世界

『友と交わした誓いを忘れ、浅ましい理念をかかげ、人を貶す理由とする屑、それが私である。

何もなさず、何も生まない。そのような非生産的な存在を、世界は許さない。奈落の底へ突き落とす。だが、私はその突き落とそうとする腕に必死にしがみつき、噛みつき、まとわりつく。

だが、やはりぐいぐいと顔を押し、落ちろ落ちろと世界は嘲笑う。

嫌だ嫌だとしがみつく。そのいたちごっこの如き所業が私の生だ。』



冒頭はこれで良いだろう。薄ら笑って、私はココアを飲む。だが、顔をしかめる。冷めきっていた。

びくりと肩を震わせる。背に稲妻の如き悪寒が走る。スマホの通知。送り主はわかっている。私は、顔を背けながら視界の端の端にぼやけて映る画面を感覚で操作し、全ての通知を切った。

彼女との関係を指先一つで断つ、そんな傲慢さ。


――全て小説への糧さ。


それで私は片付けてしまう。思考停止。なんという浅ましさ。

自虐感情、全て、全て、糧でしかない。私の下劣、肥え太れ、それは私にとって、きっと、力。

歯を食いしばった。



『 「皆に認められる貴方とは違う!」


そう言い放って、私は背を翻して走る。

何か聞こえた気もするが、それは別時空から語りかけられたかのように朧気に聞こえ、私は一瞬たりとも止まることはない。

夜の絢爛を切り裂くように走る。心臓が限界を超える。私は息をしているのか、だが足は機関車のように回り続ける。止まることを知らない。

街ゆく人は皆私のほうを振り返る。黒い黒い人の群れを私は裂く。

私は何処へ行くのだろうか。』



無性に泣きたくなってくる。だがそれも、糧。

私はとうとう頭が回らなくなってきたらしい。思考のパターン化、思考停止。

ああ嫌だ嫌だ。

そこで、私はぴっしゃっと頬をぶたれたように我にかえる。

己の心に釘をうつ行為、それは、なんという無意味さ。

……なんで私こんななんだろう。

いけないいけない、自分を疑うな。ただ、在るがままに在れ!自ら濁るな!



『「私、人一倍、いや、二倍三倍努力してる。皆が遊んでいる時も寝ている時も努力してる。けど、何故?私まだ何も得ていない、何もなせていない。どうして、なんで、寄って集って呑気に騒いでる奴らが笑って、なんで私は泣いているの……」


彼は一つ、鉛のように重い溜息を吐いた。


「その差別意識が君をそこまで程度の低いところへ押しやっているんだ。……呑気に騒いでる奴らと君の、いったい何がどこまで違うというんだい。変にこだわって可能性を放棄しているのは君の方なんじゃないか? 人は高めあって生きていく。君が人の二三倍なら、他の人達は累乗だ。人は一人ではあまり成長できないんだよ。君はただの一人よがり……」


「う、うるさい!うるさい!うるさい!貴方に、私の何がわかるの!?私じゃない人が私を語らないで!!」


「……彼女の事も、そうやって突き飛ばしたんだね。さようなら。もういいよ。死ぬまで這いつくばって生きればいい」


そう言って彼は背中を見せた。彼の酷いなで肩が夕日を半分遮って、半分漏れてくるその赤光が私の目を焼く。たまらなくなって私は後ろから彼に掴みかかった。彼は冷静に、私の手を強引に引き剥がし、片手で私を突き飛ばした。そして、今にも泣きそうな、そんな悲しい目をして、再度踵を返した。』



――何を書いているのだっけ?

とうとうこの話もボケてきた。

私は、頭を抱え、そして、机の角に額を割れるまでぶつけたくなる衝動に駆られる。だが、喉元まで昇って頭を侵そうとしていたそれを何とか飲み込むと、次は思いもしない虚無感。唐突に、胸のうちに燻っていた炎が鎮火して、火元からは煙が虚しく立ち上るだけである。心も体も灰になったように思えて、酷く疲れた。力が入らない、頭が回らない。ふらふらと読み返す。現在八十枚と少し。後半に連れて稚拙な文章へと変わっていく。まさしくガス欠。

……そんな、私が……?

信じられないが、最早怒りも湧いてこない。腹の底に溜め込んだ『糧』を、全て使い果たしたのだろうか。

私はそれほど浅い人間だったのだろうか。

ダメだ、もう結末のイメージが見えない。道無き道を行く、のではない。迷子。それが正しい。

私はこれまで一人暗黒の道を突き進み続けたと言うのに、今になって何も無い辺りを逡巡し始めた。

筆が進まない、イメージが湧かない、何も感じない、感情が薄まる。書けない。


……死? ……いや!!


口内に血の味が巡る。唇を噛んだ。

そして、また微かに灯る炎。醜さ《いのち》を燃やせ。

――何を書いているのだっけ?

何でもいいじゃないか!

筆が突き進むまま、書く。それだけだ!私の世界を投影するだけだ。何の疑問も持つな。私らしく、私らしく、あるがままに在れ!




『 嗚呼ここは無間地獄。皆がいつしか堕ちる場所。私の世界。赤い波紋が咲いていく、波に流れ、揺れ動く。

「さようなら」


――嗚呼、ここは無間地獄。


私はいつまでもいつまでも同じフレーズを繰り返し繰り返し歌った。いつまでも、いつまでも。』




そうして出来上がったのが、原稿百十枚のごみだ。

私の独りよがりの傑作、誰も見た事ない小説。

それは、物語ではない。

醜い独りの女の写生。

誰のためでもない、ただ自分を抉り出しただけの、他に無い特別な作品。

嗚呼、




――あわよくばこれを、芸術と呼んで欲しい。




……次、もしも、もしもこの駄作が続くのなら、題名は、きっとこうだろう。



それは、『裁き』。

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