乙女の矜持

 ニルソン山は遠い。

 四時間かかってようやく山の麓まで来た。

 シュロから来た時は一頭曳きの幌もない馬車で、揺れるし寒いし散々だった。

 私のために用意してくれた二頭曳きの馬車は、盗賊除けなのか見た目は簡素だが、中のソファは柔らかいし、車輪は樹脂で覆われていて揺れも少ない。

 窓枠に羅紗まで張ってある。

 贅沢というのは見てくれての派手さじゃないな、と感心する。


 平地を滑るように走った背の高い馬たちは、山の麓までしか走らない。

 そこからは、見たことのないずんぐりとした背の低い馬たちに替えて、夕暮れの山道を登っていく。


 ここからはバロッキーの敷地だ。

 関係者以外立ち入り禁止と張り紙を出している門をくぐり、しばらく行くと木造の機能的な宿舎に着いた。

 馬車を降りれば、先触れがあったのか、事務員の格好をした青年がソワソワと待ち構えていた。

 麦藁のような髪を無造作に束ね、もさもさした前髪から覗くヘーゼルの丸い瞳が人の善さを表しているようだ。


「お待ちしておりました。サリ・トーウェン様ですね」

「サリでいいです」

「私はここの事務方をしております。ノーウェルと申します」

「よろしく、ノーウェルさん」

「早速だけれど、ヒースは?」


 ノーウェルさんは困ったような顔をして、こちらへ、と私を伴って歩き出す。


 ヒースは他の鉱工とは別に滞在する場所が与えられているようだ。

 山沿いに木で舗装された渡りを行けば、さっきの宿舎よりは小ぢんまりとはしているが、技巧が凝らされた白壁に黒梁の建物が現れた。


 この辺は雪が深いのか、屋根の形が特徴的だ。

 中に案内するでもなく、私を扉の前に置くと、ノーウェルさんは、私はここで失礼しますと踵を返す。

 やはり、分家といっても本家の者と交流をするには至らないのかもしれない。


 断熱性の高い分厚い扉を開けて室内に入ると、吹き抜けの暖炉のある部屋になっていて、二階に上がる階段と一階の奥に続く廊下が見える。

 室内のランプは一つだけしか灯されておらず、なんだか薄暗い。

 さて、ヒースはどこにいるのだろう。

 きょろきょろとしていると、どこかの扉が開く音がする。


「サリ?」


 間違いない、人影はヒースだ。

 ほっとして、廊下まで歩を進める。

 夕方だし廊下の明かりぐらいつければいいのに。


「いや、そんなはずないな」


 一人でぶつぶつ何か言っては、何かを振り払うように頭を振り、額を押さえる。


「ヒース?」


 話しかけると、目を眇めて、また頭を振る。


「……幻がキツくなったな。サリの匂いまでする」


 ゆっくりと確かめるように歩を進め、私の目前まで迫る。

 いぶかしげに眉を顰め、身をかがめると、私のうなじすれすれに顔を寄せて息を吸い込む。


 ひゃぁぁ!


 おもわず身を竦める。

 野生動物くらい人と距離をとるヒースが、自分からこれほど近くに来るなんて……。

 明らかにいつものヒースとは違う。


「我ながら、これは重症だな」


 ため息とともに吐き捨てるように言う。

 やはりどこか具合が悪いのだろうか、息が熱い。

 ここまで慎重に動いているように見えたヒースは、今度は迷うことなく私の髪に指を絡めて苦笑する。

 今朝は早かったので髪を結う暇もなかった。

 馬車の中でバレッタで無造作に留めてハーフアップにしただけで長い髪は垂らしたままだ。

 ヒースは私の髪を一房掬いあげ、弄ぶ。


「サリの髪だな……」


 そ、そうだけど。

 しばらくそうしていたかと思うと、恭しく髪に唇を寄せる。


 ぎゃぁぁ!


 全身の毛が逆立つ。

 これはまた別の意味で心臓に悪い。

 少し痩せた面影は憂いの表情に沈んでいる。

 もう、何が起きているのか分からず、ただただ見守るしかできない。


「ヒース、どうかしたの?」


 恐る恐る尋ねると、困ったように笑う。


「どうもしない。どうせ、いつも通りだ」


 私の頬を壊れ物のように両手のひらで包み込んで、瞳を覗き込む。


「……サリがいないんだ」

「はい?」


 途端に、大きな体に抱きしめられて、身動きが取れなくなる。

 ヒースと私の体格差では、その腕から這い出る術はない。やっぱりなんだかおかしい。


「あの、ヒース?」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、うなじに顔を埋められ、こそばゆい。


「サリ……」


 なんだか分からないが、切ない声で呼ばれては、頭をなでてやるのはやぶさかではない。


「本当にどうしちゃったの?」


 そのうちに、うなじに生暖かい感触が走る。


 うわっ!ちょっ、何?


 生暖かい感触のまま甘く噛まれたのがわかり、慌ててヒースの腕を叩く。


「ちょっ、ヒース?!」


 あれ、甘くじゃない!

 犬歯が食い込んで、痛っ、痛いよ!

 痛っ、痛いって、痛だだだだだだ!


「……だっ!ちょっと、ヒース、ほんとに痛いってば!!」


 噛みちぎられてはたまらないと、ヒースの髪を引っ張って引き剥がそうとする。


「本物、本物だからっ! 幻とかじゃありません!

 ヒースに会いにきたのっ! 痛い! 痛いから!!」


 ぴたりと止まると、ゆっくりゆっくりと噛んでいた歯を弛めていく。


「ほ、ほんもの……?!……!!」


 あ、この動き知ってる。

 間違えて飼い主を噛んじゃった犬の動きだわ……。


 徐々にぼんやりしていたヒースの目が像を結ぶ。


「うわっ!!」


 派手に飛び退る。

 いや、飛ぶほどってなんなの?


「サリ?」


 恐る恐る私に声をかけるヒースは、廊下の壁に背中をへばりつかせて、わなわなと震えている。


「そうよ」


 自分の仕出かしたことがそろそろ身に染みてきたようで、声だけで顔色がおかしいことが分かる。


「ほ、本物?」


 くどい。


「四時間以上かけて、ついさっき着いたところ」


 ぐいと手首を引いて明かりのあるところまで連れて行く。


「俺は、サリに何を……」


 ほう、私にそれを訊くのね。


「私の匂いを嗅ぎ、髪にキスして、抱きついて、首を舐めた上に、噛みましたね」


 割と痛かったので、事実を羅列してやる。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 今度は頭を抱えてしゃがみ込む。


「……全部現実だったのか」

「幻だと思っていたの?」

「最近は幻が見えるほどだったから…… 現実のはずがないと……」

「現実じゃなければ妄想でそういうことしちゃうわけね。男の人ってたいへんね」


 少し辛辣なのは許してもらいたい。

 こちらはこちらで肝を潰したのだ。


「ぐっ……消えて無くなりたい」


 羞恥でもだえているヒースに、意地悪く声をかける。


「え?消えたいの? 憂鬱感で死を望む病もあるのよ。まさか、神経を病んでしまったのではなくて?」

「違う。そういうやつじゃない」


 違うのはわかっていた。

 そういう病は、こんなに活動的に動けるものではない。


「じゃあ、どうしたっていうのよ? みんな行けばわかるからって、教えてくれないのよ」

「病気や怪我ではないのでしょ?」


 もだもだと、しゃがみこんだまま顔も上げない。


「……」


「人を噛んでおいて、何の説明もないの?」


 わたしにだって、そろそろ我慢の限界がくるわよ。

 割と気は短いほうだから。


「……わかった。説明するから」


 ようやく立ち上がったヒースは目も合わせない。


「お願い、病気でも怪我でもないのなら、お茶をご馳走してくれない?」


 御者と馬は馬場で何度か替わったが、私は心配でろくに休みもとらずにここまで来たのだ。

 それにこの仕打ち、少し休ませてもらっても罰は当たらないはずだ。


「気が利かなくてすまなかった。待ってろ……」

「ヒース」


 よろよろと何処かに向かうヒースに置いて行かれては困ると声をかける。


「私はどこに腰を落ち着けていればいい? まだこの建物のことも何も分からないのよ」

「あー、とりあえず、どこでもいいから気配がわかる範囲にいてくれ」

「ええ?! 気配?」


 そんなの分かるわけない!

 気配の分かる範囲ってどのくらいなの?

 今まで何となく分かる気でいたヒースという人こそ、私の幻だったかもしれない。



 台所の作業台で区切られた広い部屋に五、六人で食事が出来そうな木製のテーブルが置いてある。

 作業台で用意したものを直ぐに食卓に提供出来る機能的な造りだ。

 暗かった部屋には明かりが灯され、暖色系の内装が浮かび上がった。

 何気なく敷いてあるが、この絨毯高いわよね。


「サリ? あの、大丈夫か?」


 ヒースは食卓の端に座った私にお茶をいれて、自分では遠く作業台の向こうに座った。

 気配の分かる距離って、そんなに遠いんですかねぇ? と憎まれ口をたたくのはやめておいた。


 さて、ここまでの諸々の事が、大丈夫かどうかでいえば、ヒースが婚約者でなければ大変な狼藉の部類にはいるのではないだろうか。

 肩口に垂れている髪を除けてヒースに噛まれた所を晒す。


「うっ、これは……」


 自分で確認出来ないのが幸いしたが、ヒースの様子をみれば、しっかり跡がついてしまっているのが知れる。

 顔を赤くするのか青くするのか、どちらかにしてほしい。


「謝らなくていいから、何がどうなってるのか説明して」


 長い溜息が聞こえる。


「……王都を出て直ぐは何ともなかったんだ」


 ようやく始まったヒースの釈明に、私はやっとお茶に手を付ける。

 ヒースのお茶は茶葉が変わっても美味しい。

 きっと私のお土産として買ってくれていたのだろう、可愛らしい菓子も皿にたくさん盛り付けてくれる。

 あからさまに機嫌を取ろうとしてくれるのね。


「採石場での仕事が始まって、これまでに無いくらい仕事が捗って、調子に乗ったんだと思う」

「調子に乗るって?」

「竜の血の望むままに力を使ってみたんだ。……竜の血が何を好むか知っているか?」

「美しい物を好むんだったかしら?」

「貴金属類も好むようだな。ここは金が出るから、大きめの金塊でも見つかれば早めに本家に戻れるかと思ってな」

「それで金は見つかったの?」

「見つかった。簡単だった。しかし問題はそこではなくてな……」


 簡単に見つかったほうが大事なのではないのだろうか。


「俺が何も抗わずに血に応えたのが悪かったのか、まず、冬眠から覚めたばかりの動物に囲まれるようになって。しばらくその対策に時間を割いた」

「それは……たいへんだったわね」


 うっかり、御伽噺みたいね、といいそうになる。


「次に竜の血が欲したのは仲間の気配だった。太古の竜は恐らく群れで生活する生き物だったんだろうな。いつもある気配がないことが落ち着かないんだ。そうはいっても、今の時期は皆それぞれに仕事をしているし、仕事が終わるまでは無理だなと思えて、だんだんと気にならなくなった」


 まぁ、ホームシックみたいなものね。


「その……仲間の気配の内訳に、サリも入っていたわけなんだが」

「私? 家族ではないけど、反応するの?」

「サリは俺にとって庇護する存在だし、婚約者だし……竜の血が反応しないわけがない」


 遠回りしすぎて伝わらない表現だが、まぁ、意図するところはわかった。


「サリの気配から遠い所にいても、バロッキーの皆と同じように、仕事が終わればまた会えるから心配ないと、竜の血に応えないようにしていた。サリの持たせてくれた刺繍があるし、サリの匂いもするから大丈夫だと……」


 私の匂いって……それは、嫌かも。


「それが、全然大丈夫じゃなかった」


 あらまぁ。


「現場で力を使えば使うほど、サリの気配がないのが気になって、毎日サリが夢に出てくる」

「暗闇でサリの幻まで見えるようになって、そろそろ仕事にも影響がでそうで、ジェームズさんに手紙を書いたんだ」


 ジェームズさんならどうにかしてくれる、と思っての人選だったのだろう。

 その実ジェームズさんにも対処法が分からず私に丸投げしたと、そういうことでいいだろうか。


「軽蔑しただろ?」

「割と」

「……そうだろうな」


 しまった。

 冗談が通じない雰囲気だったんだった。


「いえ、冗談よ。軽蔑はしてないわ。八つ当たりよ」


 しかし、確認したいことはある。

 ヒースのいれてくれたお茶を持って作業台の近くまで移動する。


「私、本当に竜の血について無知だったみたいね」


 私の知らない竜の事について、共通の認識を持つ必要があるようだ。


「まず、気配っていうのは何?」


 私は竜の血を侮っていた。

 こんなに歩み寄る努力が必要なことだとは思わなかったのだ。


「建物の中とか、割と狭い範囲で相手がいるな、っていうのが分かる。本家の敷地内なら多少広くてもあまり人が多くないから、端の方にいても方角くらいならわかる」

「見えなくても誰なのかわかるの?」

「知っている気配なら」


 思い当たる節がある。


「アルノに初めて会った時、仕事場から帰ってくる時……」

「そうだな、あの時も、サリが本邸に向かっているのが分かっていて迎えに行った」

「そう、たまたま迎えに来たのではなかったのね。

 気配については分かったわ」


 ここからが個人的に難問だ。

 私だって一応乙女だ、切り出すのだって勇気がいる。


「………その、私……何か匂いがする?」


 訊いてしまって、居た堪れない。

 動物なら鼻が良くても、それを口にする事はない。

 だから安心して愛でることができる。


「それはその……」


 だが、それがヒースなら?


「やっぱり、言わないで! 耳もいいんだから、鼻もいいって思わなかった私が抜けていたのよ。逆にごめんなさい。不快な思いさせていたかもしれないわね」


 割と色々な事を無視したり割り切ったりできる方だと思っていたけど、これはちょっと心の準備が必要だ。


「いや、そんな事はない! サリの香りが不快だなんてあるはずがない。最初に会った時から、その……」

「やだ、最初に会ったのって、長旅で薄汚れていたときじゃない?! あの時の匂いが不快じゃないなんてことある?!」


 羞恥で赤面したのを隠したくて両手で顔を覆う。


「ちょっ、サリ、違う。泣くな」

「泣いてないわよ。恥ずかしいだけ」

「違うんだ。そういう匂いの話じゃない。あの時、サリはそれはもう、嗅いだことのない良い匂いがしたんだ。離れ難いような、清廉で甘い匂いが」


 あわわわわわ。

 そういうのも恥ずかしいから、もうやめて。


「なんだ、なにをいっているんだ?俺はとんだ変態だな」


 二人して馬鹿なことを論じている。

 そうだ、私の刺した刺繍にすら私の匂いを嗅ぎ当てるくらいなのだ。

 すべて今更だ。


「もう、いいです。私が、嫌な思いをさせてないのならそれでいいから!」


 もう耳まで真っ赤で酷い様子だ。


「本当に不快な思いなんて今まで一度もないからな」

「本当に一度も?」


 信じないわけではないが、優しいヒースの事だ、気遣われてないとも限らない。


「俺がこれ以上変態的な発言をしても許されるなら、サリの体臭について納得するまで説明するが」


 私が横目で睨むと、ぎょっとするようなことを言って開き直られる。


「……この件は不問にしましょう」


 本当に、竜の血を甘く見ていたわ。


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