。彼女の手は既に何度も鉄糸を握ったせいか、ボロボロに切れ目が入っている。

 そんな彼女と目を合わせた葛城は、先程までの狂気を伏せて、笑った。


「すみません。でも、これは、僕じゃないと……いけないみたいなんです」


 気の抜けた、弱々しい言葉だった。出会って数十分の彼が詰まった、愚鈍で平凡な、少年の言葉だった。


「だから、糸柳さん。ごめんなさい。これ、僕が貰います」


 そう言って彼は軽々と鉄の塊を腐った肉と艶やかな鱗の両方から抜き取る。ずるりと、貼りついていた肉がその長い鉄塊から零れていく。肉の鞘を失ったそれは、その本当の姿を見せる。


――――それは、錆びて朽ちかけの鉄剣。知識ある現や佐島達にはわかった。それが、神代に作られた、尊い神器の一つ、またはその一部であることを。


 剣が引き抜かれると、その途端に、地面の揺れが更に激しくなっていく。腐れ蛇が糸を切ったように崩壊する。それを飲みこむように、井戸の底、その中心に向かって、水流が作られ始めていた。


「うっちゃん! こっち来て! 離れると何処に飛ばされるかわからない!」


 佐島が咄嗟にそう言って、現を呼び立てた。剣を抜き宙を虚ろに見ていた葛城の、その腕を掴んで、現は佐島達の下へ急ぐ。いつの間にか、夜刀神が人の姿に戻っている。彼の表情は、何か欠落していたものを見つけた時のように、高揚と動揺が入り混じっていた。


「黒姫……いや、お前、お前は……」


 連れ戻された葛城を見下ろして、夜刀神はそう呟いた。葛城はそれには何も反応せず、ゆっくりと目を閉じて、再びゆっくりと瞼を開く。ずっと握りしめていた剣に目を向けた。足元がゆっくりと糸を解くように崩壊しているのが見えた。


「帰ったら事情聴取だからね」


 現が葛城と無理やりに目を合わせてそう言った。葛城はこくりともしない。何処か、魂を捨ててしまったようだった。それでもずるずると朽ちた剣の半身を水につけながら、彼は一歩ずつ歩く。何をするつもりだと、佐島は葛城の肩を叩こうとした。しかし、それは鈴の指先に制止される。


「これで良いんだ」


 頭を抱え、血走った目でこちらを見る鈴も、また正気には見えなかった。


 ゆっくりと、確実に、葛城は剣を手に目的の少女に向かっていた。荻野を目の前にすると、葛城はにっこりと微笑む。揺れる空間の中で、彼はしっかりと狙いを定め、荻野の胸に切れない剣の切っ先を当てる。

 ふと、荻野の瞼が開いた。


「ごめんね、小鳥ちゃん」


 彼女の瞳を捉えた葛城は、ハッキリとそう言って、剣を彼女の心臓へ深く突き刺す。荻野の口、肉と剣の間から、赤黒く熱い液体が溢れ出す。荻野の見開かれた眼球に、葛城と無に帰していく水の世界が映る。

 血と、全員の意識を混濁させて、水は外へと押し流された。


 最後まで意識を失わなかった佐島だけが、夕暮れと、焦った顔で駆け付ける宗十郎を見て、空笑いをしていた。

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