第3話 前

――いい物が書けそう。

そんなものはただの淡く儚く、馬鹿みたいな妄想だったようだ。

全ては現実に塗り潰される、結果はいつもと同じ無情な二文字。

ああ、嫌だ嫌だ嫌だ。

私は自暴自棄になって、傍らに置いてあった小説数冊で積み上げられた塔を跳ね飛ばし、壊れるほど乱暴にマウスを操作し、毎度の如く、もう何が戒めなのかもわからないが、最早習性のように賞に出した小説のデータを削除した。目から始まり、鼻や額、その奥の脳が焼け切れるほど熱く感じられ、目からは自己不全を源泉に溢れ出た涙が床に滴る。

溢れ出る濁った感情の捌け口を見つけることが出来ず、自制心の糞もないなとどこか冷静に心の内の自分が冷たく囁くのを聞きながら私は家を飛び出した。外は冷たい雨が暗闇を埋め尽くすかのように強く降っており、私は瞬く間にびしょびしょに濡れた。体温は奪われようが私の頭はほんの少しも冷えることは無く、逆に頭を叩きつける雨を蒸発させてしまいそうな、それほど私は感情的になっており、それは雨に掻き消されてしまったが、私は思い切り、天を割る勢いで獣のように叫びながら走った。

その時、私の蒸気機関車の如く回っていた足は宙を翔ける。魂だけになったかのような浮遊感と不快感に襲われたのも束の間、私は胸をビンタされたような感触、そして勢いよく口から吹き出た空気が気泡となって弾ける音。そして鼻から脳へ劈く、汚水の匂いに、私はどうやら前も見えなくなって、まさしく運転手の居ない蒸気機関車、もしくは光に視界を奪われ我を忘れた鹿の如く、猪突猛進して近くに流れていたドブ川に飛び込んでしまったみたいだ。川底の汚泥に膝は埋まり、腰はドブの水に、頭は銃弾のような大粒の雨に叩きつけられながら、私は妙な親和感じみたものを感じていた。まるで、ここが私の居場所のように思えてきたのだ。

心の中はどうせこの汚水のような色に染って腐臭に満たされているのだから、いっそこのまま顔を埋め、体内にこの汚水を巡らせ、死ぬまでそのままでも良いと思えた。


「死にたい」


汚水を飲みながら吐き出されるのはその言葉。ここが底無し沼で、何もせずとも沈んでいき強制的に命を落とせたなら、どれだけよかったのだろうか。

私は死ぬ事などできない。


――ここは地獄だ。


この世の全ては私を刺し、被虐心だけを持って生殺す。抗う為に小説を書いても全ては認められず、平凡ゴミと捨てられる。


「認めて!認めて!認めてよ!」


壊れていく自分が本当に馬鹿みたいだ。

本当に自分は馬鹿だ。すぐに夢を見る、愚か者。

この世の全て、それは自分も含まれる。私は、私にも刺される。どこまでもどこまでも、矮小で非才で惨めで醜い。もう笑うしか無くなるんだ。


気が鎮まるまで騒ぎ散らした私は、急に臆病風に吹かれたように暗黒のドブ川から這い出し、しっぽを垂らして項垂れる痩せ犬みたいにふらふらとしながら帰路に就いた。

家に帰ると第一声、母が血相変えて甲高い声を出し(それは私を心配してのものではない)、父は訝しげな冷たい目を刺すように向け、私はまたここでも刺されるのだ。


「あんたどこ行ってたの!服もそんな泥々にして、もう着れないじゃない!」


「ただの散歩だよ……」


「ただの散歩でそんなのならないわよ!こんな時間に、しかもこんなに雨降ってるのに出歩いて!周りの人に見られて何か言われたらどうするのよ!」


私の事より世間体を気にして甲高く鳴く母。この度々、愛等何処にも無いのだなと酷く痛く実感するのだった。今更親に愛など求めてもいないのだが。

だが、一つだけ、一つだけ、我慢ならないものがあるのだ。


「普通にしてよ! 」


それは母の口癖だった。


「"普通"って何だよ! 普通普通って教えもせず押し付けんな!」


頬を打たれ、小気味よい音が軽快に響き、口内に血の味に満たされる。

そのまま母は、私に掴みかかっては力によって蹂躙してしまおうと、親の権力か何だか知らないがそれを行使しようとしたが、離れて俯瞰していた父の「放っておけ」、その一言で見事に母の激情に幕は落とされる。私は沈黙した母の横を素通りして洗面所へ移動し、服を脱ぎ、雨の剪定からも服に染み入ることもしなかった強情な泥をシャワーで葬り、また自らの汚れも洗い流す。それらが終わると私は吸い込まれるかのように自室へと戻った。自室は自室で散乱としていた。先程腕で跳ね除けた小説群の中にあったのだろう、太宰治の短編小説「女生徒」がこちらに口を開けていた。それらを避けて私は椅子に座り、充電器に挿したまま放置していたスマホを手に取った。


「もうだめかも」


そんな言葉を結奈に向けて送信した。

本当はこんな弱さを露呈させたくはない、だが、私はもう打ちひしがれ、折れて、崩れかけていた。

私が私という人間を軽くしていく。

もうどうでもよかった。ただ、救いが欲しかった。


「何かあったの? 」


一分程で、結奈から返信が来た。それに少し安堵する。


「実はまた賞に落ちちゃって……」


私はどうしようも無く臆病だった。私の弱み、小ささ、醜さ、その全てをありのまま露呈することなど出来なかった。何でもないようにうそぶくことしか出来ないのだ。


「だからもう駄目かもって……ね」


続けて送信した。そして、何か面白おかしくなって、私は自嘲気味に笑う。

何だ、これは。こんなの自分の悲劇を綺麗に纏めて、ただ同情を求めているだけじゃないか。これじゃ、そこらの右や左を逡巡して流されて生きるような奴らと何も変わらないじゃないか。何が、特別になりたい、だ。凡庸、月並み、普遍、いや、まだそれならいい。普通もわからない私は一体何なんだ。


「実はね、私もなんだ」


「え? 」


想定外の返答に私は戸惑う。


「私も絵、駄目だと思ってる。誰も評価してくれないの。学校の美術の時絵を見られて皆に怖いって避けられて、美術の先生にも変な目で見られたよ」


「絵、見せてくれない? 」


血を噛み締めるように自虐しながら、無神経にぽっと送信したそれは私の本意であった。


「えっと……」


結奈は流石に少し迷った。たぶん、同調より先に告白するあたり、彼女は吐き出す場面を求めていたのだと思う。そして、これは失言じみてるかもしれないが、私は純粋に見たいと思った。彼女の絵を。


「わかった……」


数分ほどして、彼女は了承した。そして、一枚の画像が送られてきた。


それは、心臓。ごく一般的に用いられる形容詞で言うなら、グロい、そんなリアルで精巧で艶かしい、滴る血の艶が鈍く輝くような心臓の絵。その心臓は中央でぱっくりと割れ、その中からはまるで柘榴のように、どす黒い血肉が溢れ出してきていた。


少しして、もう一枚画像が送られてきた。


それは全身が真っ白い、幼い少女が笑顔で顔の無い誰かの心臓を身体から引っ張りだそうとしている、そんな絵だった。


「やっぱり怖いよね……ごめん」


確かにこれは怖いだろう。感性を疑ってしまうだろう。だが、これは。


「綺麗だって思った」


私は自虐も何も忘れ、その絵に目を奪われた。美しい、腹の底からそう強く思えたのだ。


「初めてそんな事言われた」


「ねぇ結奈」


「……? 」


「結奈、この絵SNSにアップしたりとかしてないの? 」


「してないよ。何言われるかわかんないし、怖いよ 」


それは確かに正しい。だが、私は、根拠などは無いがまた悲しいまでの確信を得ていた。


「これ絶対ネットにアップした方がいい 」


「……でも、これまで皆、親にまで、怖いって言われたし……この絵のせいでいじめられたこともあったし」


それを顧みてなお、私は確とした気持ちを文面に乗せて送る。


「そんなの狭い世界での話でしょ? 結奈の絵は絶対認められる」


「……本当? 」


「うん」


間髪入れずに即答する。

そしてしばらく間が空いて、


「わかった。藍羅に騙されたと思ってやってみるよ」


どこか強い意志がちらと見える、そんな返事だった。


――強い子だな。

自分で強引に勧めておきながら感心し、そして少し羨ましく思いながら私は、部屋に散らばった小説群を片付け、そしてずっと口を開けていた太宰治の短編「女生徒」を手に取る。

パラパラとページをめくり、ある文が目に入り指が止まる。


『ひょろひょろ育ったこの麦は、この森はこんなに暗く、全く日が当らないものだから、可哀想に、これだけ育って死んでしまうのだろう。』


自虐の笑みがこぼれた。


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