葉桜の君に ~落ちこぼれの妖狐~

無月弟(無月蒼)

春川桜花と、春川桜子

 こうしてこの場所を訪れるのは、いつ以来でしょう。

 そんなの、考えるまでもありません。今から十二年前の三月、卒業式以来です。


 今は春休みの真っただ中。正門の前に立ち、静まり返った校舎を見ると、懐かしさがこみ上げてきます。

 僕は帰ってきたのです。青春時代を過ごした、この学び舎に。

 今度は生徒としてではなく、教師として。


 高校を卒業して、大学に入って。

 教師の道を歩むようになってから数年。母校への赴任が決まって、こうしてやって来たわけですが、ここはあの頃から、ちっとも変わっていませんねえ。


 正門を潜って、校舎に向かって歩きながら、あの頃の事を思い出します。

 共に過ごした友人達は、元気にやっているでしょうか? 

 よく面白い事を言って、みんなを笑わせてくれていた松本君。そんな松本君に、鋭いツッコミを入れていた浜田君、そして……。


 歩いていた足を止めて、前を見つめます。

 視線の先にあるのは、綺麗なピンク色の花を咲かせた、大きな桜の木。

 ああ、そういえば。


 胸の奥が、くすぐられたような感覚になりました。

 そういえば彼女に別れ話をされたのは、この桜の木の下でしたっけ。



 ※※※



 僕、秋田葉太が今まで生きてきた中で、唯一付き合った女性。高校のクラスメイトだった、春川桜花さん。

 長身で、黒髪の長いポニーテールが似合う、切れ長の目をした、凛とした感じの女の子でした。


 言いたいことをハッキリと口にし、曲がった事が大嫌い。そんな真っ直ぐな性格に惹かれて、僕の方から交際を申し込んだのです。


 高校一年の秋から、三年の春までという、長いのか短いのか分からない交際期間でしたけど、今ならハッキリ言えます。彼女がいてくれたからこそ、僕の青春は輝いていたと。

 結局最後は、別れてしまったのですけどね。


 三年生に上がって少ししたころ、それは突然告げられました。

 本当に何の前触れもなく、昼休みに一緒に昼食をとろうと、食べる場所を探して、二人して校舎の外に出た時、彼女は言ってきたのです。「私達、別れましょう」と。


 目の前が真っ暗になりそうになったのを覚えています。

 なぜ突然、そんな事を言い出すのか。もしかしたら知らないうちに、機嫌を損ねるようなことでもしていたのかも。それとも、僕以外に好きな人ができたのでは?


 一瞬のうちに、様々な考えが頭の中を巡りましたが、それらは全て的外れ。

 彼女が言うには、別れる原因は自身の、卒業後の進路によるもの。彼女の希望する進路だと、必ず僕との間に距離ができてしまい、遅かれ早かれ結局は別れることになる。だったらいっそ、今のうちに別れてしまおう。そんなことを言われました。


 しかし、一方的に別れを切り出された僕は、納得できるはずがありません。

 距離ができるからといって、上手くいかなくなるとは限らない。何なら君に合わせて、僕が進学先を変えてもいい。だから、考え直してくれ。

 恥も外聞もなく、すがるような気持ちで懇願しました。しかし桜花さんはそんな僕に、静かにこう言ったのです。


 ――君はこれから、教師を目指すのだろう。なのにそんな風にフラフラしていて、それで務まると思っているのかい?


 返す言葉がありませんでした。

 当時僕は既に、教師の道を志すことを決めていましたけど、確かに彼女の言う通り。

 先生になるという目標に真剣に向き合っていないと言われたような気がして、恥ずかしさが込み上げてきました。

 そして彼女は、さらに続けます。


 ――それに私が抱えている事情は、君が思っているよりもずっと深い。ここいらが、潮時なのだろう。


 勝手な事を言ってくれます。

 さっきの言葉には反論できませんでしたけど、今度のは納得がいきません。だってそもそも、僕は彼女がどんな進路を希望しているかも、聞かされていなかったのですから。


 進路について尋ねた事は、それまでに何度もありました。けれど彼女は、のらりくらりとはぐらかして、具体的な事は何も話してはくれなかったのです。

 なのにいきなり、そんな進路を理由に別れようだなんて、納得いくはずがありません。


 僕は柄にもなく怒りをぶつけて、すると彼女は、申し訳なさそうな顔をしました。


 ――すまないと思っている。いずれこうなると分かっていて、それでも君の近くにいたいと思ってしまったのは、私の間違いだ。いくら謝っても、許されるものではないね。本当に、すまない。


 桜花さんは、許せないのなら好きなだけ殴っていいと言ってきましたけど、そんなことできるはずがありません。

 放っておいたら土下座でもしそうな勢いの彼女を宥めているうちに、だんだんと熱も冷めてきて、結局別れる方向で、話は進んでいきました。


 だけどそれでも、一つだけ聞いておきたい事がありました。

 深い事情があるという、桜花さんの進路。彼女は卒業後、いったいどんな道に進むつもりなのか。せめてそれくらいは、ちゃんと知っておきたかったのです。


 しかし尋ねてみると、彼女は困ったような顔をしました。


 ――そうだね。ハッキリした理由も分からないままでは、君も納得いかないだろう。ただこれはきっと、君の理解の範疇を超えていると思う。例えば、例えばもしも……。



 ※※※



 キーンコーンカーンコーンー。


 おっと、物思いにふけりすぎました。

 あの時咲いていた桜の花も、風に揺れていた彼女の黒髪も、自分でも驚くほど、とても鮮明に思い出されました。


 あの日、一方的に別れを告げられたわけですけど、今振り返ってみれば、不思議と怒る気持ちにはなれません。

 もちろん当時は悲しかったですけど、あの別れがあったから、今こうして教師の道を進めている。

 そう考えておけば、辛くはありませんね。


 さて、もうそろそろ、校舎に向かいましょう。

 十二年ぶりに、足を踏み入れる校舎。何だか少し、ワクワクしますね。





 ◇◆◇◆◇◆




 教壇に立つ僕に、八十の目が向けられます。

 かつての学び舎に戻ってきた僕が任されたクラスは、一年四組。図らずもそこは、高校時代に籍を置いていたクラスでした。


 教師になってから、数年が経っています。当然、教壇に立つのはもうすっかり慣れているというのに、やはりこの場所は特別なのでしょうか? 不思議な高揚感がありました。


 ぐるりと教室内を見回して、これから楽しい高校生活を送って行きましょうという、型にはまった挨拶をして、今度は生徒一人一人の自己紹介に移ります。


 出席番号一番から順に、それぞれ名前と、夢や目標、趣味などを言っていく生徒達。

 ハキハキと喋る元気の良い子がいたかと思えば、緊張している様子の子もいました。


 今日からこの子達を指導していく立場として、その一言一言を聞き逃さないよう、話している生徒とじっと向き合っていました。だけど。


 集中するあまり、僕は気づいていなかったのです。40人の中にいる、彼女の存在に。


 自己紹介も半分ほど終わって、その子の番が来た時、僕は目を見開きました。

 長い黒髪をポニーテールにまとめた、可愛らしい目をした少女。


 似ています。かつて好きだったあの人、春川桜花さんに。


「はじめまして、春川桜子って言います!」


 明るくハッキリとした声で、自己紹介を始める春川桜子さん。

 実は数日前、クラス名簿を渡された時に、気になってはいたのです。かつて付き合っていた彼女と、似た名前の生徒がいるなって。


 名字は同じですし、『桜花』と『桜子』、よく似ています。

 しかし、たまたま似た名前なだけかもしれない。変な先入観を持ってしまっては失礼だと思い、とりあえず会ってみるまでは深く考えないようにしていたのですが……これは無関係と思う方が無茶でしょう。

 それくらい、二人はよく似ていたのです。


 顔も髪形も、瓜二つ。性格は、少し違うでしょうか? 

 クールな雰囲気だった桜花さんに対して、桜子さんの方は明るい印象を受けました。けどそれでもとても、他人とは思えません。

 ひょっとして桜子さんは、桜花さんの妹? もしくは従姉妹かもしれませんねえ。


 僕は驚くあまり、ポカンと口を開けてしまっていたのですが、そんな事など知らない桜子さんは、自己紹介を進めていきます。


「たくさん勉強したくて、この学校に来ました。これからよろしくお願いしますコン!」


 ニッコリと笑みを浮かべながら、挨拶を終えました。

 元気の良い女の子ですね。少し気になったのは、言葉の最後に、独特な訛りがあった事でしょうか……んんっ!?


 気のせいでしょうか?

 着席した桜子さんの頭の上に、二本の耳がぴょこんと生えているように見えるのですが。

 それは人間の耳ではありません。漫画やアニメなんかで出てくる、ケモノ耳と呼ばれる類の物です。


 いや、でもそんなはずはありません。

 目をゴシゴシと擦って改めて見ると、さっきまで見えていた耳は無く、さらさらとした黒髪があるばかり。やはりさっきのは見間違い? いや、しかし。


 呆けていると、次の生徒が催促してきます。


「先生、俺の挨拶、もうしても良いっすか?」

「ああ、すみません。ではお願いします」


 そうは言ったものの、僕の意識はすでに自己紹介を終えた、春川桜子さんの方に向いていました。


 桜花さんとよく似た少女。先ほど確かに見えた、不思議な耳。

 僕は別れ話をされたあの時、桜花さんが言っていた言葉を思い出しました。


 ――例えばもしも、実は私の正体は狐のあやかしで、卒業したら山に帰らなければいけないと言ったら、君は信じるかい?


 最初それを聞かされた時は、ふざけているのだと思いました。

 しかし彼女の目は真剣で、自分の抱えている事情は、今言った事と同じくらい、受け入れ難いものだって言っていましたっけ。


 桜花さん、あの時言っていたことは、本当に例え話だったのですか?

 アナタの正体が狐だというのは真実で、山に帰らなければならないから、僕と別れたのですか?

 もしもそうなら、ここにいる桜子さんは?


 生徒達の自己紹介はまだ続いているのに、もうとても頭に入ってはきませんでした。

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