契約書


 私は消極的な自殺願望を抱えて、終わりに続く馬車に乗り込んだ。

 誰にも言わずに家を出たので、この風景だけが私を見送ってくれている。

 広葉樹の林はもうすぐ見納めだ。



 私は私で粛々しゅくしゅくと借金と戦っていたのだ。

 いつかどうにかするためにと、目一杯あがいていた。

 一刻も休む気はなかったし、投げ出すことも考えたことがない。一秒でも長く生きて、稼がねばならないと思っていたから。

 妹たちを守るために。


 それなのに、私の足掻きを嘲笑うかのように、借金を肩代わりしてやると、豪商ごうしょうのハンガン家が父に打診してきた。孫息子のマルスに私を宛てがうためだ。

 父は、これで借金の問題が解決すると、借金の返済に充てる金策に時間を割かなくなった。


 父は数字に弱いところがあった。簡単に肩代わりしてやると言えるような額ではないのに、おかしいと気が付かない。

 マルスの絡みつくような視線が私を通り越して、妹たちへ向かっているのがわかり、戦慄せんりつした。

 私だけが目的ならば、マルスの嗜虐しぎゃくと狂気に満ちた遊びに、この身がどう使われようがかまわないが、妹たちに及ぶならどうにかしなければならない。

 マルスに嫁いで、幸せな結婚の振りを一生するのは容易いが、親族になろうものなら、奴は毒牙を妹達にも伸ばすだろう。この結婚は、家も土地も、うちの商売相手も、妹たちも全て手に入れる企みだ。


 父は出来る限りの事をしているが、先のことまで見る力は乏しい。私の再三の忠言も虚しく、豪商との繋がりを強めている。借金は自分でどうにかする他にない。

 高く売れるなら血肉すら惜しまないのに、私ひとりが刻まれたところで、なんの足しにもならないし。


 私はもう、ずっと前から枯れていた。

 

 何をどうしても時間も金も足りないのだ。

 せめて歳の離れた妹達には苦労させたくないと、朝から晩まで働いて、内職で夜なべをして、書類の整理をするふりをして無駄な出費を洗い出したり、父が放ったらかしにしている土地を転がして、それでも足りない。


 ――本当に、全然足りないのだ。

 

 絶望して圧倒的な現実に身を任せてしまえば楽だったに違いない。

 小娘一人が努力したところで何も変わらないと、泣いて誰かに縋ればよかったのかもしれない。


 母の死後、何かと世話を焼いてくれていた大叔母が病気がちになり疎遠になってから、色々なことが私をさいなみ始めた。

 借金を減らし、妹たちの普通の生活を維持するために私は身を粉にして働いた。

 自室では内職もしたし、形だけ行っていた学校でもやっぱり内職した。

 忙しすぎて友人なんか出来なかったし、もちろん恋愛なんて絵に描いた餅だ。

 ただ、私が一生、こんな生活を送ったとしても、返済の目処はつかないのは分かっていた。だから、父に早めに隠居してもらって、私が全権を持ち別の事業を起こすことを考えていた。

 幸い、私には一日中無理をして働ける若さがある。

 きっとどこかに打てる手はまだあるはずだと、毎日自分に言い聞かせて、どうにか過ごしてきたのだ。

 それなのに、成人してすぐに豪商に嫁がされるとなると、何かを画策する時間すら無いではないか。


 救いだったのは、双子の妹たちが、貧しさにも負けずに愛らしく育っている事だ。

 そんな妹達ももうすぐ学校に行くようになる。

 今までは家にだけいたからどうにかなったが、学校にやるとなると、何かと現実が見えてくる。

 妹たちは理由があって普通の学校には通えない。妹たちを安全に預けられる学校が必要だった。その為に我が家の出資で運営している学校を潰すわけにはいかないのだ。 

 私が嫁いでしまったら、学校はどうなってしまうのだろうか。豪商にすべてを取り上げられるのは目に見えている。


 妹たちを無学にするのは危険だ。

 この国の商家では、学のない娘は羊のように扱われる。

 商家同士の友好のしるしとして、またはよりよい取引の為に、はたまた互いを裏切らない為の人質として、盛んに娘を嫁がせるという方法をとっている。

 私のように身を売るような結婚を迫られることも珍しくない。

 学術は必要だ。

 学があれば自分で仕事を持てる。

 妹たちの希望を潰すことはできない。

 

 ――そんな時に見つけたのがカヤロナの商家との誓約書だった。


 誓約書の存在を知った時、私は持っていた書類で父の頭を殴りつけた。少しくらいの暴力は許して欲しい。

 その契約書は私が今まで見た中で、最高に破格の契約書だった。

 娘を一人嫁がせるだけで消える借金。

 肩代わりや、保留ではなく、借金が消え去るのだ。それなのに、どれ程の価値がある物なのか、父には見えぬらしい。

 マルスに嫁ぐ方がいいと泣くのだ。

 マルスに身を任せれば、大切なものがすべてがなくなるのだと説明しても、父にはピンとこない。親切を装う商人ほど恐ろしいものはないのに。


 契約書を隅から隅まで、覚えるほどに読み込む。

 本来は、叔母のどちらかが嫁ぐことで借金は消える契約だったらしい。

 結婚してその後、駆け落ちの如く消息を絶った上の叔母。

 下の叔母は、金を使い果たした挙句、嵐の夜に家出をしたままどこにいるのかも分からないという。

 気の弱い父と、体の弱い母にすべて押し付けて、準備金まで使い切って、さらにこの家の金も使いこんで逃げたのだ。

 借金だけでなく、店を立て直すのにしばらくかかり、母は病を患った。

 飢饉を救った祖父に文句をいうつもりは無いが、無責任に家を出た叔母たちの事は苦々しく思う。


 可愛い双子の妹たちは、まだ誓約書の存在を知らない。私も知らせるつもりはない。

 父はべそべそと泣いたが、私は震えるほどに神に感謝した。

 

 ――全てが解決する。

 

 借金が消えたら、私の憂いはほどんど消える。

 商売の才はないけれど、そこそこに真面目な父は、借金さえ無ければ平均以上の生活を妹たちにさせられる稼ぎがあるだろう。

 学校経営にまわす資金をどこから持ってくるかなど、考えなくて済む。

 王が代わってからは、明らかな不作の年には国から補助金が出るようになったので、凶作に怯えることもない。

 

 そう、借金さえなければ。

 

 父に、妹たちを確実に学校に行かせ、悪い輩の手の届かない所で仕事をさせる約束さえ取り付ければ、私の役目は終わる。

 これは自己犠牲でも何でもない。自分の心の自由のために借金をおわらせたいのだ。

 


 父は頑なだった。

 父に承諾の手紙を書くように催促したが、もう少し頑張らせてくれと譲らない。

 もう充分頑張っているし、それが劇的に変わらないことを知らないはずもないだろうに。

 私としては異国に嫁に行った姉という肩書きのほうが、妹たちの目に触れない分、死んだ言い訳をしやすい。

 妹たちには「異国で流行り病にかかって、短いけれど幸せな結婚生活を終えた」と伝わればいい。

 埒があかないので、置き手紙を父と妹たちに遺し、誓約書を携え、夜明けとともに国境に向かう馬車に乗ったのは、もう二日前のこと。

 一刻も早く契約を終えなければならない。私の動きを豪商が知り、動き始める前に。



*****



 国境付近は、針葉樹が多くなる。

 濃い影からちらほらとこぼれる木漏れ日を見ながら、死ぬにはいい日だ、と独りごちる。

 どうか、来世は裕福な家の飼い猫として生まれますように。

 一日中寝て甘えてご飯たっぷり食べて、ひなたぼっことかしたいな。

 

 夜逃げのように家を出たなんて、私も行動だけ見たら叔母達とかわらないな、と苦笑する。

 すべて放り出して出ていった叔母たちを想った。

 

 あの額の借金の対価としての結婚だ。私はよほど酷い扱いを受けるのだろう。 

 私の命はもはや自分の物ではない。命が尽きるまで苦しみぬくのだろうが、それはそれで構わない。

 むしろ、もう働かなくてもいいことにほっとしたような、今までの疲労感をすべて死が包み込んでくれるのだという満足感を感じた。

 自分で自分の命を終わらせる自由まである。

 馬車の中で漫然まんぜんと自分の死を受け入れる。そうすると、ふと笑ってしまうような思い付きが降ってきた。


 (私の命が尽きる時に、叔母の目の前で首を吊ってやるのはどうかしら)

 

 それは素晴らしい思い付きのように思えた。 

 色々な事情があったのはわかる。

 叔母達だって自分の身可愛さに家を飛び出たのだ。

 しかし、残された母は、叔母が残した負債の為に、さほど強くなかった体を酷使した。

 私は死んで本望だが、その前に少しばかりの意地悪を叔母達にしても許されるのではないだろうか。

 せっかく死ぬのだから、そのことを有効活用しないのは惜しい。

 根っからの貧乏性が、自分の死すら何かに使えないかと考えさせた。

 恨み言を言いながら、叔母たちの前で首を吊るくらい、いいではないか。

 

(そうだ、しよう。そうしよう)


 親子ほども歳の違う相手に手篭めにされ、売女扱いされ、悲劇か、怪談の原作になりそうな悲惨な目にあってから、ボロボロの姿で叔母の所を訪ねてやろう。

 早世した母の無念と不安を、少しでも分けてやりたい。

 

 馬鹿馬鹿しい思いつきなのはわかっているけれど、叔母たちがしばらく食事が喉を通らないような苦い気持ちになればいい。

 それで私はなんの未練もない。



***********


 

 この大陸にはいくつかの国が存在する。

 南にダルターンと北にカヤロナに挟まれた我が国シュロは、何度も国境が引き直された過去がある。

 元々一つの国であったが、侵略、統合、合併、その当時の政局によって国は形を変え続けてきた。

 シュロ国が鉱物資源の豊富なカヤロナ国を欲し、進軍したのは今は昔。

 しばらくは穏やかな関係が続いているが、戦争に兵として出陣した世代は蛇蝎だかつのごとくカヤロナを嫌う。

 こちらから攻め入ったのに、嫌悪するなんて――とも思うが、手酷く反撃にあった事に尾ひれがついて魔物の様な評判となっている。


 国境を越えるのは意外な程に簡単だった。

 結婚の誓約書のおかげで国境を守る兵士に憐憫れんびんに満ちた表情を向けられたが、難なくカヤロナへの入国を許可された。

 さながら私は魔物に嫁ぐ生贄のように見えるのだろう。

 まぁ、状況はそんなものだが、私の心は清々しさが占めている。



 国境からは針葉樹林の森が増えてくる。

 深い緑の清廉な空気を吸い込み、何度目かの乗り継ぎ馬車の駅で待つ。

 この先に王都がある。

 

 王都から少し離れた郊外の一角に商家の屋敷があるという。

 誰に聞いても、行けばすぐわかると言う。

 そして皆一様に眉をひそめ、あそこに行くのかい? と聞き返す。


 父の代くらいの年齢の人は戦争の記憶からカヤロナ人を嫌がる人もいたが、それでもこんなにあからさまな嫌悪を見ることは稀だった。

 カヤロナ人同士でも、そんなに嫌悪される商売人なのだろうか。

 案外、私の立てた死への計画はすんなりと実行できるのかもしれない。そう思うと、長旅で疲れた足取りは不思議と軽くなるのだった。

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