【十六年前の嵐の夜】

 満足に息ができない。重苦しい熱気が包む。

 私を取り囲む不透明な紫色の霧の中から声がする。


『――サリ、もういいのよ。もう休んで』


 母の声が聞こえる。今日はだいぶ調子がよさそうだ。

 返事をしようとしても声が出ない。


『もう、全てから逃げ出していいのよ。ね、お終いにしましょう』

 

 私がそんなことするはずがないのに、そんな甘やかすようなことを言ってくれる。

 母の手を握っているはずなのに、感覚がない。


『さようなら、サリ』


 そうだった、母がいるはずがない。母が亡くなってだいぶ経つのにどうしたというのだろう。

 自分の足も見えない霧の中を走っている。暑くて重い。


(私は生きていていいのだろうか? そうだ、私の毒薬は割れてしまって……ああ、これは夢なのね。声が外からも内からも聞こえてくるわ)


『縄でくくれば楽になるよ。楽におなり』


 おかしな声はわんわんと響く。耳を塞ぎたいのに手も上がらない。


『かあさま、かあさま、かあさまの血が止まらないの』


 嫌だわ、私の声かしら。私、母様の前であんなふうに泣いたりしてない。


(もう、この夢から覚めたいのに――誰か助けて)


 誰かが揺すって起こしてくれたらいいのに、ええと、誰かそんな人いたかしら。


『お前はまだ生きているの?』


 これは誰の声だろう、私を責めている。

 わかっている、私は長く生きていてはいけないのだと。


(誰か……)

 

 さすがに怖くて誰かを呼んだ。実際は、舌が動かなくて力だけが入る。

 誰かの名を呼んでいるのに、いくら声を絞り出しても、声が出ないのだ。


「サリ、どうした?」


 がくがくと揺さぶられるのを感じる。


(ああ、だれだっけ。誰かが私を呼んでいる……)


「サリ、大丈夫か?」


 目を開ければ、寝室だった。ヒースが私を覗き込んでいた。

 涙で霞んだ視界でも、ヒースの宝石のような目が道しるべのように瞬いているのがわかる。

 


「そうだ、私は……まだ死んでいないの?」




**************




――十六年前。嵐の夜。




(姉が嫁いだ……もう一時の猶予ゆうよもない)


 十六歳になったばかりのアニー・トーウェンは焦っていた。

 彼女はその夜、かねてより計画していたとおり、家を出ることにした。

 外は嵐で若い娘の足跡など残りはしまい。


 「出ていってやる、こんな家」


 大きな独り言も、雨音にかき消された。



 彼女の生家は作物を売る商家だ。穀物を中心に、季節ごとに果物や野菜を流通させている。流行りすたりがない分、通年で儲けを出すが、天候によっては大損害となる。


 彼女の幼い頃、長雨が続き穀物が不作の年があった。

 不作の年は隣国から穀物を買いつけ流通させるのだが、家を継いだばかりだった彼女の父トビー・トーウェンは買い付けに出遅れた。

 トーウェン家以外の商家は、比較的交流のある南国のダルターン国から買い付けを行い、かなりの高値で売りさばき利益を出していた。

 国をまたいで、さらに普段交流のない商家から買うとなると、手数料や税で手間分高くつくから、仕方がない。仕方が無いが、買えない者達は飢える。

 

 トーウェン商会は仕入れに出遅れたことで、飢えた者達からの激しい要求に呑まれることとなった。

 シュロ国にとっては敵国とも呼べるカヤロナ国を頼り、多額の借金までこさえて大量に穀物を仕入れ、いつもの値段をつけ貧しい者に施した。

 トビーは善良であったが、商売人としては愚鈍であった。

 飢饉ききんはしばらく続き、トビーが仕入れた品が飢えて死ぬ寸前だった人々を救ったが、トーウェン家はそれまでのようには贅沢のできない生活に甘んじなければならなくなった。

 家族全員が身を売ろうが、土地を売ろうが、この代でカヤロナで作った借金の返済は叶わない。

 トビーが払った犠牲は金銭のみではなかった。カヤロナの商家との間に、娘を嫁に差し出すという血判付きの誓約書を作って来ていたのだ。


 アニー・トーウェンは精神的に脆弱ぜいじゃくな娘だった。

 立てた計画を最後までやり通したためしがない。いつも穏やかそうにしているが、それは卑屈さ故であった。姉と比べられて落ち込んで、だからと言って向上心があるわけでもない。

 容姿だけは優れていたから、いつか父が良い縁談を持ち込んでくるだろうと期待していた。

 

 そんなアニーでも誓約書の存在を知った時には姉を失う心痛で眠れなかった。

 誓約書には、娘が嫁ぐことで借金を完済とする、破格の内容が記されていたのだ。

 商家では家の繋がりを強めるための結婚が多く、年の離れた相手に嫁いだり、めかけとして養われたりすることは珍しくない。

 アニーも父の持ってくる縁談で構わないと思っていた。しかし、アニーにとってカヤロナ国に嫁ぐのは納得のいくことではない。カヤロナ国とは何度も戦争が起きている敵国であるし、恐ろしい魔物がいるという噂まで出回っていた。

 よくわからない怖ろしいものに怯える傾向のあるアニーにとっては、カヤロナに嫁ぐのは、魔界に嫁ぐのと同義だった。

 アニーは姉を憐れみはしたが、まさか自分がその契約を担うなんて一片も考えつかなかったのだ。

 

 姉を憐れんでいられたのは、姉が結婚を決めてくるまでだった。

 姉が婚約者だと連れてきた男は、アニーに言い寄ってきていた男だった。アニーが交際を考えていた男を、姉は婚約者として紹介してきたのだ。

 さらに、悪びれる様子もなく、子供が産まれることをアニーに報告する二人の朗らかな顔を見て、姉に出し抜かれたのだとやっと理解した。


 姉はアニーほど美しくはないが、謀略に長けていた。

 その頃を境にアニーが密かに恋心を抱いていた商家の三男がひどく侮蔑ぶべつを込めた目でアニーを見るようになり、初恋だった従兄弟は、アニーと急に目を合わせなくなった。

 仲の良かった幼馴染が青い顔をしてもう会わないと言ってきた頃には、反駁はんばくする気もなく、もう仕方がないな、くらいにしか思えなかった。


 (この家を出よう)


 そう思うと、未来が明るくなったように感じた。

 

 アニーがカヤロナ国へ嫁ぐことが伝達されると、カヤロナからは準備金が送られてきた。

 驚くほどの額だった。

 娘が外国に嫁ぐ約束をしてきてしまったトビーはアニーに負い目がある。アニーにわれるまま準備金を全てアニーに渡してしまったことが事態を悪化させた。

 嫁入りのための準備金であったのに、アニーは昔に戻ったように、いやそれ以上にじゃぶじゃぶと浪費した。使い切ったころには、なけなしのトーウェン家の金まで使いこんでいた。


(どうせここから逃げ出すのだ、少しぐらいその前に楽しい思いをしてもかまわないだろう)


 そう思えば、金を使ってしまった後の事は何も気にならなくなった。


 もともと、アニーはトーウェン家に身の置き所が無いと感じていた。

 兄が嫁を貰い、姪が生まれてからは、嫁と姪が忌々しくて仕方がなかった。 

 借金まみれの商家に嫁がせるにはふさわしい、みすぼらしい娘だと、アニーは兄の嫁のヘレネを奴隷のように思っていた。

 弱いものには強いアニーは、ヘレネにだけは女王のように尊大にふるまうことができた。

 祖父と兄は赤子の誕生を喜んでいたが、アニーにはヘレネの娘に何の愛着も感じられなかった。

 魔物のような目の色をしたヘレネから、魔物のような目をした娘が生まれたのを見て、自分がカヤロナの生贄にならずともいいのだと確信した。


 (神は、私にこの魔物の子を身代わりにせよと仰られたに違いない。私は、姉にはかられた被害者だ。父に似て愚鈍な兄は、家の責任をとる義務がある。何より、私のような明るい未来のある、年若い娘が青春を散らしていい理由がない)


 

 アニーは嵐の夜に家を捨てた。

 さらに大きくなった借金を残して。  

 逃げ出した時の気分は最高だった。

 それがずっと続くと思っていた。

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