【ヒース】

 知られてしまっていた。


 サリはまだ俺の手を離さない。

 これは、つまり、どういうことだ?

 俺を受け入れてくれるのか?

 いや、そんなはずはない。

 獲物を狙う獣のようにつけ狙っていたことが筒抜けだったなんて、さぞ気持ち悪かっただろう。

 俺を疎ましく思うなら、その手を離してくれ。

 優しくしないでくれ。

 離してくれと思いながら、サリの滑らかな手をぎゅっと握りしめる。

 相反する感情に背中の鱗が逆立つのを感じる。これは感情が飲み込まれる前兆だ。

 サリに嫌われたくないのに、竜の血が俺を蹂躙しようとしている。


 サリの視線は俺の目から逸らされることはない。

 今もか?もしかして今も光っているのか?

 番に捨てられる恐怖で、乱れに乱れた竜の血に邪魔されて、今の自分がよくわからない。

 捨てられるも何も、サリに気持ちすら伝えていないのに。

 思わず眼を瞑ってみるが、駄目だ、余計にサリの気配を近くに感じて苦しいだけだ。

 俺より緩やかに脈打つ、サリの鼓動を感じる。

 恐る恐る薄く目蓋をあけると、サリが心配そうにこちらを見上げている。

 恐ろしくて何も聞くに聞けない状況で、カラカラに乾いた喉が何も飲み込めずにごくりと鳴る。


「……いつから?」


 嗄れた声が出る。


「ニルソンに会いにいったとき」

「あの時か……」


 サリが頷く。

 サリと離れただけであんな風になるとは思わなかった。

 バロッキーの誰も、俺がどれほどサリに執着しているのか予想がつかなかったのだろう。

 知っていたら、サリ一人を猛獣のいる山に送り込むなんて無茶をさせなかった筈だ。


「確かに、あの状況じゃ、隠せるはずなかったな」


 それじゃ、サリはあの後も、知っていて側にいてくれていたのか。

 責任感の強いサリらしい話だ。


「それで、その、私が番いだという自覚はあるのね?」

「……ある」


 ありすぎる。


「それは、いつから?」


 それを言うのか?

 俺がどれだけ前からサリに懸想していたのか知らせるのは、俺の浅ましさの証明にしかならない。

 そんなの……。


「最初からに決まってる」


 俺のなけなしの矜恃より、怯えてサリに縋ろうとしている竜が黙らない。

 乗っ取られたように俺はサリへの劣情を吐露していく。


「最初って?私がヒースに最初に会ったのって……」

「俺が書類を派手に取り落として、サリが俺だけは無理だって言った時だ」


 サリの前でこそ外面をとりつくっていたいのに、毎度毎度、この情けなさはなんだ。


「私、ヒースの事が無理だなんて言ったことないわよ」


 ああ、言ってない。

 言ってないがあの時の俺にとっては同じ事だった。

 サリが困った顔をしている。


「わかってる」


 あの時、サリは死に場所を求めて、より条件の悪い結婚を求めていた。

 ただ、芽生えかけた淡い期待が潰えたことを、俺がいつまでも惨めったらしく覚えているだけだ。


「……でも、本当の最初ね」


 あの時、人から厭われるのには慣れていたのに、酷い絶望感に苛まれた。

 サリに何か特別な感じがしたのは一瞬だった。

 それよりその後のほうが問題だった。

 誰かの妻になるはずのサリに、俺は取り返しがつかない程に恋をしてしまった。


「そんなに早く分かっていたなら、ちゃんと言ってくれればよかったのに」

「……サリの負担になりたくなかった。サリの自由を奪うような事はしたくない」


 少し目を逸らしたのがいけなかったようで手をぎゅっと握られる。


「本当は?」


 本当はって、なんなんだ?

 サリは、これから放り出すつもりの俺を全部暴くつもりなのか?


「……だって、言えると思うか? 竜の血が反応しているので、結婚相手は俺にしてくれだなんて。シュロから来たばかりで、バロッキーの事など何も知らないサリに、あの時言えたと思うか?」


 サリは難しい顔をして、俺の尋問を続ける。


「もしかしたら質問しちゃいけないのかもしれないけど、その……そんな一瞬で運命の人を決めて大丈夫なものなの?」


 俺は覚悟を決めた。

 サリが求めるなら、内臓を端から並べて見せてもかまわない。

 俺の持っているものでサリが満たされるなら、俺が抱えている腹の内なんて隠すに値しない。


「他の竜がどうやって相手を決めるのかわからないが、俺はサリがそうだと分かるのに時間はかからなかった」


 サリが居るだけですごく幸せだった。

 これがずっと続けば良かったのに。


「最初は見た目の美しさに惹かれたけれど、どんどんサリがサリであることが大事になって……サリが俺に触れて、友好的な態度で話して、俺がいれたお茶を飲む。近くにいればその体温があたたかいことも、俺の名前を呼ぶことも、甘い菓子を大事そうにゆっくりたべるのも、夕方の眠そうにしている時の香りも、遠くを見渡す眼差しも、人を惹きつける強さも、命さえ惜しまない潔さも、なかなか見せない弱さも、全てが美しいし、愛しいと思う――結果的にサリを選ぶのに一瞬で充分だったし、何も間違いはなかった」


 本当はこの十倍ぐらいサリの美しいところを言える自信がある。

 こんな気持ち悪い事を言って困らせたくないのに。


「サリ、俺はもう駄目なんだ。サリの今も未来も全て欲しい。それどころか時間が遡れるなら過去まで欲しい……」


 何かに縋り付きたい気持ちで、もう一度手に力を込める。


「気持ち悪いだろ。でもこれが、俺の本当だ。これが竜の血のせいだというなら、竜の血を全て抜き去って嘘偽り無くサリを愛していると証明してみせる事も厭わない」


 こんなの愛着ですらない、服の染みのような執着だ。

 聞くに堪えない赤裸々な告白に、俯いてしまったサリのうなじが朱に染まっている。


「さあ、他になにが聞きたい? 俺の全てはサリのものだ」


 斬首台に首を置いたような気持ちだ。


「それじゃ、ミーゼル家の騒動があった時、あの時もそうだったんでしょ?」


 ミーゼルの親子がどんな奴らだったか覚えがない。

 あの時掴んだサリの手の感触と、サリを胸に抱いた高揚感、サリが死んでしまうかもしれない絶望感が俺を突き動かしていた。


「あの馬鹿親子を追い返せるくらいには、俺のサリへの執着は禍禍しかったんだろうよ」


 逆に、あの頭のおかしい状態だったから、サリの婚約者の地位を手に入れられたのかもしれない。

 サリの安全しか考えられなかったから。


「じゃあ、どうして婚約が、決まった後も黙っていたの? 教えてくれても良かったじゃない?」

「知っていたら、婚約が解消された時に、サリが悩むと思って……」

「そんな、婚約解消って、万が一別の人が婚約者になったとして、ヒースのその状態で私を何処かにやれたっていうの?」


 サリは少し怒ったように言う。

 可愛い。


 俺はギリギリの所でサリを逃す手段を残してきた。

 俺に捕まらないように。

 俺はサリの幸せの為だったらなんでもするし、俺がどんなに辛くても構わない。

 だから、サリには番だと知られる訳にはいかなかった。

 サリは自分の感情を横に置いて、婚約者としての務めを果たそうとするはずだから。

 サリの幸せが無い、俺だけの歪んだ幸せなんて嫌だ。


「サリの幸せの為なら何でもできる。サリを手放すことだって」

「ヒースのそういう所、すごく独り善がりだと思うわ」


 片眉を上げて咎めるように反論してくる。

 愛しくて苦しい。


「サリが別の奴が良くて、サリの幸せのために別の結婚を選ぶならいいんだ。でも、俺との結婚が……俺そのものが嫌だったら、もう……俺は耐えられないから……いっそ俺を殺してくれ」


 言ってみて、俺は自分の言葉に絶望した。


「えっ、えー?ヒース、重っ……」


 サリが眉を八の字に下げる。

 そうだ、こんな重くて深くて昏い恋を誰が許してくれるというのか。

 相手を雁字搦めにしてしまうほどの感情を。

 殺してくれだなんて、そんな強い絆を別れに望んでしまうほどの狂気を。

 きっと、この重い執着が負担で、サリは俺をクララベルに下げ渡して、俺から去っていくにちがいないのだ。

 急に目の前が暗くなったような気がした。


「サリがいいのに、サリじゃなければ駄目なのに。俺に番が現れたら、だなんて……」


 恨めしくサリの言葉を思い出す。

 言わなければいいのに、これが最後かと思うと未練たらしく後からあとから世迷言が飛び出してくる。


「それは、えーと……知らなかったからだけど、ごめん」


 サリと離れたくない。

 サリが譲ると言えば、クララベルは俺を飼い犬のように城に繋ぐのだろう。


「俺をクララベルに差し出さないでくれ。サリの気配のチラつく王都に留まるくらいなら俺は今から何処か遠くに行く」


 言ってみて、やっぱりサリから離れるなんて無理だと思う。

 サリを俺から逃すなんて強気なことを思っても、この手一つ離せない。

 サリの幸せを願いたいのに、サリが欲しくて仕方ない。

 格好悪くてもいい、未練がましくてもいい、同情でもいい、サリが手に入るならなんでもする。

 サリと離れるのは嫌だ。


「頭がぐちゃぐちゃで、狂いそうなんだ……」


 鼻の奥がつんとする。


「あのね、一旦落ち着いて、ヒース。あなた、何かおかしなことになってるわよ」

「俺は、サリが良くて、サリだけにしか興味がない……クララベルじゃないんだ」

「クララベルはクララベルで必死にやってるのよ」

「違う。気持ち悪い俺をクララベルに下げ渡して、サリは幸せになればいい……」

「そんな話じゃないでしょ?もう、しっかりしてよ!

 なんだか、酔っ払いと話しているみたい」

「無理だ。サリと離れたく無い」

「ハイハイ。あーもう、全然意味がわからない。打ち明けるタイミングを間違えたかしら……」


 サリは片手で頭を抱える。


「ヒース、ちょっと手をはなすけど、おかしな事にならないでね」

「嫌だ。離さないでくれ」


 逃げられないように、ぎゅっと手に力をいれる。


「え? 本当にちょっとだけよ! もう、ヒースは痩せ我慢しすぎなのよ! 私が悪い事したみたいな気になるじゃない」


 感情がぐちゃぐちゃで、手を離したらサリとの繋がりがきれてしまいそうで、ますます離すまいと力を入れる。


「サリが悪い」

「わかったわ! わかりましたってば! 私が要らないことを言ったのが悪かったから!」


 手を離すことは諦めてくれたようで、またサリの手に力が戻る。


「いい? 私はヒースを誰にも渡さないし、私はヒースのものってことで間違い無いから」


 嬉しい。

 それが嘘でも。

 サリの口から出た言葉として死ぬまで何度も繰り返し記憶に刻もう。


「だが、婚約者だからって気を使わなくてもいい。俺が山にでも籠もればサリを害したりしないで済むから。でも、あの刺繍だけは持っていかせてくれ、もう二度とサリの目の前に現れないから、せめて……っ」


 無理だ。

 サリの気配のない所で暮らすなんてやっぱり無理だ……唇を噛み締めて涙を堪える。


「やだ、本当に泣くの?」


 サリが慌てている。


「……っサリが好きなんだ」


 涙と共に嗚咽が漏れる。


「そうね!そうよねっ! それはもうわかりました! でも、何でヒースが山籠りする話になるの? これって竜の血のせいなの? 認知の歪みを感じるわ」


 もう、どうしたらいいの?とサリが言って、解放されない手はそのままに、優しく俺の頭を引き寄せて、頬を寄せられる。


「目が光ってるの、知ってて黙っていたのは悪かったわ。お願い、あの後の事をよく思い出して。あんな事されて、番いが嫌なら、避けたり、距離を置いたりするじゃない? どう? そんなことあった? 私が不安にさせているのなら謝るから、もう普通に戻って!」


 サリの香りが俺を包む。

 サリの白いうなじに涙を落としながら、靄がかかったような感覚が晴れていく。


 そうだ、俺の血が番いとして反応していることが分かってからも、サリは俺を避けたりしなかった。

 むしろ近くにいることが増えて……サリが風邪をひいた時だって俺を頼りにしてくれていた。

 辛かっただろうに、母親の事を話してくれた。

 俺と家族になりたいと言ってくれた。

 クララベルと名前で呼び合っていると知った時は、自惚れでなければ、サリが嫉妬しているような、そんな感じがした。

 サリはいつも俺を好いていると、好ましいと言葉にしてくれる。

 見た目が好みだと、自分には勿体ない優良物件だと、厭われる爪や目まで綺麗だと、触れてくれる。

 サリが俺を好いてくれるなら、こんな幸せなことはない。


 サリが、俺を?


 自分の考えに、ガツンと殴られたような衝撃が走る。

 その隙にサリは自分の手を取り戻し、眉をしかめて揉んでいる。


「馬鹿力なんだから……」


 可哀想に、掴まれすぎて赤くなっている。


「もう一度言ってくれ」


 聞き間違いでなければ、何かサリはすごく大切な事を言っていた。

 俺を誰にも渡さないって?

 サリが俺のものだって?


「だからね、ヒースが好きよ。初恋なの」 


 サリの血の色が透ける瑞々しい唇が弧を描く。


「いや、さっきと違うだろ! 刺激的にしてどうする?!」


 サリが俺の息の根を止めようとしてくる。


「やっぱり、こういうのが効くのね」


 サリが俺の涙を拭ってくれて、また俺を呼ぶように両手を伸ばすから、誘われるままに肩口に頬を寄せる。

 髪の手触りが気に入ったのか、髪をずっと撫でてくれる。


「ヒースが好きなの」


 そうか、サリは俺のことが好きなのか。

 急速に暴れ回っていた竜の血が落ち着いていくのが分かる。


「クララベルには悪いけど、私もヒースを誰にも渡したくないみたい。私がヒースの特別だって分かって、嬉しかった。ヒース、間違えて署名してくれてありがとう。好きな人と結婚出来るのって幸せな事ね。半年前の私には想像もつかなかったわ」


 好きな人と結婚するって……俺のことか。

 つまり、サリは俺のものということか。


 サリの香りを深く吸い込む。


「俺はもう、サリと離れられない。嫌か?」

「嫌じゃないわ。ヒースのこと好きだもの」

「どうしてサリは俺の都合の良いことばかり言うんだ」

「ヒースのことが好きだからよ」


 小さく笑う振動まで心地良い。

 サリの背に手を伸ばして腕の中に閉じ籠める。

 少し身動ぎして、俺に寄り添うサリの柔らかさに脳が溶けそうだ。


「お姫様に命令されたって、ヒースを渡さなくていい大義名分ができたってこと?」

「どうしても連れていくなら俺を殺して連れて行けとでも言うんだな」

「クララベルはそんなことしないわよ」


 万能感に包まれる。

 こうしていると、何も怖いことはない。


「おちついた?」


 サリが俺の背中を撫でる。

 多幸感で、現実感が薄い。


「おかしい。幸せすぎる。俺は死ぬのか?」


「……ヒースって、割とめんどくさいわね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る