第3話 後
翌日、夜、結奈から連絡があった。
「明日会えない?またあの喫茶で」
私はきまって外せない用事など年中無いわけだから快く承諾して、そして翌日。その日は細く弱い雨が降っており、それは夏の気温に半ば蒸発してしまいそうなほどで、噎せてしまいそうなほど濃厚なぺトリコールが辺りを満たしていた。
喫茶に入り、二人とも前と同じものを注文し、また品が持ってこられるまで奇妙な沈黙、という事は無く、珍しく食い気味に結奈から話を持ち出してきた。
「ねぇ、これ見て欲しいのだけど」
自信ありげにスマホを突き出してくる結奈。そこにあったのは昨日見た心臓の絵。そして私は目を見開いて、唖然とした。
五千ものファボ。寄せられた「綺麗」等、数々の賞賛。そして結奈の無邪気な笑み。
それを見て私は、私が善意によって引き起こした喜ばしいはずの現実だと言うのに。どうしようも無く醜い私は、今、彼女を激しく嫉妬していた。自分の内から心身が焦げる匂いが漏れているのではと錯覚してしまうほど。
「藍羅のおかげだよ。ありがとう」
「……自分の力だよ」
私は振り絞るようにそう返した。
「いやいや、藍羅がああ言ってくれなかったら私、ずっとこれまでのまま、自分の世界に閉じこもってたと思う。だから、もう一度言うね。ありがとう」
"自分の世界に閉じこもった"、その言葉が厭に私を刺激する。ただ自分の小ささに腹が立った。
――特別になりたい。
だが、現実は凡人以下の醜い餓鬼。そしてその自虐の矛先はだんだんと磁石に引き付けられるかのように、結奈に向こうとしていたが、私はそれを無理やりにも押し込める。私の自我の断片は、ドブに溺れ、そして炙られてもまだ息をしていた。
「私も結奈が皆に賞賛されて嬉しいよ」
それは断片と化した自我が何とか吐き出した精一杯の言葉だった。
結奈は人差し指を口に添わせながら、
「……私ばかり助けられているから、次は私が藍羅を助けたいな」
そう仄かでありながら強い意志を感じさせる声音で言った。
ドクンと、一回。心臓が厭に冷たい心音を発し、断片と化した自我は更に醜い感情に飲み込まれ、押し潰されていく。
――それ以上は止めてくれ。
それが私の本意だった。
天使、彼女を最も形容する名詞だと思う。そう、君が天使なら私は悪魔、いや、それより程度の低い餓鬼だ。嗚呼眩しい。聖らかさは邪鬼を殺す。
「ありがとう。でも気持ちだけ貰っておくよ」
だから、もうこれ以上はやめてくれ。本意だ。
まだ人間であろうとする自我が押し潰され、私の醜さが私の世界全てを飲み込んでしまう。
それだけは、嫌だった。
……何故?
「そう……でも、大丈夫? 」
「ん?何が? 」
私は笑顔の仮面で巧妙に醜さを覆い隠しながら首を傾げた。
「そんな今にも死にそうな顔してるから……前にも思ったんだけどね」
それはどうにも無駄だったようだ。結奈の瞳に写った私の目は可笑しいまでに見開かれていた。「はっ」と吐息混じりの笑いが漏れて、ドクドクと粘度の高い液体が沸き立つような音が等間隔で頭蓋の内で反響していた。
「だから、大丈夫?……って思って……」
「……確かに大丈夫では無いかもしれない。けれど、助けてもらう程でもないよ」
私の醜さが腹の底から意気揚々と登ってきて、とうとう私の口内までたどり着いた。光も通さぬ黒く歪な腕が私の口の端をがっちり掴み、今にも這い出そうとしている。それを私の自我の粘着質な自制心が、這い出してきたその醜いボロ雑巾のような胴体に引っ付けられた黒い足に一生懸命しがみついている。そんな気がして、自嘲の笑みが零れた。
「それは強がり……? 」
「意地だよ」
結奈はまるで酷い腐臭漂う死体でも見たかのように視線を逸らした。
「……私……嫌だ、その表情を見ると、心臓が痛くなる……。今に死んでしまう人の顔してる……」
「……死んでしまう人?」
「……その顔して死んだ人を、二人も知ってるの……」
そう言うと結奈は口をキュッと結んで、目の端に溜まった涙を懸命に推し止めようとした。結奈の微かな体の震えに応じて、それは宝石のようにちらちら輝いた。
「……私が幼い時、叔母さんと従兄弟が、同じ心臓の病気で……亡くなったの。二人とも元気な性格で、意思が強かった。常に全力で、闘病してた。だけど、死ぬ前、今の藍羅みたいな表情をしてたの。その顔。能面に見えてどこか薄ら笑ってて、焦点が定まってなくて、そして作り笑いするの。全部、一緒。叔母さんと従兄弟はそうなってから少しして亡くなった。そこまで一緒になって欲しくない。だから、私……」
「でも、私は病気じゃない」
「……そうだね。でも、」
「私は死ぬつもりなんて……ない。それに私、そんな大病でも何でもないのに、助けてもらうつもりも無い。私、強くなりたい。特別になりたい。だからこんな、何でもないのに一々助けられる訳にはいかない」
それは本意だった。
だがそれは、"死にたい"だとか、神様に縋るようにひとり駄々を捏ねていた自分への皮肉に思えて愉快だった。ひくひく歪む口元を手で覆い隠した。
「…………」
「人は手を取り合って生きていくんでしょ?それが、"当たり前"って奴なんでしょ?そこいらの人間みたいに、私はなりたくない。私は、特別になりたい。私は、"お前ら"とは違うって証明したい。だから……」
そして、ハッとして私は顔を上げた。結奈は悲しそうで、それでいて厭に冷たい目をしていた。そして、厭に冷たい声音で以て、それは本意なのか、わからないが、ぼそりとその薄ピンクの唇の隙間から漏らした。
「……無理だよ」
その言葉は私の自我の心臓を抉り抜いて、溢れた血液を、喉元で足踏みしていた醜い化け物が歓喜しながら口を開けて浴びた。下卑た笑い声が耳鳴りのように脳を冒した。
「……うるさい!」
終わりが始まった。
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