咲く花散る赤
麻城すず
咲く花散る赤
「死に人は人を呼ぶ」
そんな言葉を聞いた。まさに別れゆく死の床の祖母から。
「あたしは誰を呼ぶのかねぇ」
もうろくに開かない目を懸命に開き、まるで泣き出しそうな声で側にいたあたしに囁いた。真っ白い壁、天井、クリーム色の棚引くカーテン。周囲に巡らされる定期的に電子音を発する機器。
触れる手に絡まる、ゴツゴツした指。冷たい、生命を感じさせない固い感触。閉じ込められた白い無機質なスペースと同じように温度を伝えてこないその指が怖かった。
「郁ちゃん、聞いてくれるかね。あたしは一人で死ぬのが怖いんだよ。臆病だからね。あっちには父さんや母さんがいるんだから大丈夫って、毎夜自分に言い聞かせていたけれど、どうしても怖くてたまらない」
「おばあちゃん、縁起でもないこと言わないで」
お決まりの台詞しか返せない自分が滑稽だ、とても。
「ああ、羨ましいよ。あんたはこれから娘になり母になる。色んな人と出会い、別れ、喜びを知り悲しみにくれて。でも、何度でもやり直す機会を与えられる。あたしはそれを見逃してばかりだったけれど」
意外な言葉。握った指に力が入った。
いつも笑っていたおばあちゃん。同居の母とも仲が良かったし、友達も沢山いた。
「幸せだねぇ。いつでも皆に囲まれていて、あたしはとっても幸せだ」
それが口癖だったのに。
「ああ別にね、不満があった訳じゃない。あたしの人生は相対的に見ればとても幸せなものだったと思うのさ。だけど長く生きていれば後悔の一つや二つは出来るものなんだよ」
「……聞いてもいい?」
「他愛ない話さ。この家にお嫁に来たのは十七の頃だったけれど、その時あたしには他に好きな人がいたんだよ。あたしの父さん……、あんたのひいお祖父さんはそりゃおっかない人でさ、娘に好いた男がいることを知ってね、悪い虫がつく前にサッサと嫁にやれと言って勝手に縁談を決めてしまった」
「それがおじいちゃん?」
あたしは家で寝ているおじいちゃんの顔を思い浮かべる。ここ数年は寝たきりで自宅療養をしているが、頭はしゃっきりしているのでおばあちゃんが倒れてからというもの、見舞うことの出来ない体を悲観して、それはもう見ていられないほど憔悴していた。
「誤解しないでおくれね。あたしはおじいちゃんのところにお嫁に来られて良かったと思っているんだよ。あの人はとても善良ないい人だ。あたしをそれは大事にしてくれて……昭和のあの時代には珍しい、フェミニストっていうやつだね。そんな落ちでもしていたら、もしかしたら今よりずっと幸せだったかも知れない。或いは今よりずっと不幸だったかも知れないなんてね。おじいちゃんが良い人で、あたしもそのありがたみに慣れてしまっていたんだね。一時はそんな事ばかり思っていたものさ」
あたしには何も言えなかった。
毎日お見舞いから帰ったあたしにおばあちゃんの様子を聞き、元気だといえば嬉しそうに笑い、熱が出たと言えば我が事のように暗い顔を見せるおじいちゃん。それを間近に見ているあたしに、おばあちゃんの告白は酷だ。
「その人の事、今でも考えるの……?」
不安そうな声に気付いたのだろう。おばあちゃんは唇の端を上げて微笑む。
「おじいちゃんのおかげでね」
「え?」
「おじいちゃんがあたしを大事にしてくれたから、あたしはあの人をこんな風に思い出すのよ。慢性化した幸せが生むもの、それは退屈なんだ。退屈だから考えるの。もしもっていうことを。それに気付いたのは、実は最近のことなんだけどね」
「あたしには良く分からないよ」
「ああ、まだまだ分かってもらったら困るよ。あまり遅すぎても困るけどね。あたしの後悔は遅すぎた事だよ。おじいちゃんがどれだけあたしを大事にしてくれていたのか、あたしはあの人が寝たきりになるまで気付いていなかった」
おばあちゃんはあたしの手を、ぎゅうっと力を込めて握り締める。痛いくらいに。
「おじいちゃんね、あたしがあんたのお父さんを産んだ時、よく頑張ったなってプレゼントをくれたのさ。なんだと思う? センスも何もない真っ赤な口紅! 夜の商売の人が使うような派手なやつよ。あたしはね、あの時ほど好きだった人と駆け落ちすれば良かったと思った事ないわ」
懐かしそうに話すおばあちゃんの目はふんわりと閉じていた。
「あたしの事、なんだと思っているの。こんなものをつけてとても外なんか歩けない。若かったからね。憤慨しておじいちゃんに投げ付けたわ。おじいちゃんは黙って落ちた口紅を拾い上げ、箪笥の上に置いて家を出ていってしまったの」
震える手を持ち上げ、自分の唇に添える。そんなおばあちゃんは、まるで少女のように見える。初めてのお化粧に照れ笑いをこぼす、そんな表情。
「あの厳つい顔で、あたしのために口紅を買ってきてくれたんだよねぇ。当時は今のように気軽に買える店にはなかったからね。化粧品店のウィンドウの前で、あの人はどんな気持ちで口紅を眺めたんだろう。買うのに、どれだけ勇気が要った事だろう。どうしてそれに気付いてあげられなかったんだろう。結ばれなかった人と事あるごとに比べてああでもないこうでもないなんてうじうじ考えていた自分に気付いた時、あたしは一生分の後悔をしたのさ」
はあ、と疲れたように大きな息をついたおばあちゃんに少し慌てた。今日は話しすぎている。
「ねぇ、続きは明日にしよう。少し休んで」
立ち上がり、動かした手のせいで少しはだけたタオルケットを掛け直してあげるとおばあちゃんは「今、聞いて」と再び目を開いてあたしを見詰めた。
「でも……」
「今じゃなきゃいけないの。お願いよ、郁ちゃん」
疲れているはずなのに微笑むおばあちゃんに負けて、あたしは腰を下ろす。
「郁ちゃんに一つお願いがあるの」
耳打ちされた言葉に、あたしは頷いた。
おばあちゃんは嬉しそうに微笑んで、そして訪れた疲れに抗わず目を閉じて、間もなくすうっと寝息を立て始めた。
静かに病室を出るとおばあちゃんの「お願い」を叶えるために、自宅の老夫婦の寝室、今はおじいちゃんしか使っていないその部屋にそっと足を踏み入れた。
おじいちゃんは眠っていた。起こさないように静かに言われた場所を探し、目当てのものを見つけるとポケットに突っ込んでまた静かに部屋を出た。
おばあちゃんが帰宅したのはその日の深夜。物言わぬ姿に、あたしは不思議な気分だった。まだ実感はない。
昼間、胸のつかえを吐き出したからか、おばあちゃんは随分すっきりとした良い顔で目を閉じていた。
いつにしようと考えたけれど、車椅子に乗せられたおじいちゃんがおばあちゃんの寝かされた部屋に来た時、今だと思った。
おばあちゃんの顔を見下ろし、まだ信じられないよう面持ちのおじいちゃんの横に腰を下ろしたあたしはポケットからそれを取り出す。
長い年月を経たそれは、すっかり油分が飛んでいる。少し慌ててしまったけれど、ふと思い立ち台所から持って来たオリーブオイルを指に垂らして、かさついた表面に滑らせた。みるみる赤が纏わりつき出す。
それをおばあちゃんの唇に塗ってあげた時、低い唸り声が部屋に響いた。
顔をあげると、おじいちゃんが泣いていた。涙も鼻水も、全部ごちゃまぜに顔を濡らして、それでも拭いもせずおじいちゃんは泣いていた。
朝まで、そのまま泣き続けていた。
※※※
おばあちゃんの四十九日が過ぎた頃、おじいちゃんも亡くなった。
――死に人は人を呼ぶ
おばあちゃんの言葉が頭を掠めた。けれどわざわざ口にはしなかった。おばあちゃんが呼ばなくても、やつれたおじいちゃんがもう長くはないことを皆、分かっていたから。
縁者に囲まれ、皆にお別れをして、そして苦しむ様子もなく息を引き取ったおじいちゃん。
今頃、二人はあっちで一緒に笑っているのだろうか。
おじいちゃんのお棺の中に、おばあちゃんから預かっていた口紅を入れた。
あっちでおじいちゃんにつけてもらえばいいよ、おばあちゃん。
おばあちゃんの唇を彩る赤は、おじいちゃんが選んだ赤。
おばあちゃんが亡くなった時には出なかった涙がじわじわとせりあがる。やり直す機会、見逃してなんかないじゃない。
ねえ、おばあちゃん。おじいちゃんは笑って逝ったよ。
目の前の赤が揺れる、ぼやける。だけど目は逸らさない。その口紅の鮮やかな赤が、祖父母の人生を彩っているのだ。
最後まで、最後まで目に焼き付けて。
良かったね、と場違いな言葉が口をついた。
咲く花散る赤 麻城すず @suzuasa
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