第二章 天使の殺戮

2-1

 ――3月13日


 もうどれくらい此処ここにいるのかわからない

暗い、怖い、誰か助けてくれ

暗い、怖い、どうしてこんな目に遭わなければいけない?

暗い、怖い、助けて、暗い、怖い、何故

同じ言葉が頭の中をループする。叫び過ぎて声は嗄れ、体力は消耗するばかり。


 見渡す限り剥き出しのコンクリートの壁が広がる。薄暗く冷えた部屋の中で樋口コーポレーション社長、樋口宏伸は両手足を縛られた姿勢で椅子に座り、呼吸を荒くして喘いでいた。


 カタ……ギィィ……目の前の鉄の扉が開いて光が差し込んだ。しかし差し込んだ光は一瞬。

救いの灯りのように思えた光源は黒い影に遮られた。全身黒づくめの服を着た女がヒールの音を響かせ歩いてくる。


「私が誰か……わかる?」


寺沢莉央は口紅で艶やかに彩られた唇を品よく動かした。宏伸は驚きなのか、恐怖なのか、目を見開き怯えていた。


「覚えてるみたいね」


宏伸の様子に満足げに微笑んだ彼女は彼の頭部に銃口を押し付けた。莉央の持つ銃はベレッタ92。


「安心して。殺さないから。7年振りの再会なんだもの。じっくりお話しましょう。まずはそうね……9年前のことから話してもらいましょうか」


 陸に打ち上げられた魚のように宏伸は口をパクパクとさせている。なんて哀れな姿だろう。


「9年前、あなた達が樋口祥一を……そうよね? お兄さん」


宏伸は怯えきった顔でヒィッと喉を鳴らす。莉央は彼のこめかみに当てた銃口を離し、ヒールの音を響かせて部屋を歩く。


「知ってるのよ、全部。あなたと俊哉兄さんと、雅子さんとお父様の主治医の永山先生が共謀してお父様を病死に見せかけて殺したこと」


 宏伸の目はわかりやすく泳いでいる。莉央は部屋にあるもうひとつの椅子に腰掛けた。脚を組んだ時に黒いロングスカートのスリットから彼女の白い太ももが露になり、宏伸の視線はそれに釘付けになった。


確実に死が迫るこんな状況に陥っても男はいやしい獣だ。莉央は深いスリットから覗く自分の太ももに宏伸が夢中になるのを見て愉しんでいた。彼の喉がゴクリと動いているのは緊張か欲望の制御か、どちらだろう?


『莉央……お願いだ。助けてくれ』

「私の名前覚えていたのね。とっくに忘れられていると思ってた」


宏伸が精一杯絞り出したか細い願いは莉央の冷たい一瞥によって無視される。宏伸の両肩は震えていた。


『あれは……あれは俺には関係ない。親父の薬をすり替えたのは母さんで……』


 座ったまま彼女は宏伸へ発砲した。宏伸の悲鳴と轟音と共に強烈な火薬の臭いが灰色の部屋を包む。銃弾は宏伸の顔の真横をかすめ、壁にめり込んだ。


「私、アメリカで射撃訓練を受けたの。射撃を教えてくれたマフィアに筋が良いと誉められたわ。今のはわざと外しただけ。次は外さない」


顔面蒼白の宏伸に微笑みかける莉央。これが半分血の繋がった兄と妹の9年振りの再会だ。


「誰が薬をすり替えたかなんて、どうでもいい。雅子さんが薬をすり替えたと知っていて黙認したあなたも同罪よ。ねぇ、お兄さん。いいこと教えてあげましょうか」


 莉央は前傾姿勢になり、組んだ脚の上に頬杖をついてその上に小さな顔を乗せた。猫に似た瞳が宏伸を射る。


「お父様はね、あなた達には内緒で巨額の隠し財産を持っていたの。その財産を管理していた銀行口座もあなた達が知らないお父様名義の土地もお父様はすべて私名義にして私に遺してくれたのよ」

『なんだって……? お前に財産が渡ったなんて話は弁護士は一言も……』


宏伸の驚いた顔を見て莉央は高らかに笑う。


「馬鹿ね。樋口家の顧問弁護士はあなた達の手駒でしょう? 私に財産が行き渡るように手配をしてくれた弁護士は樋口家の顧問弁護士ではなくお父様の長年の友人の方。私は当時未成年だったからその弁護士の方が代理人として手続きを行ってくれた。お父様は自分の死期が近いこと、あなたや雅子さんが自分を殺そうと企てていることに気付いていた。だから自分が居なくなった後の残された私の行く末を心配して、私が路頭に迷わないようにお金と土地を遺してくれたのよ。でも……」


 莉央は一度言葉を切り、息をついて再び口を開いた。


「お父様が亡くなった後のあの地獄を考えれば路頭に迷って死んだ方がマシだった。お父様の葬儀が終わった夜、あなたと俊哉兄さんが私に何をしたか、まさか忘れてはいないでしょ?」


冷たく突き刺さる莉央の視線に堪えられなくなった宏伸は目をそらして唇を噛んだ。


「あんな屈辱的なことない。あなたと俊哉兄さんは私の身体をめちゃくちゃに弄んで……信じられなかった。私は半分血の繋がった妹なのに。雅子さんは見て見ぬフリして助けようともしないで、私があなた達兄弟を誘惑してきたと言ってきた。ひどい人達ね」

『許してくれ。あれは一時の気の迷いだったんだ』

「お父様の葬儀が終わった夜に腹違いの妹を犯しておいて許してくれ? ふざけないでよ。あの時だけじゃない。あなた達兄弟は何度も私を玩具にして遊んだ。あなた達から逃げるために私はあの家を出た。……死ぬつもりだった。でも私を救ってくれる人に出逢ったの」


 また鉄の扉が開いて足音が近付いてきた。それもひとりではない、複数の足音。


『あなたは私の大切な莉央を随分と苦しめてくれたようですね』


ダークスーツを纏った貴嶋佑聖が現れた。貴嶋の後ろには多数の男が控えている。


『お前誰だ?』

『私はキングと申します』


訝しげな視線を送る宏伸に対して貴嶋は優雅に会釈した。宏伸は鼻で笑い、椅子の上でふんぞり返る。


『はっ。キングだかなんだか知らないがお前、莉央にたらしこまれた男か? この女は昔から男を籠絡ろうらくする術に長けていてね。お前も都合のいいように利用されてるんだろう? この頭のおかしな女から離れた方が身のためだぜ』


 横柄な態度の宏伸の太ももに容赦なく銃弾が撃ち込まれる。宏伸が悲鳴をあげた。


『口の利き方に気を付けろ。自分の立場をわかっていないようだな?』


宏伸に発砲したのは後方に控えているケルベロス。椅子から立ち上がった莉央は貴嶋に寄り添った。


『まぁまぁケルベロス。これでも莉央のお兄さんだ。もてなしてあげようではないか。……お兄さま、ご紹介しましょう。彼女は我等がクイーン、私の大切な恋人です』


 貴嶋は莉央の肩を抱いた。撃たれた脚の痛みに顔を歪める宏伸は恐怖と驚愕の目で彼らを見上げる。


『クイーン?』

「そう。私は犯罪組織カオスのクイーン。だけどあなたに詳しく説明してあげる必要もないわね。もうすぐあなたは死ぬんだから」

『おい莉央……正気か? 本当に俺を殺すのか? 俺はお前の兄だぞ?』

「あなたを兄だと思ったことは一度もない。……ケルベロス、処刑の時間にしましょう」


 莉央がケルベロスに指示をする。キングとクイーン、二人の主君に忠実なケルベロスが合図を送ると部屋にいた数人の男が宏伸の周りを取り囲んだ。


「最後は私に殺らせてね。それまでは思う存分楽しんで」

『かしこまりました』


莉央の命令を受けたケルベロスは表情ひとつ変えずに宏伸の肩を撃つ。後ろに大きくのけ反った宏伸は椅子ごと冷たいコンクリートの床に倒れ込んだ。


『莉央…お願いだ……助けて……くれ……』


喘ぎ苦しむ宏伸を見下ろす莉央は美しい微笑を浮かべている。闇に堕ちた天使の微笑み。


「さようなら。


 やがて莉央の持つベレッタのトリガーが再び引かれた。

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