第2話 井戸の底

 濡れた袖を絞りながら、葛城は立ち上がる。登れない程に高い天井に、ぽっかりと井戸が開いていた。水道になっているのか、空間は一方に向かって続いている。


「いつまで上を見てるんだ。口を開けてても戻れるものじゃないぞ」


 呆れた様子で、ジャケットを絞り、眼鏡を足元から拾うと、男は歩き出した。葛城はそれを追いかけて、スニーカーの水を吐きながら走った。


「あの、えーっと」

三善みよしりんだ。りんで良い」


 男、鈴の背に追いついた葛城は、その隣を歩く。


「あの、鈴さん。鈴さんはお仕事でここに来たって言ってましたよね? こんな場所に来るなんて、何のお仕事なんですか?」


 ぴくりと鈴が目をこちらに配る。すぐに目線が先に戻ったかと思うと、彼はゆっくりと口を開いた。


「まあ、国家公務員とだけ言っておこうか。あとは追々教えてやるよ」


 そう言って、鈴はただ歩き続ける。数々のピアスや、ヒビの入った眼鏡、染められた金髪は、公務員という風貌には見えなかった。それを言ったらきっと怒るのだろうと、葛城はグッと我慢して、口を噤む。

 水量の減っていく道を歩んでいると、目が慣れて来たのか、葛城の視界はどんどん広がっていった。水が流れる先が、ずっと奥であることも、その先に、複数人がいることもわかる。警戒心は、この鈴という男のおかげか、薄れ気味だった。


「おぉ、リンちゃん!」


 軽快に上がった声は、水路で反射して、元の大きさより幾分か耳を裂く。リンちゃんこと鈴の顔が、キッと変わったのがわかった。


「だぁれがリンちゃんだ! お前のせいで他部署の新人がたまにアマテラスが女だと勘違いすんだよ!」

「アマテラスは実際女神じゃん」

「そうじゃねえ! 馬ァ鹿!」


 鈴が見た目に則した悪態をつくその先にいたのは、五人の一見関わりの薄そうな人間だった。軽薄な笑い声をあげている奇妙な髪と目の若い男が一人、それを呆れた表情で見ている初老の男性が一人、印象の違う双子の兄弟が二人一組、腕を組んで葛城の方を見ている少女が一人。うち、双子の方については、葛城も見たことがあった。


「あ、蘆屋君? ……だっけ?」


 葛城はこの双子の名を知っていた。同じ中学の一つ下で、蘆屋あしや道鱗どうりん蘆屋あしや竜道りんどうという、かなり珍しい名前の双子。それだけで、話したことこそなくとも、名前と顔だけは一致していた。


「知り合いか?」


 鈴が、二人に問う。すると、蘆屋の二人はふるふると顔を横に振った。


「あ、あぁ、僕が一方的に知ってるだけなんです。その、名前が珍しいもんだから」


 葛城がそう言うと、鈴はそうか、と下がる。年若い奇抜な髪の男が、鈴の肩に顎を置いて笑う。


「それはそうと、よく来たねリンちゃん! この子誰? うちの学生とかではないように見えるけど?」


 男が笑うと、鈴はやれやれと言った表情で彼を振り払い、葛城を前へ出した。


「こいつは葛城夜執。この異界に迷い込んだ一般人だ。クラスメイトがもう一人迷い込んだらしい。本人曰く、この先にそいつがいるって話だ。ここまで聞いて、俺は今回の任務目標を変えるべきだと、ここで進言したい」


 淡々とした言葉だった。業務遂行のために行われる、感情も信頼も無い言葉。それでも僅かにある自分への配慮を遅れながらも感じ取った葛城は、次の言葉を待った。


「葛城君、だったか」


 そんな彼に声をかけたのは、初老の男性だった。鈴を除けば、この男性こそ、今この現状のリーダーのような雰囲気を醸し出している。


「俺は大友おおとも宗十郎そうじゅうろう。こっちの男は佐島さとう。それと、最後にこの女子学生が糸柳いとやなぎうつつ


 その男性、大友宗十郎はここにいる全員の中で、一番冷静に見える。手袋が黒と白を片方ずつではめていたり、錫杖のようなものを持っていたりする部分に目を瞑れば、この中では最も真面そうであった。彼は優し気に声色を作っている。それがわかっても、葛城に警戒心は無かった。


「俺達は元々、ここには調査目的で来たんだ。この水路の先に何があるのか、とかな」

「じゃ、じゃあ、皆さんもこの先に行くんですね」

「あぁ、そうだ。だから、君はここで待っていてくれないか。大丈夫、一人にはならないように、現もここに残す」


 良いな、と大友が現に目配せすると、はい、と彼女も頷いた。だが、そこに間髪入れずに声を上げたのは、鈴だった。


「いや、そいつも連れて行く。そいつが居なきゃ話にならない」


 語気の強さは元々か、それとも苛立っているのかはわからない。しかし、彼は眉を顰める大友に対して、反論を認める気も見せずにただ言葉を流した。


「この柳沢邸のは多重構造だ。その日その日、入るための触媒によって形も繋がる場所も異なる。今回は今までに報告の無かった井戸の底だ。これまでの報告を鑑みれば本命のじゃない可能性の方が高い。この井戸の底が、こいつらの持ち込んだ何か、またはこいつら自身によって繋がったのだとすれば、だ」


 鈴が葛城にもわからない言葉をつらつらと並べていると、その言葉が唐突に止まった。それは、佐島と呼ばれた青年が、彼を逃がすまいと再び肩を掴んだからである。


「リンちゃん。御託と外堀の理論は良いよ。本当のこと言ってくれない? 今、何が見えてる?」


 佐島がそう言うと、軽くその手を振り払い、鈴はじろりと葛城を見た。眉間に皺を寄せる。それは、荻野がよくする軽蔑の目に、何処かよく似ていた。


「女と角のある蛇。あとは何だ、龍の骨と帯状の布か」


 黒く濁った鈴の瞳が、深淵そのものを表すようで、葛城は一瞬身の震えすら止まって、石のように固まった。


「角ある蛇、というと、夜刀やと神……でしょうか。宮家の一部が祀っている古い神ですが、本体の観測自体は今までされてこなかったはずです」


 蘆屋のうち、一人が言った。大人しそうな雰囲気からして、いつか聞いた周囲の話を含めれば、この少年が道鱗の方だろう。彼は葛城と目を合わせると、即座にその目線を反らした。


「鈴坊、まさかとは思うが、この先に夜刀神が封じられているのか?」

「それはわからない。けど、帯布といえば、邪神封じでよく使われてるはずだ」


 大友と鈴が言葉を交わす。そして、一時の暗黙。水音が一定のリズムで足元を濡らす。


「つまり、今まで未観測だった異界が開いて、それが更に未観測だった邪神の封印場所かもしれないんでしょ? それじゃあ、そこのが何にも関係してないワケねーわ」


 俺もリンちゃんに賛成、と、佐島が笑う。自然と、目線が葛城に集まった。心拍が上がっていく。視界が学校の教室と被った。現の顔が、荻野と反復する。

 ふと、唐突に、視界がグラついた。地震のように、周囲が揺れているようだった。全員が足元を見て、踏ん張る。暫くすると、揺れは落ち着いていった。


「これは、少し急いだほうが良いかもしれないな」


 大友が言う。彼は深く溜息を吐くと、葛城の前に出る。


「すまない、訳が分からないかもしれないが、一緒に着いて来てくれるか。絶対に君を守るし、もう一人の子も助け出そう」


 それだけは約束する、と、大友は葛城と目を合わせた。はい、と押されるように葛城は呟く。大友と佐島が前を歩く。蘆屋の双子がそれに続いた。最後、現と鈴が葛城の背を押す様に進んだ。

 葛城は再び不安を抱えたまま、四人の背を見る。その先に、鉄格子が見えた。それは古い縄で括られ、全体が湿っており、扉も鍵も見当たらない。


「これ、ぶっ壊していい? じゃないと進めなくない?」


 佐島がそう言って、鉄格子に触れた。だが、触れるだけで何か壊れるはずも無く、格子は微動だにしない。


「どうした、破壊出来ないのか」

「何か、力が吸われてる感じ。壊そうと思っても、その力が別の所に行ってる。これは力業では無理だな」


 大友と佐島がそんな会話をしているうちに、蘆屋の二人や、現も鉄格子を観察したり、力づくに縄を引きちぎろうとしていた。鈴は一人、意味も無いというふうに、後ろから皆を見ている。

 葛城が、縄くらいは取れないだろうか、と、鉄格子に触れた。


————その時だった。バチンッと激しい電撃のような激しい衝撃が、葛城の腕に走る。ひび割れたような皮膚は、間から肉が見える。一瞬の混乱で、わからなかった痛みが、急激に両腕を襲う。叫べもせずに、歯を食いしばって、葛城はその場に蹲る。目の前で、鉄格子と縄がバラバラに朽ちていくのがわかった。何度も息を整え、葛城は、ただ続く暗い先を見つめた。

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