奇妙な狐
彼女と……春川桜花さんと最後に言葉を交わしたのは、卒業式の日でした。
三年間過ごした学校とも、今日でもうお別れ。卒業証書の入った筒を手にして外を歩いていると、桜花さんの方から声をかけてきたのです。
――卒業おめでとう、葉太くん。
別れた後、しばらくはギクシャクしていた僕達ですけど、しばらくするとまた話すようになっていました。
元々、馬が合っていたのでしょうね。全て元通りとはいきませんし、少しの未練も無かったかと言われたら嘘になりますけど、彼女と友達として過ごすのは、嫌ではありませんでした。
そしてそんな僕に、桜花さんは穏やかな笑みを浮かべてきます。
――君がいてくれたから、私は充実した高校生活を送れたんだ。最後にお礼をしたい。これを、見ていってくれないかい。
そう言ったかと思うと、不思議な事が起きました。
三月に入ったばかりのその日、校内の桜はまだ花をつけていなかったのですが。
一陣の風が吹いたかと思うと、周囲にある桜の木が、一斉に花をつけ始めたのです。
驚いて目を見開きました。気が付けば周囲には、満開の桜が咲き乱れていて、花弁が風に舞っています。
いったいこれはどういうことか? なぜ急に、花が咲いたんだ?
そのありえない光景に目を奪われていると、耳に桜花さんの声が届きます。
――楽しい高校生活をありがとう。君に会えて良かった。夢を叶えて、立派な先生になってくれ。
僕は慌てて桜花さんのいた方を見ましたが、すでに彼女の姿はなく、そして気が付けば先ほどまで咲いていた桜の花も、元の蕾へと戻っていたのです。
白昼夢でも見ていたのでしょうか?
だとしたらいったい、どこまでが現実で、どこからが夢? 桜花さんに声をかけられたのも、もしかしたら夢の一部?
不思議な気分でしたけど、考えても答えは出ません。
そして時が経つにつれて、卒業式の日の出来事は、記憶の奥へと追いやられていきました。
ですがあれから十二年。今になってあの日の事が、やけに気になりだしたのです。
その理由は言わずもがな。桜花さんと同じ姓を持ち、瓜二つの顔をした女子生徒、春川桜子さんの存在にあります。
彼女は桜花さんと、いったいどういう関係なのか。気にはなりましたけど、聞いていいものかどうか分からなくて、すっかり尋ねるタイミグを逃してしまっています。
桜花さんの連絡先を知っていればよかったのですが、桜花さんは卒業後、ケータイの番号を変えて、昔の知り合いに聞いても、彼女が今どうしているか知っている人はいませんでした。
ですが桜花さんのことは分からなくても、担任をやっていると、桜子さんがどういう人物なのかは分かってきます。
彼女は積極的に色んな人に声をかけて、いつも笑顔を絶やさない、明るいムードメーカーな女の子。
この辺はやはり、桜花さんとは違いますね。
二人がどういう関係かは分かりませんけど、桜子さんには桜子さんだけの良さがあって、クラス内の人間関係も良好。お昼休みは友達と一緒にご飯を食べて、お喋りする姿をよく見かけます。
成績は特別優秀なわけではありませんけど、悪いわけでもない、素直で良い子です。ただ、少し気になるのは。
「あれ、今桜子ちゃんの頭に、動物の耳みたいなのが見えたような気が?」
「ギク! き、気のせいコン」
彼女の周りでは時折、こんな会話を耳にします。
そうなのです。僕もそうですけど、桜子さんの頭には狐の耳が、そしてまたある時には、お尻に尻尾が生えているような幻覚を見る事が、多々あったのです。
もちろん常にそれらが見えているわけではありません。ですがふとした瞬間、何の脈絡もなく見える事があるのも事実。
見えるのはいつもほんの一瞬で、彼女が言うように、気のせいと言ってしまえばそれまでなのですが、それでもやはり気になってしまいます。
そして桜子さんが喋る時の、言葉の語尾に「コン」とつける独特な訛り。本人は地元の方言だと説明していて、周囲もそれで納得しているのですが。
桜子さん、まさかとは思いますが、アナタの正体は狐なのでは?
もちろんこんな事、思っていても口には出せません。もしそうだとしても、本人は隠しているみたいですし、そっとしておいた方がいいのかもって気がします。
そんなわけで、気にはなりますけど追及はしませんでした。
桜花さんの事も同じです。桜子さんと桜花さんにどんな関係があるにせよ、皆と平等に接する。それが僕の教育方針です。無理に聞く必要はありません。
そうして何事も無く、時は過ぎていきました。そう、あの日までは。
◇◆◇◆◇◆
転機が訪れたのは、一学期が終わって夏休みに入った頃。
その日は夜になっても暑さが全く引かずに、耐えきれなくなった僕は、コンビニにアイスを買いに出かけました。
僕が住んでいるアパートから最寄りのコンビニまでは、一キロくらい離れていて、ちょっと買い物に行くにはなかなか面倒な距離。
こんな事なら、昼間のうちに買っておけば良かった。そう思いながらも、冷たい物を食べたいと言う衝動には勝てずに出掛けたわけですけど……。
アイスを買った帰り道、僕は出会ってしまったのです。
そこは近道をするために通った、とある公園。
ブランコに滑り台、ジャングルジムが月明かりに照らされて、ひっそりと佇むそれらは、どこか寂し気な雰囲気を漂わせていました。
もう夜ですから、遊んでいる子供の姿などあるはずもなく、一歩一歩歩くたびに、コツコツという足音が響きます。
そして公園の中ほどまで来た時。行きに通った時には気づかなかったそれに、気づいてしまったのです。
それは砂場のそばにあった、一台のベンチ。
ふと目をやった瞬間、ベンチの上にあるソレが、目に飛び込んできました。
暗かったですけど、今夜は月が明るかったせいか、ハッキリと分かりました。
子供? いえ、違います。そこにいたのは体を丸めてうずくまっている、一匹の小さな狐でした。
どうしてこんな所に狐が?
もしかしたら、誰かが忘れていったぬいぐるみかもしれないと思いましたが。
気になって近づいてみると、息をしています。
目を閉じながら、規則正しい呼吸をして、それにあわせて肺が膨らんだりしぼんだり。
いったいどんな夢を見ているのか、気持ちよさそうな寝顔をしています。
ふふふ、可愛いですねえ。
僕はしばらくその狐を見ていましたけど、そのうちふと、桜子さんの顔が頭をよぎりました。
狐と言えば桜子さん。一学期の間あの子の担任をしているうちに、そんなイメージが出来上がってしまっていたみたいです。
終業式の日、明日から夏休みだと言ってはしゃいでいた桜子さん。彼女は今、どうしているのでしょうね。楽しい夏休みを満喫しているといいのですけど。
そんな事を考えていると、寝ていた狐が寝返りを打ちました。
おっと、起こしてしまいましたか?
狐はもぞもぞと動き出し、寝ぼけたみたいに頭を上げると、トロンとした目で僕を見ます。そして。
「……あれ、先生、こんな所で何してるコン?」
喋りました!
僕は今まで生きてきた中で、喋る狐になんて会った事がありません。
たまにテレビで喋るペットだとか言って、喋っているのかいないのか分からないような犬や猫を紹介した映像は見た事がありますけど、そんなレベルじゃありません。ハッキリとした日本語で、僕に話しかけてきたのです。
喋る狐を目の当たりにして、当然驚きました。
しかしそれと同時に、自分がどこか冷静でいることを感じました。驚きはしたけど、何故かそこまで不思議とは思えなかったのです。
そしてそんな僕を尻目に、狐は辺りを見回しています。
「あれ、いつの間にか夜になっちゃってたコン。少し休むだけのつもりが、すっかり寝入っちゃってたコン」
恥ずかしそうにポリポリと手で……いえ、前足で頬をかく狐。この仕草、見覚えがあります。これは彼女が……桜子さんが照れた時などに見せる癖です。
僕の名前を知っていた事といい、もしやこの狐は?
「あの、アナタはいったい、誰なのですか?」
恐る恐る尋ねてみます。すると狐は首を傾げて、そして可笑しそうに、くすくすと笑いました。
「何を言ってるコン。ワタシは、春川桜子だコン。先生、寝ぼけちゃってるコン?」
ああ、やっぱりそうですか。薄々そんな気はしていましたよ。
姿だけ見れば、春川桜子感は0%、狐感が100%ですけど、妙に納得してしました。
いや、しかしですよ。もし本当にこの子が桜子さんなら、一つ問題があります。
時刻はもう、夜の10時近く。こんな時間に生徒が外を出歩くなんて、これは教師として見逃せません。
もっと他に色々とツッコまなければならない事があるような気もしますけど、真っ先に気になったのは何故かそれでした。
「本当に春川さんなんですね。ダメでしょう、こんな時間まで外にいちゃ。見つけたのが僕だったからよかったものの、変な人に声をかけられたらどうするんですか」
「ご、ごめんなさいコン。妖術の修行をしていたら……習い事の特訓をしていたら、つい遅くなっちゃったコン」
うーん、今明らかに、何かを誤魔化したような?
まあ良いでしょう。ここはあえて触れずに、話を続けます。
「習い事ですか。頑張るのはいい事ですけど、ほどほどにしないといけませんよ」
「それは分かっているコン。でも、すっごく頑張らないと、桜花お姉ちゃんみたいにはなれないんだコン!」
桜花お姉ちゃん?
今この自称桜子さんの狐は、確かに桜花お姉ちゃんと言いました。それはやはり、僕の知っている桜花さんなのでしょうか?
「ワタシはお姉ちゃんみたいに優秀じゃないから、もっともっと頑張らないといけないコン。だから夜遅くまででも、何なら夏休みの間中、不眠不休で修行するコン」
いや、それをしたら確実に死んじゃいますから。
しかし彼女の声からは、強い意志を感じました。
可愛らしい狐の姿をしていても、しっかりと伝わってくる確かな思い。僕だって教師の端くれですからわかります。こういう生徒は、得てして何かを抱えているものだって。
どうやら彼女にも、何か深い事情があるみたいですね。
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