【イヴ・バロッキー】

 私が応接室に着いた時は、既にミーゼル家の親子が帰った後だった。

 ミスティをラルゴに任せてから、部屋から飛び出して行った二人を追いかけてきたのだけど、先客がいたみたい。


 扉の前にへばりついていたルミレスとアルノに事情を聞く。

 二人ともそこそこ耳がいいから、扉の近くでも中の様子が聞こえていたはずね。


「イヴ! ヒースってば、あんなに抗ってたのに、うっかり書類に名前書いちゃったみたいだよ!」


 ゲラゲラ笑っていて要領を得ないルミレスに事情をきくのはあきらめて、アルノを見る。

 ルミレスは笑いながら応接室に入っていった。

 ここ最近見た事がないくらい、凄く陽気なルミレスだったわね。

 サリをヒースに押し付けて朝帰りしたと聞いて説教したのに、さっぱり聞いてないし。

 何かルミレスにも変化が起きているのだろう。


「安心してイヴ、ミーゼル家はヒースが追い返した」


 いつもあまり表情が変わらないアルノが興奮気味に言う。

 この子も最近楽しそうにしている。

 去年の騒ぎがあってからヒースと一緒になって、お坊さんみたいな顔してたのにね。


「何かの書類に署名したって言ってたけど?」


 私は書類仕事には明るくないので、その辺りがどうなっているのかよくわからない。


「サリの借用書にヒースが署名したようだな」

「まぁ、それって……」

「婚約の誓約書だな」

「あら、あら、あら、あら」


 私はいそいそと応接室に入っていった。

 サリが来てから、うちの中の至るところに花が咲いたみたい。

 女の子がいるっていいわね。


 私はバロッキーに拾われてここで育った。

 仕事を与えられ何不自由なく暮らして、良き伴侶にも出会えた。

 夫のジェームズにはシュロから妻を迎える予定があったけれど、ついぞシュロから娘がやってくることはなかった。

 秘密裏に交際していた私たちは、シュロからの嵐を恐れていた。

 私にとってシュロからもたらされるものは恐怖だったが、サリはバロッキーの若い世代に良いものをもたらしてくれているようだ。


 それにしても、ジェームズに限らずバロッキーの男たちは恋愛が不得手なのだろう。

 ただ一人の人しか見えていないのに気がつかない。

 気がついた時には慌てふためくのだ。

 サリはヒースにとって運命なのだろうと思う。

 それは間違いない。


 うちには、あれだけ候補となる子たちがいるのに、不思議なことにヒースのことを薦めるばかりで、誰もサリを欲しない。

 竜同士で好みが被らないのは竜ならではの事なのだろう。

 分からないことがあるのは寂しいけれど、仕方のないことだ。

 自分で産んだ息子のことだって、わからない事が多いのだもの。


 ミスティが水浸しでサリと取っ組み合いしていた時には驚いたけれど、最近アトリエで隠れるようにして描いている絵を見れば、ミスティにも何か起きているのだとわかる。

 なんでも描けるからと、一度に何枚も同時に描いていた子が、今はあの大きな竜の絵以外描いてる様子がない。


 子どもたちが小さかった頃を懐かしく思い出す。

 うちの子で、竜の血が流れている事に涙した事がない子どもはいない。

 ハウザーはエミリアに嫌われたと泣き、ルミレスは母が恋しいと泣いた。

 アルノは時々うちに来ては自分の血が怖いと泣いていた。

 ミスティはバロッキーの描いた絵だと避けられたと泣き、ラルゴは学校で勉強がしたいと泣いた。


 ヒースはどうだっただろう。

 母親に捨てられたヒースは、泣かない子だった。

 不思議とヒースの存在が、泣いていた子たちがバロッキーとしての誇りを獲得する力になっていった。

 ヒースが自分を誇れるように、それぞれが竜の血を味方にする術を覚えていった。

 あの頃と今はなんだかよく似ている。

 今では思い出す泣き顔はヒースの顔ばかり。

 私の感じられないところで、この子たちは繋がっているのね。


「ヒース、何にも考えずに契約書に署名するなんて素人もいいところよ」


 せっかく婚約が決まったというのに二人とも浮かない表情だ。

 ヒースは心なしか青ざめている。


「す、すまない。ミーゼル家がまた来たらと思ったら……。サリ、俺は、なんて事を……すぐに破棄の書類を……」

「あのね、ヒース、これは簡単には覆せない契約書なのよ。そして、商人にとって契約書は絶対なの。私が大昔の契約書を盾にひどい取引を持ち込んだのを見ていたでしょ! 私を助けるつもりだったかもしれないけど、コレ本当に結婚しちゃうやつよ、私とよ! どうするの?」


 この子たちどうしたのかしら?

 婚約が決まったって聞いたけど、喜んでいる様子もないし、喧嘩? 痴話喧嘩?

 サリも自分の事を棚から下ろしてくるような事を言っている。

 サリってば、凄くしっかりしているようで、割と抜けてるのよね。

 トムズさんを見ると、片眉をあげて、してやったりといった表情だ。

 まったく、この人は人が悪いったらない。


「サリ、君にひとつ聞きたい事がある」


 優しげにトムズさんが尋ねる。

 髭を触っている時は何か良からぬ事を言い出す時だ。


「サリ、君はどうしてミーゼル家に行こうとしていたのかね。意地悪そうなあの息子に君が惹かれたとは思えないし。君にはバロッキーの血に恐怖する様子は見られなかったようだけどね。何か不都合でもあったのかね。脅されたとか? それとも、何かに利を感じたのかい?」


 客室にわらわらと人が増えてきた。

 男ばかりで暑苦しいったらない。

 ミスティは泣きはらした顔をしている。

 あら、ジェームズも入ってきたわ。

 暫く王宮に呼ばれていたからか、ひどく疲れた顔をしている。

 こんな団結力のあるバロッキーの男たち、初めて。


「それは、ここで明らかにしなくてはならない事でしょうか?」


 サリは居心地が悪そうに下を向いてスカートの端を握りしめている。


「そうだねぇ、ヒースのうっかりとは言え、君は今やヒースの婚約者だ。ミーゼル家に行こうとしていた事について釈明しておいたほうが、 その後の面倒事を省けると思うが、どうかね?」


 サリは困ったように黙っている。


「バロッキーの血に怯えてミーゼル家を望んだのだと、誰かが言い出さないとも限らないよ。見てごらん、私の弟のジェームズも帰ってきた。今の様子だけ見ていたら、サリはヒースの事が気に入らないけど、うっかりヒースが署名してしまったから渋々婚約をしているのだと思うだろうねぇ」


 私が頻繁に手紙をだしていたから、そんな誤解はしないとは思うけど。

 どうしてミーゼル家に行くなんて言い出したのかは私も知りたい。


「そんなっ……私は……」


 でも、女の子を虐めるのは感心しないわ。


「君の事を聞かせておくれ」


 トムズさんは優しく、しかし有無を言わさない語調で問い質す。

 サリも中々やるけど、海千山千のトムズさんの前では年相応ね。

 サリは、言いづらそうに語り出す。


「ええと、ミーゼル家の親子は私にとって、たいへん都合が良かったのです」

「ほう、都合がいいとは?」

「あ、そうだ! たいへんだわ、私の部屋に誰も入らないようにしてください! 触ったら危険なのでっ!」


 何かを思い出して焦って周りを見回す。

 皆が応接室に集まっているのを確認すると、

「誰も触る人は……いないようですね」と肩を落とす。

 そうね、みんなここに居るものねぇ。


「それは、どういうことかね?」


 答えづらそうに、サリがヒースを見る。

 ヒースはため息をつき、サリが言い淀んでいる内容を告げる。


「俺がサリの鞄を落としてしまって、その時、毒薬の瓶を割ってしまったんだ」


 応接室の空気が低くどよめく。


「毒薬?」

「何でそんなものを……」


 サリは深く息を吐き、観念したように話しだした。


「ミーゼル家に行けば、私が自分の人生を終わらせる大義名分が得られると思ったので……」

「どういう事だい?」

「あの、私、借金を返し終わったら、私たちに借金を押し付けた叔母たちに復讐して、死ぬつもりでした」


 なんて事。


 ここにいる誰がサリがそんな事を考えていたと思うだろう。


「叔母のせいで酷い目にあった私、という嫌がらせ材料を持参して、叔母に苦い思いをさせてやろうと思っていたのです。でも、ここには私が思い描く嫌がらせに見合う人が全然居なくて」


 ミスティが震えている。


「それでミーゼル家か……」


 トムズさんも、サリの予定は想定外だったようで苦い顔をしている。


「………はい」

「ヒースが署名してしまったので、計画が頓挫したところです」


 失敗したと言いながらも、サリは苦いだけではない笑を浮かべる。


 よかった。

 ヒースがおっちょこちょいで本当によかったわ!!


「それでは、ヒースが嫌だというわけではないんだね」


 トムズさんが念を押す。

 つまりは、それが聞きたいのよね、トムズさんも。


「皆さん本当にくどいんですけど、私、ヒースは好みど真ん中ですので。だからこそ、最初にお断りしたんじゃないですか。計画の為には絶対避けなきゃならない物件だったんですけど……本当に、困るなぁ」


 真顔で言い切るサリに対して、ヒースは耳を赤くして聞いている。

 ヒースはサリに何もいってないのだろうか。

 アルノの話だとだいぶ大胆な事をやってのけたみたいだけど。

 全然、伝わってないんじゃない?


「ヒースといて、バロッキーがどうのとか、竜がどうのというくらいで、死ぬほど不幸になるとは毛ほども考えられません」


 サリは薄く口の端を引きあげて、透明な微笑みを浮かべる。

 ……ヒース、照れてないでしっかりして!

 この感じ、ヒースがサリの事が大好きだってわかってもらえてないわよ!!

 ほら、トムズさんだってなんか変な顔してるじゃない。


 これは、この子たち、時間がかかるかもしれないわねぇ。


 トムズさんは、ハラハラして二人を見守る私たちにエヘンと咳払いして、次の議題に移った。


「サリ、君は君自身が本家に嫁ぐ事がうちの利益にならないと思っているのだろ?」

「……そうですね」

「どうして?」

「私では政略結婚にしたって旨味がありません。実家と切れている娘に竜の血を預けるなんて次世代に何も残せませんよ。娼婦に頼んで産んでもらっても同じことです。同じ問題が積み重なるだけです」


 本当にそうだ。

 バロッキーは、ヒースのように母から遠ざけられる子どもが生まれるのをどうにかすべきだ。


「そこで、私、本気で花嫁の斡旋業を立ち上げようかと思っていて。うちみたいな借金でいっぱいいっぱいの商家より、外国の有力な商家から花嫁を募って流通を開いたらバロッキーの人達はもっと外貨を得られるだろうし、国外にだって出られるはず。偏見に晒されること無く普通に生活できるんじゃないかと。幸い、バロッキーの男性は見た目も性格も資産的にも女性から求められる要素満載です。結婚する気のないアルノだって、沢山見合う女性がいればいつかその気になるかもしれません」

「本気だったのか」と後ろでアルノが呟いた。

「聡いね、サリは」

「そんな事ありません」


 喋りすぎたと思ったのか、口をへの字に結んで頭を振る。


「しかし、君はその間ミーゼル家でどうするつもりだったんだい?」

「斡旋業の傍ら、虐められながら、ミーゼル家を解体するくらいの事は企んでましたけど……」

「まぁ!」


 私はついに感嘆の声をあげてしまう。


「たいしたものだよ。間違いなく君は君ひとりだってバロッキーに利をもたらす人物だよ。何も卑下する必要はない」


 トムズさんは愉快そうに髭を揺らす。


「でも、君には見えないものもある」


 そう、それは私にも見えないものだ。


「私たちには全員見えている物がわからないなんて、竜の血が見えないっていうのは不便なものだね」


 ええ、本当に。

 ヒースのことはみんなわかっているのに、肝心のサリに今の状態がわからないなんて。

 本当にもどかしいわ。


「つまり、君とヒースはもう少し良く知り合った方が良さそうだね、ということさ。君も十六になったばかりですぐに結婚という気にはならないだろう。うちもハウザーのが控えているしね」


 ハウザーがいなくてよかったわ。ミスティ以上に大騒ぎしたわね。


「サリ、君はもうバロッキーの一員だよ。改めて、宜しく。娘ができたようでうれしいよ」


 私もほっと胸をなでおろした。

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