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3月12日(Thu)午後4時


 この日、警視庁捜査一課には張り詰めた空気が漂っていた。捜査一課警部の上野恭一郎は穏和な顔立ちを崩して眉間に深くシワを刻んでいる。


『犯人からいまだに何の要求もないとすると……目的は金ではないのかもしれん』

『そうですね。樋口コーポレーションの母体である樋口財閥は他にも企業を抱える有名な資産家です。金を獲ろうと思えばいくらでも獲れるのに要求してこない。やはり樋口社長への怨恨でしょうか』


上野の部下の原昌也はホワイトボードに貼られた関係者写真を指ではじいた。上野は口を真一文字に結び、腕を組んで唸る。


『樋口宏伸への怨恨だとすれば彼の身の安全の保証はないな』


 事件は3月9日夜に発生した。大手ゼネコンである樋口コーポレーションの社長、樋口宏伸が何者かに拉致された。翌日早朝に樋口コーポレーションのコンピューター宛に樋口社長の監禁映像が送られたが、映像から手掛かりを得ることは出来なかった。

犯人からの身代金要求の連絡もなく、事件発生から3日が過ぎようとしている。


『気になるのはMARIAが入っていたビルの建設を樋口コーポレーションが請け負っていたってことだ』

『ええ。あの時、我々の対応に出たのが樋口宏伸でしたね』


 3ヶ月前の昨年12月に起きた女子高生連続殺人事件はまだ上野と原の記憶に新しい。

殺害された女子高生達が所属していた売春組織MARIAが拠点とする渋谷のビルは2003年に建設され、樋口コーポレーションが施工に関わっている。


あのビルの元の所有者は犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖。

貴嶋と樋口コーポレーションとの間に何らかの取引があるのではないかと昨年探りを入れたが、対応に出た社長の樋口宏伸にはビルの施工はビジネスとして請け負っただけだと言われ、ほとんど門前払いの状態だった。

まさか3ヶ月後、その樋口社長が拉致されることになるとは上野も樋口社長本人も思いもしなかっただろう。


「樋口俊哉さんがいらっしゃいました」


 小山真紀が樋口宏伸の弟、樋口俊哉を連れて来た。俊哉はスラリとした長身の優男。太り気味でどちらかと言えば醜男な兄の宏伸とは正反対の雰囲気だ。

世の中には似ていない兄弟もいる。


上野が席から立ち上がって俊哉に頭を下げた。


『樋口さん。ご足労いただいて申し訳ありません』

『兄はまだ見つからないんですか?』


俊哉は爽やかな風貌が台無しな不機嫌そのものの顔をしてソファーに腰を降ろした。


『こちらも手を尽くして捜索していますので……』

『早く見つけてくださいね。兄が生きているか死んでいるかでこちらの状況も変わってくるんです。そりゃあ無事に戻って来てくれるのが一番ですよ。ただ会社のことを考えるともしもの事態に備える必要があります』


 傲慢な態度の俊哉は長い脚を組んだ。彼の綺麗に磨かれた革靴が視界に入る。身につけている腕時計も海外の高級ブランドの物だ。

この男が心の底から兄の心配をしているとは思えない。


『何度も同じことを尋ねて恐縮ですが、宏伸氏を拉致した人間に心当たりはありませんか?』

『兄は随分と強引な経営をしていましたからね。リーマンショックの影響は少なからずありましたし、リストラした社員もそれなりにいました。リストラした元社員だけじゃなく兄に会社を潰された連中達も兄を恨んでいると思いますよ』

『しかしですね、宏伸氏の仕事関係で彼に恨みを持つ人物を洗い出して調べましたが、宏伸氏が拉致されたと思われる時間内には今のところすべての人間のアリバイが成立しているんです』

『じゃあ兄個人への恨みじゃないですか? もしそうだとすれば俺は兄の個人的なことは何も知りませんよ』


 真紀が俊哉の前に日本茶を淹れた湯飲みを置いた。俊哉は熱っぽい眼差しで彼女を見上げる。


『警察にも貴女のような綺麗な方がいるんですね。刑事なんて辞めて俺の秘書として働きませんか?』


真紀は無言で会釈をして場を離れた。真紀にあっさりかわされた俊哉は肩をすくめて日本茶をすする。


『失礼ながら動機は樋口財閥への恨みとは考えられませんか?』

『確かにうちは先祖の代からそれなりに黒い歴史はありますよ。うちを恨んでいる奴らもいるでしょう』

『お母様は何と?』

『母は何も。いきなり社長がいなくなったんです。兄が拉致されたことは一部の幹部以外には内密にしていますが、いつまでも社長不在では社員も不審がる。母は会社を守ることに必死で、息子の心配より会社が第一、そういう人なので』


 俊哉は淡々と語る。宏伸と俊哉の父親である樋口コーポレーションの前会長の祥一は9年前に逝去している。

今は祥一の妻の雅子が会長を引き継ぎ、社長を宏伸、副社長が俊哉。典型的な同族経営だ。


『あなたと宏伸氏のご関係はどうです? 失礼ながら兄弟仲はよろしくなかったと聞きましたが』

『ははっ。それはまぁ俺は子供の頃から兄が嫌いでしたよ。今は無関心に近いですね。俺も兄も互いの人生に干渉しません。刑事さんは俺が社長の座を目当てに人を雇って兄を拉致させた……なんて馬鹿げたことをお考えですか?』

『いえいえ。宏伸氏との事実関係を確認したかっただけです。お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません』


穏やかに微笑む上野に対して、俊哉は澄ました顔で冷笑する。


『別に構いません。兄と仲が悪いのは事実ですからね。とにかく、早く兄を見つけてください。それがたとえ死体でもね』


 薄ら笑いを浮かべる俊哉に上野は背筋が寒くなる。それからも俊哉から有力な情報は得られず、俊哉は見送りの真紀と一緒に捜査一課のフロアを去った。

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