第1話 後

未だ現実感を見失ったまま、帰路に就いた。心臓がとくとくと機嫌良く弾み、肉体は温かい高揚感に包まれていた。だがそれも一時的なもので、いざ帰宅し自室の椅子にどっかりともたれかかった頃にはまたあの灰色の感情に心が押し潰されそうになったが、タイミングよくスマホの通知が鳴り、確認すると結奈からラインが届いていた。あの後、連絡先を交換したのであった。ただ、それだけに終わり、私達は十年ぶりの再会に胸を打たれ、またそれ故気まずく沈黙し、そして今日のところは別れたのだった。


「夜遅くにごめんね。ありがとう」


意図した訳でも、どちらか呼び出した訳でも無く、ただの偶然だったと言うのに一々謝るのは実に気弱な結奈らしいなと私は小さく笑いながら、


「久しぶりに会えて嬉しかったよ」


と返すと、即座に「私も」と返信が来た。何か無性にこそばゆい感覚に襲われ、頬の筋肉が緩むのがわかった。

だが、束の間の暖和もすぐに現実に塗り潰される。頭に重石を乗せられたかのような気分になりながら私は、自身のノートPCを起動すると、デスクトップ上の、小説と題された一つのファイルをクリックし、その中に収められた、今回賞に出した小説の原稿用紙百二十枚分のデータを、躊躇せずに消去した。執筆に二週間丸々を費やし、構成などを考えた時間も含めると約一ヶ月分の時間がその作品に込められていた。だが、私はそれをゴミと捨てる。その行為は、己への戒めでもあった。

努力というものは報われないとただの徒労でしか無く、無駄なものだと私は考えている。故に自身に、「甘い夢など見るなよ」と言いつけるために、私はこんな事を賞に落選する度にしていたのだった。

「努力したという事に意味がある」、だとか心優しい善人は、傷ついた子犬の頭を撫でるかのように、慈悲深い声音を以て私を諭すのだろうか。何の意味があるのだ。そんな事を教えもせず、ただ優しいだけの口実で、心を慰められて、そしてこの現状に甘んじて居たくなど無い。ありふれたそんな言葉に縋って、自分という刃を曇らせ、そして錆びさせたくなど無いのだった。


「はぁ……」


朝から夜まで黄色い声ではしゃいでいる人間が隣に居たら殴られてしまいそうなほど陰鬱な溜息が出たなと、にわかに口元が緩んだが、やはりそれは一瞬で、陰鬱で今にもドロドロに溶けてしまいそうな気分は晴れる事は無く、心を覆い尽くした鈍色の雲は更に大きく分厚く発達し、私はただ一人その心象世界のど真ん中で佇んでいる、そんな気がして、私は何だか寂しい気分に襲われた。

こんな事、口に出すのは、いや、思う事だけでも負けだと。私が忌み嫌う、周りに同情を求める人間と大差無い事だとはわかっている、だが今、その言葉を心象世界に佇む私は叫んでいた。


「死にたい」


気づけば私は涙を流していた。まったく、惨めすぎる、これじゃただ自分に酔ってあれこれ難癖付けてるだけの負け犬じゃないか。いや、実にその通りでは無いか。


特別になりたい。


私は目の縁に溜まった涙を切るように拭って、原稿と題されたファイルを開いた。


「もうやめたい」


意に反してそんな言葉が胸の内に湧き上がってきたのを感じながら、私は少しスマホの画面を見つめた。偶然に縋ったのだった。だが、すぐに「無駄だ」と理性は主張し、私は執筆に意識を向けた。

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