第3話 滅せ

 言葉が出ずに、声を飲む。痛みを和らげる方法を、葛城は知らない。するとすぐに、大友が駆け寄った。


能力ちからを使うのは初めてか」


 一瞬、彼の言っている意味が分からなかった。だが、反動で、葛城はこくりと首を縦に振る。

 ひび割れた肉を、大友が白い手袋をつけた手で撫でると、すぐに痛みが引いて行くのが分かった。よく見れば、傷は塞がり、掌の肉は元に戻っている。


「外に出たら、強烈な眠気に襲われるだろうが、今はこれで大丈夫だろう」


 大友はそう言って、葛城から手を離した。痛みは既に無い。葛城は何度も手を握っては開き、現実感を飲みこんだ。


「何だお前!」


 唐突に、後ろからそんな声が聞こえた。それは、蘆屋竜道の声。彼の表情は怪訝そうで、子供っぽい不機嫌さを顔に顕わにしていた。


「ウガヤにも壊せなかった封を壊せる程破壊が使える癖に、一般人なわけがない! お前、本当は宮家の人間だろう!」


 その一言に対して、何一つ理解が出来ない葛城は更に混乱する頭を抱えていた。竜道は、そんな葛城に牙を見せ、ただ、睨んでいる。どうどうと佐島が彼を宥め、大友が葛城の手を差し伸べた。


「アイツの言うことはあまり耳を傾けなくてもいい。ただ、何か知っていることがあるのなら、すぐに言ってくれ。協力しないと、この先には進めない。それと、君の友人を助けることも難しくなる」


 友人を助ける、という言葉に、葛城は歯を食いしばった。


 ————何を論拠に、助けるなどと。

 ふと、そんな言葉が浮かぶ。それが、人生で何度か感じられてきた破壊衝動の一つであることは、簡単にわかった。葛城は口を押えて、表情の変異を悟られないように気を配る。自分の中では、大友という男に、どうも身の内をさらけ出すということが憚られるようだった。


「すみません、でも、本当に何も知らないんです」


 嘘は言っていない。間違いなく本心である。だが、葛城には何となく、この自らの言葉への不信感があった。何故か、自分と、もう一つの己が反したことを考えているようだった。手の中で唇を噛んで、血を味わう。気分がスッと落ち着くようだった。


「本人が知らなくたって、繋がってることはある。それがわかるのは、何を以ってもこの先だ」


 そう言って葛城の肩を力いっぱい叩いたのは、鈴だった。


「目だけ男が偉そうに」

「その目で助けられてる奴らが何言ってる」


 続いて竜道を宥める鈴は、不思議と、この場所では一番落ち着いているようにも見える。先に行くぞと歩き出した大友と佐島に続き、再び皆が進む。その中でもやはり、鈴は葛城の背を押す様に最後尾を取った。


「……頑張れよ」


 唐突に、後ろから鈴が呟く。その口調を、何処かで聞いた覚えがあった。そう、その言葉は、大宮銃夜と同じ、何処か諦めのような、素朴で絞り切られたカスのような僅かな優しさ。

 偶然ではない一致に、驚き、振り返ると、鈴の後ろに、壁が出来ていた。彼はその壁に寄り掛かって、みるみるうちに脂汗を垂らし、葛城の背を睨む。

 もう一度前を向いた。そこにいたのは、目の前を歩いていた佐島と現のみである。二人は暗闇の先を睨んでいた。佐島の影が、ぐらりと揺れる。


「二人とも、こんなの相手じゃ守ってやれる自信はないからな。避けるときは自分で避けてくれよ」


 明るさに仄かな焦りを含めた佐島の言葉で、葛城の視界が晴れていく。その目に映したのは、暗闇ではなく、鈍く光る黒錆の如き鱗。巨大なそれらがとぐろを巻いて、ゆっくりと蠢いている。ちらりと赤い鬼灯が見えた。それが、巨大な瞳であることに気づいたのは、黒蛇がゆっくりと頭をもたげた後だった。黒蛇の目の傍には角が生え、これこそ角ある蛇そのものであるとわかる。それから放たれるのは、畏怖。だが不思議と、葛城にはもっと強烈な温もりも感じられた。

 しゅーしゅーと蛇の泣き声が聞こえる。緊張感と静寂の中、それだけが耳を裂いた。


「……襲ってきませんね」


 現が言った。すると、蛇はがぱりと口を開けて、彼女を見る。


『ククリヒメ……今、暫く』


 少し疲労感のある声が、全員の頭に響く。それは明らかに、大蛇の言葉。彼は現をククリヒメと呼んで、懐かしそうに言った。


『幾月程経った……黒姫と腹の子は元気か……いつになったら私は妻子と会える……いつになったら、天は翳るのだ……』


 苦し気に、酷く肥大した悲しみを孕んだ言葉が、葛城の脳を震わせる。


『否、忌々しいこの布が朽ちていないのだ。まだ、待たなければいけないのだろう。あぁ、何だ、カガセオ様もいらっしゃるのか……いや、待て、待てよ、この臭いは何だ』


 言葉を聞いているうち、次第に、蛇の声が大きくなっていく。意識がはっきりとしてきたのだろうか、一つ一つの単語で、空間が震える。


『残り香しか、ない。何故だ。人の匂いだ。人の匂いが満ちている。おい、人よ、どうやってここに入った。ここは、神域ぞ。忌々しくも、天照が、八岐大蛇の骸で作った、我ら夜の民の檻、その一つ』


 悔しそうだ、と、直感で思う。葛城は角ある蛇の意思に、答えようと、口が動きかける。それは自分とは別の意思の、言ノ葉。


「ごめんなさい。私はククリヒメではないのよ。私は糸柳現。今は、人の子。ククリヒメと深い縁はあるけれど、母……彼女から貴方のことは聞いていないの。こんなことを聞いてごめんなさい。貴方は、誰?」


 葛城が声を上げるより先に、現がそう言って、蛇を宥める。彼女の長い髪の先が、白く光っているのに気づいた。蛇の瞳は現を移して、笑うように目を細めた。


『私は……私は夜刀神。カガセオ様の山と谷を守る者。いや、守れなかった……主命を受けて生き延び……彼の主が目覚めるまでここで眠り傷を治そうと……しかし、何時ぞや天照の使者に封じられ……』


 思い出すように、一つ一つを夜刀神は語る。声は次々に、人らしくなっていく。姿が黒い影で包まれていたかのように、どろどろと溶けていった。


「……そうだ、この地に逃げ延びてから、妻を娶り、イワナガヒメに彼女を任せて……眠った。それから……それからいくら眠ったかわからない。教えろ、ククリの子。あの時にはいなかった奴の子が、こんなにも立派な女に育っているのだ。何年経っていようと構わない」


 その男は、額に赤い角を生やし、艶のある黒髪を黒蛇の如く床に流す。特徴的な鬼灯のような赤い瞳で、こちらを見ていた。


「貴方が眠りについたのが神代だとするなら、多分、途方もない時が経ってる。申し訳ないけど、十数年、数百年ではきかない時よ。もっと言えば、最低でも数千年が経っている。だから、貴方の妻子がどうなっているかはわからない。もしかしたら、子孫はいるかもしれないけれど……」


 現はそう言って葛城をちらりと見る。彼女と目が合うと、夜刀神とは別の畏怖感、恐怖を感じ、葛城はびくりと肩を震わせた。


「そうか……すまない、困らせてしまった。この臭い、きっと現世には人が溢れたんだろう。それで良いのだ。忌々しい天照の神代でなければ、良いのだ。妻も人だった。人が溢れる時代なら、それで良い」


 優し気に彼は微笑む。寂しそうで、拙い、顔だった。葛城は空中でパクパクと口を動かすしか出来ない。


「それで、夜刀神さんに一つ質問があるんだけど、良い?」


 ふと、佐島がぶっきらぼうにそう言った。夜刀神は同じ表情のままこくりと頷く。


「俺達、この神域で迷子になったんだ。他に三人仲間がいて、そいつらともはぐれちゃってさ。それと、もう一人、女の子を探してるんだ。大事なモノを失くしてここまで探しに来ちゃったらしい。何か知らない? ここにずっと封じられてるんでしょ?」


 佐島の溢れんばかりの問いに、夜刀神はふむ、と困ったように後ろを指し示す。


「仲間の三人、というのは、おそらく既に外に出ている。ここは人間ならば、私に縁がある者しか来れない。だが……その女子は、この先ではないだろうか。その大切なモノというのが、私の知る物だとするなら、その者は共にそこで動けなくなっているはずだ」


 夜刀神の瞳が、グッと赤く燃えるようだった。葛城は、荻野がいるであろう暗闇の先を見て、唾液を飲みこむ。佐島と現は二人で顔を合わせて頷いた。現がより一層髪を白く輝かせて、笑った。


「ありがとう。この先にあるのは、八岐大蛇の骸?」

「そうだ。私を封じ、この地を封じる枷。その一部だ。その大切なモノと女子も、それに引きつけられているのだろうよ」


 現は、さも友人に話しかけるように、夜刀神に微笑む。


「もしもその封を私達が壊して、貴方も外に出られるとしたら、手伝ってくれる?」


 問われた夜刀神は、一瞬表情を落とすと、薄っすらと口角を上げる。その顔が、どうにももどかしくて、葛城は恐る恐る前へ進んだ。きっと、夜刀神に自分は見えていなかった。

 ――――この人に、僕を見て欲しい。

 嫉妬にも近い、そんな感情が、現と話す夜刀神に沸いた。だが、あと一歩、近づこうというところで、後ろからぬるりと生暖かいに何かに腕を掴まれる。振り向くと、それは、脂汗をかき、青白い顔をしてこちらを睨む鈴だった。


「まだ我慢だ。まだ、親父さんに甘える時じゃない。まだ、壊さないといけないものがある」


 静かに、鈴は二人にだけ聞こえる声で、そう言った。

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