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3月17日は雨が降っていた。早河探偵事務所近くにある三栄公園の木々も雨で葉を濡らしている。ここのところ晴天が続いていた分、今日の雨は恵みの雨となるだろう。
事務所に出勤したなぎさは傘立てに雨粒で湿った傘を立て、閉めきった窓を開けた。室内に入り込んでくる雨の匂いがなぎさは嫌いじゃない。
所長の早河仁はリクライニングチェアーに身体を預けている。何やら物思いに耽っているようだ。
なぎさが朝の掃除を8割方終えた頃に、早河が彼女を呼んだ。早河は昨日みき子から仕入れた情報をなぎさに聞かせる。
樋口祥一の愛人、寺沢美雪の名前を出した時からなぎさの表情に変化が見え始め、話が美雪の娘に及んだ時にそれは顕著になった。
『その娘の名前は寺沢りおと言うんだが……』
「寺沢莉央?」
『どうした?』
「……知り合いに同じ名前の子がいるので……」
『知り合い?』
「高校時代の友達に寺沢莉央って子がいるんです」
ソファーに座るなぎさは顔を伏せた。何かが妙だ。彼女がこんなに動揺を見せるのは珍しい。
そう、昨日みき子の店で考えていたことがある。樋口祥一と美雪の娘、寺沢りおが今も存命ならばなぎさと同じ年頃になっているはずだと。
『なぎさは今24歳だったよな?』
「はい」
『寺沢美雪の娘は10年前は中学生だったらしい。なぎさと同じ年代だ。なぎさの友達の寺沢りおは今はどうしている?』
「莉央は……」
なぎさは伏せた顔をわずかに上げた。固く唇を結んで眉間にシワを寄せるなぎさのこんなに苦しそうな顔を見るのは初めてかもしれない。
彼女は深呼吸をして口を開いた。
「莉央は高校三年の夏に居なくなったんです」
『……居なくなった?』
――高校時代、夏、居なくなった……早河は封印していたあの頃の記憶のページが急速に開かれる感覚に陥り、かすかにめまいを感じた。
かつて早河の高校時代の友人であり今は犯罪組織カオスのキングとなった貴嶋佑聖も早河が高校二年の夏に姿を消した。
『その子のことを居なくなるまでの経緯を含めて詳しく話してくれないか?』
「……わかりました」
なぎさが高校時代の話を語り出す。
あの子は……いつもひとりだった。
*
――2000年5月、東京。
香道なぎさが
1ヶ月も経てばクラスにはいくつかの仲良しグループが編成され、なぎさも同じクラスで仲良くなった四人といつも一緒にいた。
四人の名前は麻衣子、優香、千絵、紗菜。
部活は演劇部に所属し、華の女子高生の生活を満喫していたなぎさにはただひとつ気掛かりなことがあった。それはあの子のこと。
あの子はいつもひとりでいる。登下校、移動教室、昼休み……いつもひとりで過ごしている彼女の名前は寺沢莉央。
(どうして寺沢さんはいつもひとりなんだろう?)
美術の時間、写生で校内の庭に出ていたなぎさは一緒にいた仲良し四人組にその疑問をぶつけてみた。
「寺沢さん? ああ……なんか話しかけにくいよね。オーラがひとりだけ違うって言うか」
「うんうん。綺麗過ぎて近寄り難いかな」
紗菜が言い、麻衣子が頷く。次は優香と千絵だ。
「儚げな美人って感じだよね。ひとりだけ大人びてるって言うか……手足もモデルみたいにスラッとしてるし、雰囲気が年上みたいな気がして緊張する」
「話しかけても“うん”くらいしか言わないからなぁ……何考えてるのかちょっとわかんない」
決して悪口ではないのだ。皆、それぞれ寺沢莉央へのアプローチを試みては失敗している。
とにかく寺沢莉央は無口だった。それゆえに冷たい印象を周囲に与えている。
寺沢莉央の容姿は小さな顔に陶器のような白い肌、目鼻立ちの整った綺麗な顔立ちにサラサラのセミロングの黒髪、折れてしまいそうな細い身体にスラリと長い手脚。
誰もが口を揃えて寺沢莉央を美少女と表現した。
高校生にしては大人びた雰囲気を持つ彼女はクラスでも浮いた存在だった。教師ですら寺沢莉央には容易に話しかけない。
堅物な男性教諭も寺沢莉央を前にするといつも頬を染めていた。
あの綺麗な顔で微笑めば誰もが寺沢莉央に心を奪われるに違いないのに彼女は笑わない。たとえるなら無表情のビスクドール。
彼女は本当に生きているの? 本当はよくできた高性能ロボットか人形で、背中にスイッチがあったりしないだろうか?
まるで喜怒哀楽すべての感情を失っているような少女はひとりで何を考えているのだろう?
『バーカ。ロボットが飯食うのか?お前、いつの間にファンタジーやSFの世界の住人になったんだ?』
兄の香道秋彦に寺沢莉央ロボット説を話すと笑われてしまった。
「バカって言った方がバカなんだよ! 私だって寺沢さんがロボットじゃないことくらいわかってるもん。ただロボットかお人形みたいだなって……」
『はいはい。でもな、なぎさ。皆がお前みたいにすぐ人と打ち解けて仲良くできるわけじゃねぇぞ』
秋彦は膨れっ面の妹の頭をポンポンと撫でた。
『人と話すことが苦手な子や心に傷を抱えて対人恐怖症になる子だっている。りおちゃんは人見知りするタイプなのかもな』
「人見知りかぁ。私はそういうのしたことないからよくわかんない」
『そりゃあ、なぎさは人類みんな友達! って考えてるおめでたい奴だからな。お菓子あげるからオジサンと遊ぼって言われて危ないオッサンについていきそうになる小学生だったから兄ちゃんは苦労したぞ』
小学生の時の恥ずかしい話を持ち出されてなぎさはさらに頬を膨らませた。
当時すでに高校生だった兄が側にいなければお菓子につられて知らない男に連れて行かれそうになった経験が何度かある。確かに、軽率で考えなしな小学生であったことは否定できない。
しかし今はそんな昔話をしている場合ではい。
「どうしたらいいのかなぁ」
『悩むなんてらしくねぇな。自称友達作りの名人だろ? いつも通りやってみろよ』
「いつも通りって……」
『いつもどうやって友達作ってた?』
「そんなのわかんない。何も考えてないから」
『ほら、それだよ』
秋彦が人差し指をピンと上に向けて含み笑いをする。
「それって何?」
『何も考えずに思うがままに突っ走る。それが香道なぎさだろ?』
「あっ……」
なぎさは己の最大の短所にして最大の長所を指摘されて目を見開いた。友達を作る時は何も考えずに直感で動いていた。
寺沢莉央にも直感の向くままぶつかればいい。
翌朝、聖蘭学園に向かう途中にある渋谷区の
早歩きをして前を歩く彼女に追い付き、莉央の肩を軽く叩いた。
「寺沢さん。おっはよー!」
「あっ……えっと……おはよう」
突然、なぎさに話しかけられて莉央は戸惑いがちに小さな顔を傾けた。
「ごめんなさい。同じクラスなのはわかるんですけど、あなたの名前が思い出せなくて……」
「香道なぎさ。なぎさって呼んでね」
「なぎさ、ちゃん……」
「呼び捨てでいいよ。私も莉央って呼んでいい?」
「……はい」
莉央は間近で見るとますます美少女だった。街で芸能事務所のスカウトをされたりもするかもしれない。
こんなに顔が綺麗なら毎日楽しいだろうなと、なぎさは楽天的に思っていた。
「あのね、ウザイなって思われるかもしれないけど私、莉央と友達になりたいの」
「私と?」
莉央は猫みたいな綺麗な二重瞼を何度かまばたきさせた。長い睫毛の奥の漆黒の瞳に吸い込まれそうだ。
「一目惚れって言うのかな。あ、変な意味じゃないよ? 私は男の子が好きだし、好きなタイプは俳優の一ノ瀬蓮で……じゃなかった。だから初めて莉央を見た時から友達になりたいと思ってたの。私と友達になってください!」
なぎさが大きな声を出したことで周りにいた生徒達が一様に振り返ってなぎさと莉央を見ていた。注目を浴びてしまったなぎさは恥ずかしくて頬を染める。
莉央がやがて口元に手を当てて笑い出した。
「なぎさって面白い人だね」
莉央の笑顔はなぎさの思った通り、天使のように優しく美しかった。それから二人は勢揃坂を歩いて学校を目指す。
「私ね、中学まで北海道に住んでいたの。中二の夏に東京に来たんだけど今もまだ東京の生活に馴染めなくて……」
寺沢莉央はビスクドールでもロボットでも無口でも冷たくもない。彼女は新しい環境に馴染めずに人見知りをしてしまう不器用な女の子だったのだ。
*
――24歳のなぎさが16歳の頃の自分の話を終えた。早河は相づちを返すだけでほとんど喋らずになぎさの話を聞いていた。
「それからの莉央はクラスの子達とも仲良くなって、優しい子だから皆に好かれていました」
『北海道に住んでいたって言ってたが、彼女の両親は?』
「自分の話はしたがらない子でした。私も詳しくは知らないんですけど……中二の時にお母さんが病気で亡くなって、東京にいるお父さんに引き取られて東京に引っ越して来たって……」
『樋口祥一の娘の話と一致するな』
「所長は私の友達の寺沢莉央と樋口祥一の娘の寺沢りおが同一人物だと考えているんですか?」
なぎさが語気を強めた。彼女の気持ちはわかるが早河は冷静だった。
『寺沢りおなんて名前、そんなに同姓同名もない。年齢や環境も類似点が多い。なぎさの友達の寺沢莉央が樋口祥一の娘だと考えるのが妥当だ』
「莉央が樋口社長を殺した犯人かもしれないって言うんですか?」
『それはまだわからない。しかし寺沢りおが樋口祥一の娘である以上は樋口家との繋がりがある。高三の夏に居なくなったとは具体的にどういうことだ?』
「夏休みにいきなり連絡が取れなくなったんです。先生に事情を聞いても何も教えてくれなくて……私に何も言わずに莉央は……」
なぎさの膝の上に置かれた手が固く握りしめられ震えていた。
寺沢莉央の失踪と貴嶋佑聖が失踪した状況はよく似ている。
誰にも告げずに彼らは突然姿を消し、そして再び現れた。
破滅的なストーリーを背負って。
第一章 END
→第二章 天使の殺戮 に続く
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