マルをあげよう
二石臼杵
真円は災いの門
「なんということだ……」
僕は生徒のテスト用紙を前に頭を抱える。
「いったいなぜ、こんなに……」
今、机の上に広がっているのは佐々木の答案用紙だった。ぴんと跳ねた赤い線が群れを成している。佐々木は確かにあまり聡明な子ではなく、僕の授業にもいまいちついてこられてないように思えていた。
だが、問題なのは彼の大量の不正解ではなく、たった一個、答案用紙のやや左斜め下に描かれた赤丸だった。
「なんで僕は、こんなにもきれいな丸を書いてしまったんだ……!」
その赤丸はあまりにも丸く、傍目にも線にむらや歪みが一切なく、完璧な真円だった。
この世に完全なる真円など存在しない。そう聞いたことがある。
だが、僕の書いたこれは、もしかすると、人類が作り出した初めての真円になってしまうのかもしれない。あくまで偶然の産物で、もう一度書けと言われても一生無理だろうが。
そういえばこの丸を書いたときの僕はどこかおかしかった。まるで自分の手が何者かに操られているかのように勝手に、されど自然に動いて円を描いたんだ。
僕はただ、自分のクラスの生徒の答えを採点していただけなのに。しかも国語のテストを。
どうして、こんなことに……
眼鏡を外し、眉間を軽く揉む。
「
「なあに、あなた」
僕は妻に声をかけた。キッチンで洗い物をしていてくれた咲希子さんは手を拭き、エプロンを着けたままでとたとたとこちらへ来る。
「これを、見てくれないか」
「あァ、なんてきれいな丸!」
他の多くの赤跳ねには目もくれず、彼女は両手で口元を覆った。目は僕の書いた真円には及ばないが真ん丸に見開かれ、声には驚きと興奮がありありと滲んでいる。
「大変、シンエン委員会に見てもらわなくちゃ」
「シンエンイインカイ? なんだいそれは」
眼鏡をかけ直した僕の疑問も無視し、咲希子さんは一心不乱に携帯電話を操作している。
「ええ、はい、そうです。うちの夫が――そうです、
何やら電話口で僕の名前まで伝えている。なんだなんだ。うちの妻はいったいどこへ何の用で連絡しているんだ。
「はい、はい、よろしくお願いします」
深くお辞儀をして咲希子さんは通話を切り、真剣な眼差しで僕の方を見た。
「もうすぐ来られるって」
「誰が?」
というか、何が?
突然の成り行きに僕の頭の中は疑問符でいっぱいだ。
そのシンエンイインカイというのはなんだ。どういう組織だ。怪しい宗教か?
そして咲希子さんも何者なんだ。僕はどんな人と結婚してしまったんだ。
まだ知らぬ妻の顔に戸惑っていると、インターホンが鳴らされた。
時刻は午後八時を回っており、くっきりと見える月も出ている。友人が遊びに来たとは考えにくい。
「どうも、シンエン委員会の者です」
無作法にドアを開けたのは、茶色いコートと帽子を目深にかぶったサングラスの男だった。それも二人組。
「お待ちしておりました。こちらです」
テーブルの上から佐々木のテスト用紙をひらりと取って、咲希子さんは謎の二人踏みに見せる。
「なんですかお宅ら」
「失礼」
本当に失礼だなと思っていると、男の一人が手に提げていたアタッシュケースから顕微鏡に似た機械を取り出し、例の赤丸の書かれた答案用紙を挟み込むようにセットする。それから、上部の接眼レンズと思しきものを覗き込んだ。
「ワーク径、偏心量、および真円度への誤差なし。線の太さ、均一。外径と内径のずれ、確認できず。データム円に対する位置度、よし」
顕微鏡のような機器を覗き込む男は次々に意味のわかるようなわからないような言葉を発し、もう一人の男が深刻そうな顔つきでそれらを手帳にメモしていく。
「結論。紙面に多少の歪みがあるが、この二次元上の円は、真円である。二十時十二分、我らシンエン委員会が認定する」
レンズを覗いていた男は顔を上げ、長く息を吐き出した。
「あの、さっきから何を……」
男はサングラスをくいと押しやり、端的に告げた。
「あなたの書かれたあの丸は、まごうことなき真円だ」
と、いうことは……
どういうことだ?
でも、僕が真円を書くことができたということだけは理解できた。それもこの手で! 何の道具も使わずに、フリーハンドで!
「やったあ! 僕は真円を書けたんですね!」
どうだ、咲希子さん、すごいだろう! と、自分でもよくわからない興奮に包まれながら咲希子さんに笑みを向けると、彼女は。
ばつの悪そうに、視線を落としていた。
「その通りだ。確かにこれは真円。よって、私たちが管理する」
突然、シンエン委員会の男が佐々木の答案用紙を手に取り、立ち去って行った。続くもう一人の男が顕微鏡もどきをアタッシュケースにてきぱきとしまい、帽子も取らずに一礼してその後を追う。
「な、な、な、ちょっとちょっと!」
僕も慌てて外に出る。台風が近づいているせいか風は強く、蒸し暑い夏の空気を吹き飛ばしていた。季節違いの寒気に背筋を這われつつ、激しい夜風にかき消されないように僕は叫んだ。
「それを持って行かれちゃあ困る! それはうちの生徒のテスト用紙なんだ! その子に返却しなくちゃいけない! だから持って行かないでくれ!」
男の一人の腕をつかむと、逆にさらに強い力で僕の腕はつかまれ、ひねり上げられた。
「あいだだだ! 何をする!」
「きみは、この用紙の価値をわかっていない」
「価値だって……!?」
男の声は無機質で、淡々としていた。
「この世に真の意味での真円は存在しない。どんなに完璧に見えてもどこかに必ず数ナノ、数ミクロンの誤差があり、自然も人間も、それを作り上げることは叶わなかった。なぜか、わかるかね」
「わかって、たまるか!」
痛みと戦っていると、男はずいと顔を近づけてきた。彼はささやくような、けれどもはっきりと聞き取れる声で告げる。
「あまりに完璧な円は、世界の秩序を乱すからだ。だからみな、真円を作らないようにわざと歪ませるなどして注意をしている。真円とは、最も美しい厄災の印なのだよ」
「真円が、厄災……!? お宅らどうかしてる!」
「なんとでも言うがいい。だが古来より、大きな災いの発端には常に真円の影があった。真円こそ、災禍と通じている穴なのだ。だからこんなものが軽々とあっては困るのだよ。きみにとってはただのテスト用紙に過ぎないかもしれんが、我々にとってこの紙は今やどんな密書よりも価値のある書類であり、どんな兵器よりも危険な代物となったのだ。よって、我々の管理下に置かせてもらう」
「それは佐々木のなんだ! 待ってくれ!」
そのまま踵を返そうとする男二人に僕は食ってかかり、たちまち取っ組み合いになり、僕はぼろぼろになりながらも必死で彼らの足にしがみついた。
「教育熱心なのはいいことだ。だが、きみは覗いてはならない深淵を生み出してしまったのだよ」
男が懐に手を入れる。やがてその手は、銃を引き連れて再び現れた。
ぞっとするほど丸い銃口が、僕を見つめている。
男たちの手つきは慣れていた。僕の命を奪うのに、なんの躊躇もないだろう。
「待ってください!」
そこへ、咲希子さんが飛び込んでくる。一枚の紙を手にして。
「それはカラーコピーです。本物はこっち!」
彼女の手には、佐々木の散々な勉強成果が握られていた。
「ならばそちらもわた――」
男の一人が「渡せ」と言い終える前に、咲希子さんは佐々木の答案用紙をその手で真っ二つに引き裂いた。紙の破れる音が夜の住宅街によく通る。
「佐々木ぃ――!」
無残にもすっぱりと半分になった赤い丸を見て、僕も男たちも面白いほどうろたえる。
「何をする! お前もシンエン委員会の同志だろう!」
「ええ、そうです。でも、それ以上に私はその人の妻です! ようやく目が覚めました!」
ぽいと、咲希子さんは二つになった答案用紙を横に捨てる。答案用紙は夜風に吹かれ、夜の闇の中へと飛んでいく。
「なんということを!」
「お前はもう委員会から除名だ! いいんだな!」
二人の大の男は破れた中学生の答案用紙を必死で追いかけていき、やがて闇の中へ溶けていった。
ああ、行ってしまった。
けれどもう、さすがに追いかける気にはなれなかった。
ふぅー、いてて、眼鏡が壊れてやいないかな。
とたんに力が抜けるのを感じた僕は長い息を吐き出して、夜の道路の上で腰を下ろした。その隣に、咲希子さんが寄り添うようにかがんでくる。
「ごめんなさい、英斗さん」
僕は眼鏡を確認する。少しひびが入っているが、買い直せばいいだろう。改めて眼鏡をはめ、隣の咲希子さんの顔をじっと見た。
「ねえ、咲希子さん。コピーなんてとる暇なかったろう? さっきのは誰の答案用紙なんだい?」
「……高橋くんの。ごめんなさい」
高橋の答案用紙はまだ採点していなかった。なるほど、咲希子さんは手付かずだった高橋のプリントに赤ペンで無数のピンハネを付け、それから佐々木のと同じところに丸を書いたのだろう。
なくなったのは、佐々木と高橋の答案用紙か。まあ、命を失うよりはましだと考えよう。
「私、間違ってた。あんな、人の命まで奪う組織だなんて思ってなかったの。あなたを危険に晒すなんて……私、人として最低ね」
僕は重くゆっくりと頷く。
「うん、不正解ではあったよ」
その言葉に、咲希子さんの肩がぴくりと跳ねた。
でも、と僕は続ける。
「さっきのは、僕の奥さんとしては、満点以上だ。助けてくれて、どうもありがとう」
「英斗さん……ううん、私こそ、ありがとう」
気づけば、風は穏やかに優しくなっていた。蒸し暑さが少しずつ戻ってくる。夏らしい、日常の気温だった。今夜は想定外のことがいろいろあったが、なんとか無事にいつもの日々に戻ってこられたようだ。
横から僕の肩に手を回す咲希子さんの体温を感じながら、ふと上を見上げた。
ちょうど眼鏡のひびが、満月に×をつけるような形に入っている。その丸さは完璧ではないと、けちをつけているかのように。
だから僕は、親指と人差し指で輪っかを作り、満月にかざして囲んだ。
何事も、ほどほどが正解なのだ。完璧すぎるものは身に余るし、手に余る。だから僕は、真円ではない月に丸をつける。たとえ不完全な円だとしても、月は夜に僕らを照らしてくれるだけで充分に美しい。
「咲希子さん、うちに帰ろう。なんだかお腹がすいてきた」
「そう、よかった。夜食にサンドイッチを作ってたの」
「それはいいや。ありがたく頂くよ」
サンドイッチは大好物で、大正解だ。僕らは互いを支えにしながら立ち上がる。
結局、シンエン委員会とやらはなんだったのかなんて、もはやどうでもいいことだ。
それより、佐々木と高橋の答案用紙の代わりを用意する方が大事だ。二人には申し訳ないが、再テストを受けてもらう形にしようか。
高橋はともかく、佐々木の不正解の数も、ほどほどにしてもらわなければならない。
僕らには子どもに正解を教える義務がある。しかし、正解ばかりで渡り歩けるほど、この世界は丸くはないのだ。
今夜のようにたまに痛い目を見て、ピンハネを食らいつつも歩いていくのが僕らの最適解なのだろう。
だから僕は、今夜の自分にも咲希子さんにも、丸をあげようと思う。歪みまくった、不格好なやつを。
マルをあげよう 二石臼杵 @Zeck
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