第2話 後

 日曜が待ち遠しく、心がまるで北風に打ち付けられる水面のように波立ち騒いで、私は実に中身のない一週間を過ごした。

何もかもに注意散漫、今週何があったか、その記憶は全て曖昧でまるで白昼夢のように思われ、小説にもほとんど手がつかなかった。それだけ私の中で結奈という存在は大きかったのだろうか。


「……暑い」


そして今日は、待ちに待った約束の日曜な訳で、私を気を乱しに乱した結奈と会う日な訳だが、私は朝から活気を漲らせる太陽のせいで、玄関の扉を開けた瞬間から自室に閉じこもってしまいたいと、いとも簡単に願ってしまっていた。だが私は、意を決して一歩踏み出す、ことは無く一度自室に戻り黒色のキャップを被り、準備は出来たと今度こそ腹を据えて、出不精を踏み潰すかのごとく力強く一歩を踏み出した。


梅雨明けの青く澄んだ空に、剥き出しの太陽、その光を一身に浴びて照り光った木々の葉を眺めて、もうすっかり夏だなと感慨深く、また億劫に思いながら、私は目的地を目指す。私はどうしようも無くひとりでに歪みきった人間であるから、この夏の太陽すら、疎ましく、妬ましく、羨望と憎悪の情を抱くのだった。輝くものを見ると吐き気を催すのだった。自分は輝く事などできない、所詮光に群がる虫と同じさ。そんな現実を突きつけられ嗤われている、そんな錯覚に陥るのだった。だが、それは本当に現実になるのではないか、私は最近恐ろしい。

汗をタラタラ流しながら、私は公園の砂利を踏みしめた。乾いた地面に私の汗が染み入る。地面にとっては恵の雨と同義なのだろうか、またすぐ乾いてしまうというのに。夏の地面は心と似ている。

 日陰は無いか。私は逡巡しながらふらふらと歩いていると、ブランコには前と同じように結奈がこれまた寂しそうに俯いて座っているのを発見した。


「結奈」


結奈は捕食者の気配を察知した鹿のように顔をぴょこんと上げてこちらを見た。捕食者、あながち悪くないな、そんな事を思いながら私は結奈に目で笑いかける。結奈は何も被っていなかった。私は持っていたタオルをリュックから取り出し、結奈の頭にかけてやった。


「暑くないの? 」


「暑い」


「馬鹿」


私は、溶けてしまいそうな程白い結奈の手を取る。結菜はその蒼白いまでの頬をわずかに赤らめさせながら立ち上がった。結奈の手は驚くほどに冷たく、そして清らかだった。だが、明らかにその手の温度は不自然であった。


「……手冷たいけど、大丈夫? 」


「大丈夫、ただの貧血。いつもの事なの」


結奈ははにかみながらそう言った。


「……ここに居たらほんと倒れるよ。私も含めて」


「……私、昔みたいにブランコに乗って話したいなって思って」


「殺す気か! 」


私は結奈の口から細々と漏れた儚い願望をたった一言で焼き払ってはその金属棒のようにひんやりとした手を引きながら歩を進める。

私は、このまま連れて歩いて本当に大丈夫か? と彼女の様子をチラチラと観察してみたが、結奈は目が合う度々に困ったように微笑むだけだった。 顔色は蒼白いが、苦しんでいる様子は無く、私には彼女を推し量ることは出来なかった。私には他人の痛みや苦しみがわからなかった。私の内にあるものは妬みや怒りと言った負の感情だけなのだ。


「とりあえず涼しいとこ行こうか」


「そうだね」


「近くに喫茶店あるけど 」


「いいね」


話はトントン拍子で進んで、私達は公園から徒歩数分の距離にある、全体的に暗い色調の、趣きある木造の喫茶店へと足を運んだ。店に入った瞬間、芳醇な香りを乗せた冷気が汗ばんだ額を優しく打ち、私達は二人して肩を落とし、そして小さく嘆息を漏らした。


「結奈はコーヒー飲めるの? 」


「甘くしたら……」


「まぁ、結奈らしいと言えばらしいね」


「何それ」


いかにもイメージ通りというか、やはり変わらないなと私はまたノスタルジックな感情に密かに浸ってみたりしながら、アイスカフェオレとアイスコーヒーを注文した。そして、コーヒーが届くまでの間、私と結奈との間には、奇妙な沈黙の帳が落ちた。私は、軽く俯いて黙ってしまった結奈を片目でチラチラと見ながら、あたりをそよぐコーヒーの香りにうっとりとして、夏の太陽の凶悪な輝きに焼かれている窓の外を眺めていた。景色は住宅の壁、植木、そしてひび割れた道路、店の雰囲気は格別なのになと面白可笑しくて、そして落胆していたら、店の制服が良く似合う、大学生ぐらいだろうか、可愛らしいウエイトレスが私達の注文した飲み物を丁寧に机に置き、これまた丁寧にお辞儀して、風のように涼しげに去っていった。


「えっとね……」


結奈はアイスコーヒーを一口啜ってやっと口を開いた。


「どうしたの? 」


「藍羅はさ……」


「うん」


結奈は、酷く勿体ぶって、もじもじとして、照れくさそうというよりは、何かを恐れるように唇を開けたり閉じたりし、中々その口から次の言葉が発せられる事は無く、私はよく冷えたアイスコーヒーを一口、二口、三口と飲んだ頃、やっと結奈は吃りながらも急ぎこんで、胸の内に抑え込まれてた言葉を吐き出した。


「結奈は、あの日の約束……覚えてる……? 」


「馬鹿。忘れるわけないじゃん」


その時私は自分でも驚く程、夏の太陽に嬉々揚々する向日葵のようなはつらつと輝く笑みを浮かべていた。結奈は目を少し見開き、いつも瞼が重苦しく下がったその目は元々の、宝石のような輝きと大きさを遺憾無く発揮し、その目は鏡のように私は映し出した。そして結奈は儚げに笑って続けた。


「藍羅は、えっと……小説を、書いてるの? 」


「そうそう。けど、駄目なんだよね」


「駄目って……?」


「私、色んな賞に出したりしてるんだけどいつも一次選考で落ちちゃっててね……」


「そうなんだ……」


「結奈は?」


私は会話の流れというか、脊髄反射でその問いを投げかけたが、結奈は「いや……えっと……」と言う感じで唇に人差し指の第一関節を添えて口篭り、目配せをする。


「もしかして……やめちゃってた……? 」


「いやいやいや、やめてはない!」


結奈は珍しく即答で否定した。


「ただ……」


「ん……?」


「私……実はやめようと思ってたの……」


そう言うと結奈はその蒼白の表情に暗い影を落とし、俯いた。


「でも」


その言葉とともに結奈は、振り切ったという感じでその顔を、萎れた花が生き返ったかのようにあげては私の顔に熱意がこもった眼差しを向けて、


「でも私、あの日藍羅と再会して、思い出したんだ。そして気づいたの。私達は離れても約束で繋がってたんだって。そして、私が絵を描く時、ずっとそこには藍羅が居たんだって。それを改めて実感することができたの。だから……その」


そして結奈はこれまたもじもじとして、その蒼白な頬を少し赤らめながら、


「ありがとう。実はね、今日それだけ言いたかったの」


私の目を見つめてそう言うと彼女は会心の笑顔を見せた。

私はほわほわとしてくすぐったいような感覚に陥り、慌てながら照れ笑いを返して、


「いいよいいよ、友達でしょ? 」


そう言うと結奈は震えるほど喜びをその蒼白の顔に浮かべて、「そうだね」と言って白い歯を見せた。


喫茶店を出て私は、結奈を焼き殺す訳にもいかないので結奈が引っ越してから出来たゲームセンターに行ったり、カラオケで自身の音痴ぶりを披露したり(因みに結奈は物凄く歌が上手だった。いつもの細々とした声からは考えられない迫力を備えた歌声だった)、また私行きつけの古本屋で太宰治についてたらたらと語ったりして、気がつく頃には日は落ち、空は底の無い深い藍色を湛えて、街は人の営みから生じる輝きを遺憾無く発揮していた。

それを背に私達は元来た道を歩き、帰路に就いていた。


「本当に楽しかったね」


「うん」


会話は途切れ途切れ。だが、気まずくなどなかった。私は虫の歌に耳を向ける。


「じゃあ、ここで」


結奈は唐突に立ち止まって言った。


「うん、じゃあ、また」


「またラインするね」


「いつでも」


そう言って、私達は案外あっさりと別れた。祭りの後の静けさのような虚脱感に笑ったりしながら、私は暗い眼前を見据える。

私も結奈から力を貰った、そんな気がしていた。不思議な活力が心象世界を満たし、今は頭が軽い。


今ならいい物が書けそう。そんな根拠の無い自信を抱いて私は夜の住宅街を歩いた。

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