ささやかな祈り
麻城すず
ささやかな祈り
祈りが天に届くよう、空を見上げて僕は跪く。胸の前で組み合わせる指の、なんと細く頼りないことか。
「アーシェ、祈りは胸におさめなさい」
僕を育ててくださった司祭様は、僕を神父にしたいらしい。恩人に仇なすつもりなどないが、僕はそれに従えない。
「こうして胸に押し込むように。祈りは心に抱くもの。常に心に記すべきもの。たとえ仕草だけだとしても、人はそこから実現する。祈りを具象化するために、形が必要なこともある」
言われる言葉の意味なんて半分も分かりはしないけど、ただ恩ある司祭様を満足させるためだけに僕は静かに頷いてみせる。
「ああ、良い子だね」
あなたが求めているものは、例えば従順な修道生。妻帯どころか異性との交わりすらも赦されぬ、厳格無比な神への生贄。
自分がそうであったから、それに満足しているから、司祭様はその道を僕にも歩かせたいと望んでいる。
分かっています。僕にはきちんと分かっているのです。それがあなたの愛情なのだと。
けれども幼き日から十五年をも共にしたあなたへの初めての秘め事は、ささやかで、しかし罪深い。
神父様、僕には愛する人がいるのです。
僕があなたの目の前で、心に抱くその言葉は神への賛歌などではない。あの人への想い、ただそれだけ。
「私の祈ることは君の幸せ。いつだってそれは変わらない」
長い間父代わりだった神父様。あなたの深い愛情は、親に捨てられた僕にとり、生きて行くための日々の糧。僕はあなたを愛しています。あなたが愛する神だって。
けれども、もうだめなのです。僕にはもう一つだけ、愛するものが出来たのです。
細く頼りない我が指のその指し示す先にある愛する人の面影を僕は毎夜つなぎ止め、愛する人を夢に欲する。
こんな気持ちは初めてでした。
僕は知ってしまったのです。愛する人と迎えた朝の、世界の優しさを美しさを。あなたと、神と居ただけでは決して知ることの出来なかったこの幸福に満たされた白い夜明けを。
「アーシェ、さあ神への祈りを」
夜明けはあんなに素晴らしかったのに、朝はいつもと変わらない。
罪深い僕は、あなたの前では何ごともなかったように偽りの笑みを浮かべます。あなたを欺くことは何より赦される大罪であるというのに僕にはそれをやめられぬ。
あなたの見ている目の前で僕は神に祈りを捧げます。こんな自分勝手な祈り。叶えてもらえるはずのない、利己的な願い事。
――あの人を選んでも、この方を悲しませずにいられますように。
「アーシェ、私が祈るのはいつだって君の幸せだ」
神への祈りを捧げ終え、顔を上げた僕に向かって司祭様は手を差し延べる。
「たとえ君の生きる場所がここでなかったとしても、私は変わらず君の幸せを祈り続ける」
取ろうとした手はスルリと逃げて、示された先には愛する人。
「神を、私を愛したように一人の人を愛すること。それが君の幸せならば、私は喜んで君を送り出すよ」
いつからご存じだったのか。罪深い僕の偽りの笑みを。
「ああ、彼女を見る君の目は愛を知る者の目だ。私は素晴らしい息子を持った」
素晴らしいのはあなたです。罪深い僕を見つめるまなざしは、いつでも深い愛情を湛え、こうして僕を支えてくださる。
「君の幸せは、私の幸せ」
神様、あなたにとって僕の願いはどんなものだったのでしょう。血を吐く思いで祈った願いはあなたにとってはささやかなものでしたか。
こうして皆に幸福の笑みを与えて欲しいという祈りは、愛を説くあなたにはささやかな祈りでしたか。
ささやかな祈り 麻城すず @suzuasa
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