災禍屠りて日蝕を成す

神取直樹

プロローグ

 その少年には、生まれついて、愚鈍で残虐である自覚があった。例えば母の産道を通るとき、酷く遅く、その周囲を傷つけて、母体諸共破壊の限りを尽くし、産み落ちて来たという。また育った施設や、小学校、中学校でも、周囲とは深い軋轢を作り続けた。それは、周りと比べて動きが遅いだとか、反応が悪いだとかが主である。それ故にどんどん彼は卑屈になっていった。どんどん、孤独が増えていった。

 孤独が募るほどに彼は、時折、爆発するような破壊の衝動に駆られる。人を傷つけてはいけない意味を、少なからず知って育ったために、彼はいつも自分と自分の周りにある無生物を破壊した。その度に、体が壊れる音がした。

 その姿を、皆々が「メンヘラ」などと言って罵るのだ。

 特にこの、ひれ伏す少年の目の前で鞄の中身を床にまき散らし、その上から牛の乳を垂れ流す女生徒は、それが顕著である。


葛城かつらぎ


 少年は父を知らない。故に呼ばれたその名は、母のものだった。この女の前で顔を上げようものなら、また蹴られるのを理解し、葛城少年は顔を伏したまま言葉だけを聞く。


「お前、さっきカッターを私に向けてきたよな?」


 葛城はフルフルと首を振った。その口から、唾液交じりになんとか言葉を絞り出す。


「ち、違うよ……たまたまなんだ……たまたま、刃先が荻野おぎのさんの方に向いてただけなんだ……本当なんだ……」


 少女荻野は、葛城の言葉に眉を顰める。その姿は神々しくも感じられるほど、人形のように美しかった。夕暮れの光が彼女の淡い銀の髪を透かす。顔を上げた葛城は、眩しさで目を瞑った。


「何見てんだよ、カス」

「ご、ごめん」

「どもんなゴミ」

「すみません……」


 短い罵倒をいくつも繋げる荻野は、ふと溜息を吐いて、葛城を睨む。その目は片方の奥が銀の錆のようで、彼女の視界の不自由さを表している。

 葛城がこうも彼女に頭が上がらないのには、この目があった。かつて幼少の葛城は、その破壊衝動において、人を傷つけたことがある。その唯一の人が、彼女だった。故に、葛城は彼女には逆らえない。小学校中学校、今に至るまで彼女の言いなりなのである。

 荻野は葛城の顎を足で撫でると、そのまま蹴り上げた。呻く葛城に、荻野は言う。


「アンタさあ、そうやって何度も何度も謝って、恥ずかしくないの?」

「は、はは恥ずかしくはないよ……必要でやってることだし」

「謝罪ってのは回数重ねるごとに軽くなんのよ。誠心誠意やる気があるなら、もっと何か行動に起こしなさい」


 その女帝の如き言葉の一つ一つに、葛城は感情を滲ませた。あぁ、きっと、このまま高校にあがったとしても、自分は彼女の犬のままであろう、と。


「近所に化け物屋敷っていうのがあるのは知ってるわね?」


 荻野は淡々と、葛城の頬を足先で突きながら言った。

 亥島の化け物屋敷と聞いて、知らないと答える人間はこの中学校にはいない。人が住んでいる様子もなく、だがいつまで人がいたのかもわからない、巨大な日本屋敷が、二人の通学路にはあった。そこは稀に複数人の子供の泣き声が聞こえるだとか、豪勢な和装の花嫁がぽつりと庭に立っているだとか、怪談騒ぎが絶えない場所でもある。また、葛城はその屋敷が時折、その形を変えているような記憶さえある。


「……今朝、鴉が私のお守りを取って、その中に入って行っちゃったのよ。アンタ、それを取り戻すの、手伝いなさい」


 葛城は、荻野が怖いもの知らずであることは知っていた。所謂恐怖のようなものが薄く、度胸があり、故に周囲からも姐さんとして慕われている。同じ環境で育ったはずの自分とは、生まれついて違うということが、明らかだった。

 その彼女が、珍しく少しの恐怖心を見せている。面食らった葛城は、正座をして彼女をボケっと見上げていた。


「やるの、やらないの?」


 荻野がぎろりと見えない瞳で睨みつける。背筋に痛みにも近い電撃が走る感覚があった。葛城がこくこくと急いで首を縦に振ると、荻野は座っていた葛城の机の上から降り立つ。


「じゃあ行くわよ。着いて来なさい。荷物持って」

「あ、はい」


 葛城は荻野の鞄を持ち、自分の鞄を机の傍に戻す。牛乳が乾き始めていた。一日置いておけば乾くだろうと、荒れ放題の自分の周囲をそのままに、教室を出た。


 二人はあまり人が通らない裏門に向かう。下校時間も過ぎて、日が暮れ始めていた。赤い日差しが目を焼く。

 ふと、鼻を指すようなツンとした煙の臭いがした。


「おー、荻野と葛城じゃん。お前ら帰宅部だろ。こんな時間まで何してたんだ?」


 聞き覚えがある、というか、聞き飽きた声だった。二人に声をかけて来たのは、同級生の大宮銃夜という少年である。彼は未成年が嗜むべきではない煙草を口にくわえながら、長い前髪の隙間より、赤い瞳でこちらを見た。


「アンタには関係ないわ。ならアンタも今まで何やってたのよ。ずっと煙草?」


 荻野はバッサリとそう言って、彼を睨んだ。


「俺は委員会やってる幼馴染待ち」

「あっそ」

「何だ、今日も今日とて機嫌が悪いな茨姫」

「いつもよ。このグズのせいで毎日イライラさせられてるの」


 その言葉を聞いた銃夜は、ハハっと笑った。


「その割には仲良く毎日一緒にいるじゃねえか。本当にイライラさせられてるならそもそも関わらなきゃいいのに、さて、これはこれは、本当の意味で性根が腐ってるのか、それとも……だな」


 時々、この銃夜という男は何か含みのある物言いをする。その意味が、荻野の精神を逆なでしたのか、彼女はより眉間に皺を寄せて言った。


「勝手なこと言わないでくれる? 私達今急いでるの」

「おう。だろうな。確かに急いだほうが良い」


 荻野の言葉に間髪入れず、銃夜は溜めていた煙を吐く。一瞬、彼の瞳が二つに分かれたように見えた。


「無くしちゃいけないものを無くしたな。早く行って取り戻せ。荻野、それは絶対に肌身離さず持っていないといけないものだ。葛城も手伝ってやらねえと、拙いことになる」


 酷くストレートに、彼は言った。妙な語尾の強さが、二人を動揺させ、目線を合わせるに至る。


「な、何で、お守りのこと知ってるのよ」


 荻野が問うと、銃夜は煙草の火を消して一歩、彼女に迫った。近くによると、彼のガタイの良さがよくわかる。


「別にお守りだなんて言ってねえよ。だが多分それだろう。それが無いからだな、おかしいのは」

「おかしいって何」

「うーん……気配、としか言いようがねえなあ」

「何よそれ、意味が分からないんだけど」

「わからんで良いんだよ。わからないままの方が良い。だから早く取り戻せ。手遅れにならないうちに」


 銃夜は特有の低音で、荻野と葛城の耳をかき鳴らした。そこまで言って、彼はニパっと笑う。


「ま、お前らなら大丈夫だと思うけど」


 荻野がどっちよ、と言って、不機嫌そうに裏門を出た。早くしろと葛城を睨むと、彼もまたそれに着いて行こうと歩み始める。

 ふと、銃夜の隣を通ろうとすると、彼が一言何か呟いたのが聞こえた。


 頑張れよ、と、その一言だけが、葛城の耳に残る。振り返ると、彼はこちらを見て、いつものような気味の悪い笑いではない、優しさと寂しさを含んだ表情をしていた。その長い影を踏む葛城は、一瞬だけ、ざわつくような鈴と生物の気配を感じる。初めての感触をかき消すように、彼は荻野を駆け足で追いかけた。

 亥島の化け物屋敷は、すぐそこだった。

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