第1話 柳沢邸
化け物屋敷と呼ばれるだけあって、ひしひしと感じられる殺気が、二人の脳を刺した。だが葛城は、その中に、一点の懐かしさのようなものを嗅ぎ分ける。
立派な門構えは、古風だが威厳を感じさせる。左右対称に作られた屋敷。黒い瓦張りの屋根は廃墟と言うには手入が行き届いているようにも見える。
「行くよ」
息を一つ呑んで、荻野は門を潜る。あ、待って、と、葛城もそれに続いた。ふと、その境界線の先へ踏み込んだ時、一瞬だけ、視界が歪んだ気がした。
「……は、え、荻野さん?」
その瞬間に、葛城は目の前にいたはずの荻野が視界から消えていることに気づく。夕暮れの少し冷えた風が、開いた玄関の中に吸い込まれている。暗い廊下が長く続いているのが見えた。唾を飲みこんで、その中へと一歩進んだ。
一層に、荻野の気配はわからない。埃が積まれ、長らく人が住んでいる気配すらない。荻野が先に行ってしまったのであれば、足跡がつくはずである。
「お、荻野さん……」
小さな声で、呼んでみても、それは儚く響き散るだけで、およそ聞こえているようには思えなかった。
「すみません、お邪魔します」
誰に言うでもなく、葛城はスニーカーを脱いで、荻野の荷物と共に腕いっぱいに抱え込む。ギシギシと板が軋んだ。ギッギッと、恐る恐る中を進んでいく。窓が無い廊下は、日が入らず、ずっと薄暗かった。これは夜になる前に帰らねばならないと、少し足早に、埃臭さに慣れ始めた葛城は荻野を探す。
そのうちに、この邸の奇妙な構造に気づく。この建物は、玄関の一本廊下を境に、左右で鏡写しになっているのだ。時計や机の位置、畳の張り方に至るまで、その一つ一つが揃えられている。それが酷く不気味で、葛城に部屋に入っていくことを躊躇させた。廊下をずっと歩いていると、最奥の暗闇まで辿り着く。
暗闇の中には、それ以上の部屋も無く、階段も無かった。ひんやりと空気が冷えているのが感じられる。木の温もりも無く、また、埃臭さも軽減されているようだった。すぐ近く、足元から、水の滴る音がして、葛城はそちらに耳を傾ける。
「誰かいるんですか?」
人の気配がした。ぴちゃぴちゃと誰かが、そこで歩く音が。暗闇で何も見えなかった視界が、少しずつわかりやすくなっていく。反響と温度が、世界を見せていく。
水音の根源は、葛城のすぐ目の前にあった。それは井戸。冷たく濡れた古井戸である。音の響きが、その井戸の深さを示していた。
ふと手が当たって、滑車縄がカランと音を立てた。ハッと、葛城はその縄を掴む。この先に、荻野がいる気がしたのだ。お守りと一緒に、彼女が冷たく薄暗い井戸の底で、眠っているような、そんな気がする。吐息すら聞こえないその場所に、葛城は飛び込もうとしていた。
「おい、お前、何をしてる」
唐突に、そんな声が聞こえ、シャツの首元を引っ張られる。ぐんと背から倒されると、滑って天井が見えた。
「お前、亥の島中学校の生徒だろう。こんなところで何してる。肝試しの季節はまだ先だぞ」
そう言ってのっそりと葛城の顔を覗いたのは、毛先の痛んだ金髪に、幾つものピアスを耳につけ、縁眼鏡の奥からこちらを睨みつける男。彼が言葉を発する度に、空間が、薄暗いまでに光を取り戻していくのが分かった。
「立て。ここは私有地だ。勝手に入っていい場所じゃないぞ」
顔の威圧感の割には、妙に丁寧に男は言葉を選んでいるようだった。彼は葛城の手を取ると、引っ張り上げ、肩を叩いて意識を戻す。よく見れば男は黒いスーツに黒いネクタイと、所謂喪服を着ている。ジャケットから見える腕は、細く、不健康さがうかがえる。
「すみません……でも、その、女の子がここでいなくなってしまって」
やっとのことで出た声は、上ずっていた。それでも、男は話を聞く態度を示している。故に、そのままぽろぽろと言葉が出た。
「お守りを探していたんです。女の子が、ずっと大事にしていたもので、それをカラスに取られてしまって。それで、それで……玄関まで入ったら、その子が消えてしまったんです。それで、僕、彼女を探しにここまで……」
葛城が話している間、男はジッと目を合わせ続けていた。黒く空虚な彼の瞳が、全てを飲みこまんとする。それに耐えながら、葛城は言葉を紡いだ。やっと全てを話した頃、男はスッと息を吸い、大きく溜息を吐いた。
「お前、名前は? フルネームで」
「僕は、
「葛城夜執と荻野小鳥ね。はいはい」
その言葉の一つ一つを導くだけでも、男は目線を反らさなかった。それが嫌に不気味で、葛城は一度目を瞑る。
「目を瞑っても意味はないぞ。嘘じゃないのはわかったから、気を楽にしろ」
ぶっきらぼうにそんなことを言って、彼は葛城から目を反らした。そのまま、目線の先にある井戸を指さし、男は訊ねる。
「この井戸の底に荻野小鳥がいると」
男はそう言って、またジッと井戸を見つめる。再び、空間が暗くなっていった。だが、今回は、その冷えた空気の中に、巨大な何かが這うような動きと、強い温もりにも似た何かを感じる。
葛城がその温もりにボーっと脳を囚われていると、それに気づいていないのか、それとも無視しているのか、男が、唐突に言った。
「良し、ついて来い。一緒に探す」
「え?」
「俺も今、迷子なんだ。同僚達に置いて行かれてな。流石に一人で外で待つのも嫌なんで、ここまで入って来た。そしたら玄関に戻れなくなってな」
「げ、玄関に戻れない?」
そうだ、と、男は言う。縄が滑らないことを確認すると、彼は井戸の縁に足をかけた。その後ろ姿を観ながら、葛城は問う。
「あの、重ねて聞きますが、貴方はこの邸に」
「仕事で来てんの。それ以外にある? こんな気持ち悪い家に土足で入るなんて。あぁ、お前、スニーカー持ってるなら履いとけ。外に出られれば大丈夫だとは思うが、足の裏怪我するぞ」
「あ、はい」
男は古びた縄に掴まると、不安定なまま、井戸の底へじわじわと降りていく。その様子を葛城は見ていた。どうにか自分も真似が出来ないかと、思考する。
「あの、あの」
「何。ちょっと待って、今忙しい」
彼はまだわずかな深さにしか到達していないらしく、反響も薄かった。だが、見えなくなった姿に、葛城は急ぐ気持ちが募っていく。自分も着いて行こうと、縄に手をかけ、足を井戸の壁面に付けた。
「おい待て! 流石にそれは————」
「え?」
下から、男の声が聞こえたと思うと、ブチブチという音が、葛城の上から聞こえる。それは、滑車部分から千切れていく、縄の音だった。ガクンと重力が迫り、掴む物も無いまま、二人同時に井戸の底へと落ちていく。自分の下で、大きな水柱の音が立ったのが分かった。下は水で、おそらくは多少は衝撃が和らぐはずである。ざぱんと男が顔を水面に上げたのがわかった。
「うぇえ、眼鏡落としたぁ……あ?」
男の声が聞こえた瞬間、葛城は尻から人の顔に向かって落下し、そのままそれを押し付けるように水に着地したのを理解した。背中と後頭部が、叩きつけられたと思えば、すぐに水底へ体が沈んでいく。暗い水面が揺蕩う。視界に、何か長細い生き物が流れていった気がした。鱗が、僅かな光を反射して、鈍く光っていた。
ごぼごぼと空気が葛城の身を包んだかと思うと、誰かが彼の体を水面まで乱暴にも押し上げる。
「えぇい! クソ! 野郎のケツにキスする趣味はないぞ!」
濡れた男の怒号を聞きながら吸う空気が、酷く甘く感じた。突然落ちたにもかかわらず、葛城は隣の男ほど息が上がったりはしていなかった。それよりも、ずっと、澄んだ気持ちで、ゆっくりと息を吐いている。
思った以上に広く澄んだ視界の井戸の底は、気が付けば、水深が足首が浸かる程度しかない。先程の自分達は、何故落下の衝撃が和らぐ程、また溺れる程深くまで沈んでいたのだろうと、葛城は首をひねった。
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