その方は辞退させて頂けませんでしょうか
味も香りも申し分ないお茶だ。
これが毎日飲めるなら、余生の慰めになるな、と鼻腔に残った
しばらくして、ウィフと名乗った使用人が、当主が参りましたと告げた。
髭を生やした紳士が杖をつき、若い男に支えられながら客間に入ってくる。
大事な場面だ。ここで印象を悪くしては元も子もなくなる。
出迎えるため裾を直して立ち上がる。
「あなたが、シュロからいらっしゃった娘さんですね?」
当主のトムズは互いに自己紹介が済むと、黒い革張りの肘掛椅子にゆっくりと腰掛けた。
柔和な笑顔を浮かべ、品よく蓄えられた髭をなでつけている。
流石に大きな商家を取り仕切るだけあって、表情は柔らかでも、感情は見えない。
私はそそくさと腰を折り、謝罪の姿勢をとった。
「まずは、祖父の代で約束を
「そう畏まらずに、頭をあげてください。契約は反故になってはおりません。結婚の意志のある子女がおれば、というのが、書面にあります。準備金の事を差しているのなら、なおのこと。蒔いた種の収穫が少し遅れただけにすぎません。借用書通りの返済も続いておりますし、詫びられることなど何もありますまい。しかし……」
語尾を濁され不安で胸が絞られる。
契約書通りにならなければ、全てが水の泡だ。
「何か問題があるのでしょうか? 私がこちらに嫁ぐことで、残りの返済分をご都合いただけるという契約に障りますか?」
「いえ、そちらは一切問題ありません。あなたがこちらに来ていただけるという確約があれば、すぐにでも借用書を破棄致しましょう」
「では、なにが?」
「――この契約書が作られてから、かなりの年数が経ちました。人が生まれ、成人するほどの年月が……」
何かに思いを馳せるような眩しいものを見る目をして、トムズは
「あなたに嫁いでいただくつもりであった者は、今や別の者との家庭がある身。あなたも誓約書どおりと思い、覚悟なさって来ていただいたのでしょうが、なんともはや」
「そ、それでは、私は……?」
結婚する相手もいないのに、借金を帳消しに出来るとは思えない。
それでも帰れと言われないところを見ると、体で返せとくるか、身売りされるか、臓器を寄越せ……とかかもしれない。
いずれの扱いでも借金さえ消えれば構わないのだが。
「我が家は慢性的に嫁さがしに不自由しておりまして、正直、あなたをこのまま返すのは惜しいと思っております」
ああ、別の夫をあてがわれるのか。
それならいっそ、立派におば達の枕元に立てるようなキツイ方を見繕ってください。
しかし、トムズの次の言葉に耳を疑った。
「このままここに残って、屋敷におります成人した者の中からどなたか一人、気に入った者に嫁いでくださるというお約束で、残額をご用立てするということにしていただけないでしょうか」
「――!?」
いやいや、ちょっと待て。
しばらく頭を使う事を休んでいた私の脳に、猛烈に血が送り込まれた。
今、何か、すごく困ったこと言われた。
つまり、私に一番好みの男を選んで結婚をしろということか?
(こ、困る!)
借金的には困らないけど、流石にそれでは筋が通らない。
私に利があり過ぎる。
どう考えても借金の金額が大きすぎるのだ。
私を売って、父をどこかの国の奴隷に売って、家を売って、土地を売って、商売を売って、妹たちを売って、それでもちっとも足りない金額の用立てをしてもらえるほどの契約だ。
さらに叔母が使い込んだ結婚の準備金だって踏み倒したままだ。
普通に考えて、良い結婚をさせてもらっていい額ではない。
何も知らない娘の振りをして、それならばと提案を受けるのは容易いが、それがいかに不義理で恥知らずな行いなのか私にはわかる。
自分が数字の数えられない人間でなかったことを神に感謝した。
この提案を甘んじて受ければ、カヤロナから穀物を買った祖父のなけなしの良心すら汚すことになっただろう。
恥知らずにも、そんなことになれば、おば達に一泡吹かせてこの世からおさらば計画はさらに酷く陳腐なものになる。
喜んで迎えられ、愛し愛され、夫を選んだような姪が恨み言を言っても愚かなだけだ。
私を一番粗雑に扱ってくれる下衆でなければ、枕元に恨めしそうに立てたものではない。
幸せな結婚ができて良かったじゃない、私が逃げてあげたお陰ね、なんて言い返されたら目も当てられない。
「……大変有難いお言葉ですが、私はそちらに借金を都合していただく身。そのようにして頂いては誓約書よりこちらに利が多く出ます」
恐縮して続ける。
「あまり契約書の筋から離れるのは如何なものかと……できれば、そちらにとって私が幾らかでも利となるような――つまり、一番私が嫁いで都合の良いような、その、結婚の相手を選ぶのが困難な方をお選び頂けませんでしょうか」
売れ残りの、持て余されたどうしようもない人をお願いします、ってことだ。
ここの家にだって一人ぐらい、いるのではないだろうか。
嫁の来手のないようなダメな人が。
「本当にそれでよろしいのですか? こちらとしてはあなたに契約書など関係なく家族として快適に生活を送って欲しいと願っているのですが」
何を思うのか、優しく諭すように話すトムズの瞳は、この国特有なのか、緑色の虹彩に血を溶いたような色が混ざっている。
若い頃はさぞモテたにたがいない。
美しい瞳の色は妖艶にも見える。
先の戦争で鬼や悪魔の様な言われ方をしたのも、その瞳のせいかもしれない。
とにかく、私限定で悪鬼の所業をはたらく酷い夫を宜しくお願いします。
枯れた私の最期にふさわしい感じで。
「はい。勿体ないお言葉ですが、契約書通りによろしくお願い致します。もしここにお世話が必要な方がいらっしゃらないなら、それ相応の代金に見合うような場所に私をお売りいただいても構いません。――お代には到底見合わないでしょうが、私は契約書通り借金が返済できるのであればどのような処遇も厭いませんので」
トムズは難しい顔をして、髭を捻った。
少しの沈黙のあと、頬を緩ませてトムズはこう告げた。
「それでは……そこに居ります、ヒースなど如何でしょう?」
それに答えたのは、トムズを椅子に座らせてからは部屋の隅で何やら事務仕事のようなことをしていた男だ。
「――は? 俺ですか?」
鳩が豆鉄砲くらったような顔って、こういう顔のことをいうのかな。
名指しされた男は手を止めてこちらに顔だけを向けた。
改めて、男をまじまじと見る。
先ほど外から招き入れられた時には見なかった顔だ。
見開いた
赤みというか、すごく深い赤色が虹彩に散りばめられ瞳孔を彩っている。
――不思議な色だな。
灰褐色の髪は地味に後ろに撫で付けられているが、柔らかそうに緩く波打っている。
しゃんと伸びた背、力仕事をしなければ付かないであろう無駄のない筋肉、整った顔に浮かんだ素直な表情がつくる雰囲気だって、ちっとも悪い人に見えない。
あ、持っていた書類を盛大に落とした。
手袋して書類の整理なんて非効率的なことを……。
落とした書類には目もくれず、こちらを見ている。
(目も口も開けっ放しよ。閉じて、閉じて)
すると、その見開いた目と目が合った。
(わぁ、どうしよう)
そんな綺麗な顔して、頬を染めないで欲しい。
いたたまれなくなって、慌てて目をそらし、下を向く。
――だ、だめだ。
いくら色恋沙汰に関係ない生活をしてきた私にだって、好みくらいある。
このひとの容姿は、私の好みのど真ん中を行く。
(理想が服を着てる)
これで酷い性格だったとしても、とても死にたいほど不幸になれるとはおもえない。
借金はどうにかしたいが、私はここで幸せになってはならないのだ。
それに、私だけが甘い蜜を吸って、その後、彼を私の非生産的な復讐の巻き添えにするなんて、申し訳なさすぎる。
当主はいったい何を考えているのだろう。
正気だとは思えない。
いきなり好条件な人を推してこないで欲しい!
「あの……そ、その方だけは……じ、辞退させて頂けませんでしょうか」
私はどうにかこうにかその勿体ない申し出をお断りした。
こういう時に、はったりは効く方だが、さすがに動揺を隠せない。
「あの、ですからね、先程も申し上げた通り、この方と添わせて頂いても、私が契約分お役に立てるとは思えません。私などは、どなたか、ご当主もお困りの方と役目を果たすのが妥当かと」
頭を下げなから早口で謝罪する。
「ええっ??」
さっきよりも驚いた声が響く。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
悪気はないんです。
私はもっと酷そうな人と連れ添わないと、契約を果たせないのです。
ほっほっほっと、トムズは笑う。
「そうですか。では、時間をおきまして、こちらでも考えてみましょう。夕食の食卓で家人を紹介いたしますから、どうかご懇意に」
思案顔で笑い続けるトムズはそれ以上何も問いただすこともなく、ヒースに部屋の手配を指示した。
そして、ヒースを近くに呼び寄せると私に紹介しはじめた。
「改めて、こちらはヒース・バロッキーです。今の季節は私の秘書のような仕事をしてもらっています」
ヒースは複雑そうな顔で軽く会釈をする。
「君の身の振り方が決まるまではヒースに君の世話をさせるので、気兼ねなく接してやってもらえないかね」
(今の今で、たいそう気まずいんですけど)
それは私もヒースも同じ感想に違いない。
「よろしくお願い致します」
「よ、よろしく」
私たちは二人とも少し青ざめて会釈を交わした。
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