1-3

3月14日(Sat)午後2時


 土曜日の午後のカフェ。デートを楽しむカップルやレポートを片付けている大学生、井戸端会議の奥様集団に囲まれて小山真紀は座っていた。


「何これ?」


彼女はテーブルに置かれた小さな箱を見て首を傾げる。真紀が注文したチョコレートパフェの隣に置かれた箱はパール加工が施された白色の包装紙にロイヤルブルーのリボンがかけられている。


『お返し。今日ホワイトデーだから』


対面にいる矢野一輝が真紀に向けて微笑んだ。彼は二杯目のコーヒーに口をつけている。


「あれは義理ですけど。いつも情報くれるからそのお礼に……」

『わかってるって。だけど義理でもお礼でも真紀ちゃんにバレンタインのチョコ貰えて嬉しかったんだよね。それ、真紀ちゃんに似合いそうだと思って。受け取ってよ』

「だから名前で呼ばないでよ……」


真紀は小声で呟き、箱に手を伸ばした。リボンをほどいて真珠のような色合いの包装紙を丁寧に剥がす。現れた黒いケースの蓋を開けると、繊細なデザインの一粒ダイヤのピアスが入っていた。


「これ高かったんじゃない?」

『真紀ちゃんになら俺はいくら投資しても構わないよ?』


 ニヤリと妖艶に微笑む彼から目をそらした。目を見てお礼が言えるほど器用に生きられない真紀は、矢野から目をそらしたまま「ありがとう」と言った。

矢野は満足げに頷き、煙草を取り出す。


『樋口コーポレーション社長の拉致事件、苦戦してるみたいだね』

「犯人の手掛かりがまったく掴めないの。そっちで何か情報ない?」

『樋口宏伸がセクハラパワハラの塊の社長だったってことくらいしか知らないな。樋口社長の不倫相手もアリバイありだったんだろ?』

「そう。弟の俊哉もなんだか女たらしな感じで兄弟揃ってろくなものじゃないわね」


 9日に拉致された樋口宏伸の行方はいまだわからず、これといった容疑者も判明していない。警察の捜査は行き詰まっていた。


『樋口コーポレーションで働くいい女はみんな副社長の俊哉の愛人だって噂もあるからね。真紀ちゃんは口説かれたりしてないよね?』

「まぁ大丈夫だけど……」


警視庁に俊哉が訪れた時の自分を見るいやらしい視線を思い出すと吐き気がしてくる。


(でもそれを言うなら矢野くんだってかなりろくでもなさそうに見えるのに……)


 どういうわけか、この男に嫌悪感はない。

矢野一輝と言う男を真紀はよく知らない。年齢は真紀よりひとつ年下、元同僚で今は探偵の早河仁に情報提供をしている情報屋。


たったそれだけしか知らない男と休日にカフェで会ってホワイトデーのお返しを貰い、何故、コーヒーを飲みながら談笑しているのだろう。


 悶々とした気持ちでチョコレートパフェを頬張っていると、バッグに入る携帯電話のバイブの振動が身体に伝わってきた。

喧騒の店内に背を向けて片耳を押さえて真紀は電話に出た。店内が非常に騒がしいがそれでも相手の声はかろうじて聞こえる。


「はい。……え? ……はい。わかりました。すぐに向かいます。……矢野くん」

『どうした?』


通話を終えた真紀は携帯をバッグにしまうとその一言を矢野に告げた。


「東京湾で樋口宏伸が死体で発見された」


        *


 すぐそこには潮の香りのする青い海が見える。東京湾に浮かんでいた樋口宏伸の死体が灰色のコンクリートの上に晒された。

樋口宏伸の無惨な姿に上野は顔をしかめる。


『酷い有り様だな』

『致命傷は胸部の銃創です。他に肩や脚を合わせて数十発撃たれています。顔や身体にも殴られた形跡がありました』


 監察医の見解に上野は頷き、まず黙祷する。水に濡れた宏伸の顔は殴られて腫れ上がり、その死に顔は恐怖と絶望で激しく歪んでいた。


『拉致監禁に暴行、最後には射殺……まるで処刑だな』


苦悶の表情を浮かべた彼は死ぬ間際に何を見たのだろう。


「遅くなりました」

『おお。小山。非番なのに悪い』


 現場に到着した真紀を同僚の原が出迎える。彼はいつもはパンツスーツの真紀のスカート姿に口元を上げた。


『お前には珍しい服装だな。さては男と会ってたな?』

「非番なんですから私だってこういう服くらい着ます」


原の追及をやり過ごして彼女は規制線の黄色いテープを潜る。


 今日の服は確かに矢野と会うからこそ選んだ服ではあるが、男に見せるために買った服はひとつもない。

男のためにお洒落をする……そんな女ばかりではないとムキになって反論したとしても、原にはわからないだろう。


『見て後悔するなよ。すっげぇ酷いから』

「そんなに?」

『樋口宏伸に相当恨みがあるんだろう。あれは処刑だな』


青い海の向こうには巨大な灰色のビル群が見える。風がとても強い。真紀は風でなびく髪を耳にかけた。


 結局、矢野に貰ったピアスをつけることが出来ないまま今日が終わりそうだ。あのピアスをつけるのはいつになるのか。

ピアスをつけているところを矢野が見たら彼は喜んでくれるだろうか。

不特定多数の男のためではなく、たったひとりの好きな男のためにするお洒落はある。……そう思って真紀は即座に否定した。


(現場で何を考えてるの私は。仕事に集中しなくちゃ)


気持ちを切り替えて彼女は樋口宏伸の死体へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る