椿と虹

緑夏 創

椿と虹

命とは何だろうと考えてみた。命、それはこの世に生きる全ての生命に平等に配当された唯一のものであるのだろうか、尊く尊重されるべきものなのだろうか、後世へ繋がれていくものなのだろうか。平等?いいや、違う。

命には順序がある。命には劣悪がある。命とは、人だけのものである。人が定めた概念である。命とは、人のエゴの象徴である。

命とは、踏み潰し踏み潰されるものである。命とは、互いに喰らい合い穢し合うものである。そして、命とは、儚く、いつか必ず消えてしまうものである。そんな当然なことを、私達は都合よく忘れて生きている。






朝日が閉め切っていたはずのカーテンの隙間から射し込み、湿った瞼を擦りながら目を微かに開けたが、起き上がろうにも視界が回って仕方が無く、時間が時間だが再び横たわることにした。

三日前、たった一人の友人が亡くなった。この世の終わりかと思った。己を構成するピース全てが無秩序に瓦解したかのように思えた。自分も後を追って死のうとさえ思った。

重く垂れ下がろうとする瞼を再度擦ると昨日はずっと延々と泣き続けたことを思い出した。記憶も曖昧になるほど心を乱して泣き続けていたのだったが、今になってはもう涙は一滴も溢れては来なかった。涙など枯れ果てたと自覚できる程の倦怠感が身体を襲っていた。

ただ大海のように広く深い虚無を以て天井を見つめる。これから自分はどうやって生きていくのか、そんな事を考える。私は彼女を、たった一人できた友人の事を忘れてのうのうと生きていくのだろうか。いや、そんな事は出来ないと、当然の結論はやはり早急に下された。だが、どうすればいい?私の生きる理由であった彼女がこの世にもう居ないこの事実、もう二度と私と話すことも無いという現実、やはり後を追うべきかもしれない、どこまでも鬱屈に沈み行く思考に身まで潰されそうだ。そんな私を容赦なく射す朝日も何だが褪せたように思え、温もりも感じない。それはカーテンに遮られているからだろうか、いや、もう生の意味が欠落してしまった私には温もりを受容する感覚など霧と散ってしまったのだろう。

「もう、いいじゃん」

そんな諦めを口にする。ああ、小鳥達のでたらめな歌も、家のすぐ前の道を走る車も、網戸越しに聞こえるそよ風と草のデュエットも、閉じ切った自室のドアを叩く母の声も、その全てがまるで現実じゃ無いような、そう、水の中でそれらの音を聞いているように思えて、ぐわんぐわんと頭が揺れるように感じ私は耳と目を塞いで、睡眠による暗黒へ逃げてしまおうと布団の中に潜った。もう耳鳴りしか聞こえない。赤黒い闇の底へ、自ら堕ちていく。






「またここに来て……。飽きないのねほんと」


「そうね、貴方と話しているときはイライラもしないし……」


河川敷の堤防の上でだらりと腰を下ろして、対岸のビルの群れを照らしながら沈みいく夕陽を二人で眺めていた。私の隣に腰を下しているのは私より一回りほど小柄で、私と同じ制服を着た少女。名前は「春日 椿」と言った。

私は夕陽から椿へと視線を移す。


「あんな燃える命のような夕陽に照らされても、表情一つ変えないのね。まぁいつものことだけど」


椿は無機質と形容したくなるような、感情も表情も表に出さない、欲もあるのかわからない、何を考えているかもわからない、そんな、凍りついたかのような人だった。いや、もう彼女を人と定義していいのかと考えてしまうとあやふやになってしまうのだが、少なからず情はあるみたいだから人間なのだろうと私は勝手にそう思っていた。


「綺麗だとは思った」


椿は淡々とそう吐き捨てる。


「ああそう。でもね、私達みたいな年頃の女子は大袈裟に『わぁぁぁ綺麗〜』って身振り使って言ったりするのよ?」


迫真の演技を披露するが、椿は眉一つ動かさず、深い虚無色の瞳を私に向けて、じっと私の顔を覗き込んで、


「そこまでする必要感じないよ」


と一蹴。


「同じ意見の人が居て助かる」


「そう」


私は視線を完全に沈みかけている夕陽へと向けなおした。夕陽の高さはもうビルよりも低くなり、次は人間が世界を照らす、夜がやってくる。


「そろそろ暗くなるよ、帰る?」


「帰らないよ。まだ」


「不良かな?」


「帰りたかったら帰ればいいと思うよ」


「そーしまーす」


私は足元に放っていたカバンを手に取って立ち上がる。世間一般的な普通の女、いや、人間ならもう少し付き合ったりするのだろうが、私はそんなものくだらないと思っている。それに、人間はもっと常に自分主体で生きればいいとさえ思っている。所詮、いつか淘汰される善意など自身を犠牲に振り撒く必要などあるのだろうか、自身を抑圧して他人に手を差し伸ばして何の得があると言うのだ。それが例えたった一人の友人にであろうと。おかしいと思うか。なに、お前だって。


私は別れも言わず彼女に背を向け歩き出す。空には星が輝き始めていた。太陽の名残ももう消え去ろうとしており、人が世を照らす夜がやってきていた。






暗黒には逃げられず、過去を掘り出して傷を抉るだけだった。夢、何てものは何年ぶりに見たのだろうか。これは悪夢なのか、どうなのかはわからないが、眠る前よりも身体が重く、頭は熱を持ったようになり、どうにも息苦しくなってしまうということは悪夢なのかも知れない。

そんなこんなで身体を起き上げる。時刻は九時。


「何で学校に行かなきゃいけないんだよ……」


愚痴を一人虚しく吐き散らしながらも寝間着を脱ぐのである。身体は汗で微かに濡れていたが、今の時点で当然遅刻であり、風呂に入る時間も皆無に等しかった。

――何で行きたくもないところに急いで行こうとしているのだろう。

部屋の隅に洗濯してから畳まず捨て置いていたしわくちゃの夏服を取りながらそんなことを思った。時間が無いというのに服を着ようとする手が止まり、思考に耽ってしまう。

行く意義も感じない場所にわざわざ体を張って出向く必要などあるのだろうか。それはとてつもないほど愚の骨頂では無いだろうか。もう必要の無いものではないか。

だってそうだろう。もうあの教室には椿は居ないのだ。椿は三日前に死んだのだ。きっと椿の席にはそれらしい白い花の挿された花瓶が、誰かが昔に勝手に始めて今まで続く風習に則って置いてあるのだ。吐き気がする。

私は髪も整えず鞄を持って部屋を出た。





「何てことをしたんだ!!」


静寂に包まれた廊下に怒声が鋭く響き渡る。担任によって生徒指導室に連れ込まれた私は、ソファーがあるのに座わらされることもなく、担任である目の前の短髪の男が声を張り上げる度に飛ぶ唾を髪に浴びていた。


「もう一度言うぞ!?何てことをしたんだ!!」


「……それ、何回目?」


「質問に答えろ!!」


はぁと溜息を吐き私は頭をかりかりと掻き毟るが、ふと、人はなぜストレスを感じると無意識のうちに頭を掻き毟ったりするのだろうと思った。拠り所のない感情を解消するために掻くのだろうか。なら、皆自傷癖じゃないか。そう考えるとなかなかに滑稽だ。


「本当にお前は頭がおかしい!何故、何故春日に供えられた花瓶を割った!?恨みでもあったのか?答えろ!神里!!」


「あんたが私の名前を呼ばないで」


「俺はお前の担任だ!名前を呼ぶのは当然の権利だ!それより、何で花瓶を割った!」


「うるさいなぁ……。吐き気がしたのよ。形だけの気持ちであんな花が供えられているのを見て、吐き気がしたの。だから割ったの。……それに、椿には赤い花が似合うわ」


「……そうか。よくわかった」


「もういいでしょ。めんどくさい」


「神里。お前には決定的にモラルというものが欠落しているようだな。……お前があいつを殺したんじゃないのか?」


「……お前、からかってるの?」


「何て口を聞きやがる。もういい、お前は……っておい!」


担任は自身の前を素通りしようとする私に驚いたように吠えかけたが、それだけに終わった。てっきり掴みかかってくるかと内心で身構えていたがそれは杞憂に終わったようだ。大人は意外と臆病だ。現在の欲求と未来の安寧を天秤にかけて右往左往して結局は中央に戻ってくる。馬鹿らしいとは思わないのか。

私は出入り口のスライドドアの取手に手をかけ、ドアが開ききった反動でまた閉まるほど思いっきりドアを開けてやった。あわよくば私が挟まっていたが間一髪でそれは避けることができた。追ってくる様子も無いので私は悠々と教室は戻った。だがそこはそこで面倒だった。


「ねぇねぇ神里さーん。何て怒られたぁ?ねぇ教えてー?」


「うっさいなぁ……」


ついこの間まで同じ学校に通い、同じクラスで同じ時間を一緒に過ごしてきた身近な存在の死も、脳無しの馬鹿達にはどうということ無いらしい。今絡んできている二人のビッチ面以外のクラスメイトも案外平気な顔をして弁当を食べている。それはそうだろう。何たって同じ時間を過ごしてきたのであろうと、自分らと関わりがあまり無ければ悲しくもないだろう。私の場合もそうだろう。もし、目の前のビッチ面が明日死のうと私は眉一つ動かさないだろう。そうとわかっていても、椿は唯一の友人であったため特別な感情が腹の底から溢れてくる。私も結局都合良く立ち回り、全てを都合よく解釈しようとするのだ。それは間違っているのか正しいのかは私には計り知れないが、少し吐き気がする。


「ねぇ、無愛想だよー?笑ったほうが可愛いよー?」


二人のうちの右のチビのビッチ面、略してチビッチは可愛い仕草だと思っているのか大袈裟に首を何回も傾げたり小刻みに動いたり忙しい虫のようだ。


「チッ、笑ったって可愛くないよ」


「えー笑ったら可愛いって褒めたのに舌打ちされちゃった……よっ!!!」


掛け声に合わせてチビッチは私の頭に、手に持っていた飲みかけの緑茶をぶっかけ、私の髪に緑茶が滴るのを見て左の時代遅れの肌のすこし焼けたビッチ面はけらけらと黄色い声で笑った。


「あ、ごめーん。神里さんだいじょーぶー?あはははは」


精神状態が元より不安定であった私はいよいよ臓腑がぐつぐつと湧き立つ感覚を覚えて、立ち上がってチビッチの胸ぐらを掴んだ。すると即座にもう一人が両手で私を突き飛ばした。よろめく私に激昂したチビッチはまだ中身の入ったペットボトルを投げつけ、奇声をあげながら椅子を手に取った。それで脅しているようだったが、「殴ってみろよ」そう挑発してやると途端に覇気が無くなったのか吊り上がった眉も目尻が中途半端に歪んだ。この馬鹿にも「椅子で殴ってしまったら大怪我させてしまう」という相手を思いやる心があるのだ。現在の欲と未来とを天秤にかける計りをしっかり持っているのだ。 つくづく私は自分の欲と衝動のまま殴ればいいと思ってしまう。

私がおかしいのだろうか。


「ほら、殴ってみてよ」


「うっ……ぐぅ……ぃいぃぃぃ」


「何その虫みたいな鳴き声。殴る勇気も無かったらいちいち椅子なんか持つんじゃねぇよ」


私は私で気が立っていた。その煽りを受けて脳味噌が黄色く染まりきったチビッチは目を剥き、椅子を持ちあげて甲高い奇声とともに振りかぶった。

これは流石にまずいと思いながらも、その時にはもう手遅れであった。高々と掲げられた椅子は今にも私の頭を目掛けて降ってきそうであった。私が男でなおかつ運動神経が良かったらこれを間一髪で躱せているのかもしれない。だが生憎私は女で、しかも半日をベッドの上で過ごすようなインドアの鈍い肉塊だ。それにチビッチの目に最早正気は無く、湧き上がり溢れ出す衝動のまま躊躇なく私の頭にその椅子の脚を叩き付けるのだろう。運が悪ければ死ぬだろうな。私は心の中で自嘲する。だが、もういいじゃないか。死に様として少々華が無いが私は他人の手によって、楽に死ぬことができる。椿のところへ行ける。故に、もういいのだ。

振りかぶったそれが振り下ろされる刹那、私はチビッチに笑いかけようとした。私も彼女も哀れだなと思ったからだ。だが、口角を上げたその瞬間、私とチビッチの間に割って入ったものがあった。バキッと頭蓋を打つ嫌な音が教室内に響く。私は健在であった。反面、膝が落ち、床に手をつく男。その手をついた所には血がぽとぽとと降り出した雨のように落ちたが、男はすぐ何事も無かったかのように立ち上がり、


「……死ねなかったか」


と、確かにそう呟いた。


「大丈夫かい?神里さん」


立ち上がってこちらを向いた男は柔らかな笑みを浮かべながら私を案じた。私はじっと彼を観察した。

見覚えの無い人物であったが私の通うこの学校と同じ制服を着ているということは同じ学校に通う生徒なのだろう。男は高校生とは思えないほどの端正で美しい顔立ちをしていて、少し女性じみた柔らかな目付きをしていた。だが、その瞳孔は赤く、これまでに見たことの無い目であった。


「ん?あれ……?もしかして殴られてしまったかい?」


「……あ、いや、大丈夫。それより頭から血が……」



「ああこれかい。この程度どうということは無いよ。すこし大きなたんこぶさ」


そう言うと男は軽やかに笑った。


「でも、保健室行ったほうが」


男は私から視線を外して「うーん」とわざわざ口にしながら悩んでる素振りをみせて、


「君がそう言うなら保健室に寄っておくよ」


と笑って、飄々と風のように去っていった。




「おや?神里さん。わざわざ来てくれたのかい?」


保健室の扉を開けると、奥のベッドに腰掛けた男が柔らかな笑みを浮かべてこちらをその赤い目で見ていた。保健の先生はどうやら居ないようだった。私は彼の問いかけを聞こえていない素振りで、立ち止まること無く彼の目の前まで早足で歩く。そして、彼の目を今一度見つめる。目と目が交差し互いに射抜き合い、私達は互いに互いの存在を推し量る。

吐き気がするほど、無邪気な目の輝きをしていた。その血色に染まった瞳孔の表面の輝きは、何の穢れも無い純粋無垢な代物で、疑いも知らぬ幼児のそれ、またはそれ以上の、そう、天使だ。天使がこの世に降りて来たらきっとこんな瞳をしているのだろう。不浄の楽園で生まれ育った、当然の無邪気な瞳。だが、不思議なことに彼がゆっくりと瞬きをすると次は艶かしい、まるで熟女のような妖艶な色気を醸すのであった。それに私は目眩を覚えそうになった。


「ずいぶん、どんよりと曇った目をしてるね。何かあった?」


何かあった。その問いに私は意図せず俯いてしまう。それを察したのであろう、目の前の男は布団をポンポンと叩き自分の隣に座るよう促した。だが、私は首を降った。


「やだなぁ。取って食おうという訳では無いよ」


「そんな気分じゃないだけ」


そこまで言って、私は助けてもらったとは言え見知らぬ人物に何を口をきいているのだと口を抑える。

唇に人差し指を添えてクスっと笑った男は、


「いいよいいよ。ほとんど初対面なのに僕が悪かったよ。なら同じ目線で話そうか」


と言い、安静にしておいた方が良いはずなのに立ち上がっては、私の気を全て覗き見ているのか、安心してと言わんばかりに明るい笑みを見せた。


「いや、同じ目線なんて難しいね。今度は僕が頭一つ高くなってしまったよ」


と言ってまた軽やかに笑った。そんなによく笑えるものだと感心して心で拍手を送ってやる。

男は艶かしく人差し指で口を覆って、私を慈悲深い聖母のような瞳で見つめると、


「そういや自己紹介がまだだったね。心を開いてくれない訳だ」


そう口走った。いや、されても開かねぇよと口走りたくなる。本来ならば躊躇も無しにそう言い放っているが、彼に助けられたという事実と負い目がそれを許さない。私はただ彼の赤い目を見つめた。


「僕は悧人。夢喰 俐人 《むくい りひと》 。よろしくね、神里 愛さん」


「……なんで私の名前を知っているの?」


俐人と名乗った男は小さく笑いながらその瞳を妖艶に閉じ、そして笑みを作った。その一挙動に目を奪われる。


「なんでって、君のような魅力を放つ人間はなかなか居ないからね。ずっと前から気になっていたんだ」


「私のどこに魅力があるって言うの?適当言うのは止してよ」


「君のその全てを見下したかのような瞳も、か細い肩も、常に孤立しようとする姿勢も、孤独を大して恐れていないところも、他にも色々あるけれど、僕には魅力的さ。それに君は顔も可愛いしね」


「可愛くないし、それのどこが魅力なの」


「その徹底的に卑屈なところも、僕には魅力的に映るよ。それに誰が何にどう思おうとそんなの勝手じゃないか。君はよく分かっているはずさ」


「それはそうだけど」


そこまで言って私は、彼に心を見透かされ、掌の上で転がされているかのような感覚に襲われ、彼の目を直視することが出来なくなって露骨な反応かも知れないが目を逸らしてちょうど彼の右手のあたりを見る。すると俐人は右手を顔のところまで持ち上げ、また唇に人差し指を添えて妖艶な女性のように小さく笑った。


「あはは、もっと君のことが知りたいな」


私を見て男はただ笑う。


私は心にぼっかりと開いた穴を彼で少しでも補完しようと思ったのだろうか。

所詮私は女で、誰かにただ共感してほしかったのだろうか。私と椿が忌避した女、いや、人間の情緒、理解されたいという気持ち、知って欲しいという欲望。彼によって、どこまでも忌避し、笑ってきたその感情が私にも芽生えた。それは人間である証明であるのだろうか。

吐き気がする、自分に吐き気を催して、私はそれを発散するかのように、自身の話を始めた。





「へぇ、君は人間の善性というものが嫌いなんだね」


沈みゆく太陽に背を照らされ、帰り道を歩きながら私は頷く。


「それに、困った人に手を差し伸ばす人間も、周りの空気を読んで合わせる人間も、似たような辛さを抱えた人達が集まって心を慰めあっているのにも、その全てがわからないと。それは確かにそうだね。それは己にとって何の利益も無いから。君の言っていることはわかるよ。己を抑圧したり、手を取り合ったりして、一時の充足感で満たされようという人間の浅はかな、だが故に人間を人間たらしめる行為。だが僕は嫌いじゃない。何故なら人間は醜く、滑稽で、不純な、そして無駄が多い生物だからだ。それは人間らしいと言える。君は人間に獣のような無駄な無さと純粋さを求めているのかい?」


「そう……かもしれない」



「故に人間らしさというものが欠落しているように思える椿という子に心を惹かれたんだね」


「そう……かも。私も、人間らしさなんてものが欠落しているから。似て非なるものだけど、同じような人間らしくない人間に、心の安らぎを感じたのかも知れない……」



「それは違うな」


そう断言すると俐人は背を軽く仰け反らせ、少し大袈裟に笑った。

私はそれに不服を覚えながら、「何が」と尋ねると、俐人は尚も笑いながら答えた。


「君が人間らしくない?いや、君は人間らしいさ。君のように己の利益だけを考えて、欲求のまま、衝動のまま動き、何よりも自己を優先しようとする姿勢。そのくせ自信がなくて、己が手にした利益も、人に褒められてもそれを享受できなく、他者を攻撃してしまうどうしようも無いその矛盾。エゴの塊。そんな君はある意味どこの誰よりも人間らしいさ」


「……」


抉り出されて表面化されていく自身の醜さ最早笑ってしまいたくなるが、それよりも私は己が見透かされているのに、火山が噴火したかのような憤りを感じ、俐人の胸ぐらを掴みあげてしまう。だが、俐人はあろうことか、


「そんな君が僕は好きだよ」


と、そんな事を口走っては気持ちが悪いほど眩い笑顔を見せた。私は恐ろしくなって反射的に彼を解放する。

そして一歩、二歩後ずさりして、


「何……言ってるの……」


そう言うと、


「だから、僕は君が好きだと言っている。君のそのどうしようも無い醜さに、僕は惹かれたんだ」


彼は迷いもなくそう答えた。


「生の中に死が内包されるように、醜さ、穢れのなかにも美しさが内包されている。それに、醜ければ醜い程、その内の美しさはより際立つように思える。僕は、その内包されたものを見る目があるんだ。だから、僕には君のことがとても美しく、魅力的に思えるんだ。君を一目見た時、僕は君に出会うために生まれてきたのかも知れないとさえ、思ったよ」


「……気持ち悪い」


「あっははははは」


男は赤い夕日に照らされながら無邪気に高らかに笑う。その天使のように清らかな目の端から一筋の涙を垂らすと、それは赤い陽の光によって赤い宝石のように輝きながら地へと落ちた。


「はぁ、やっぱり最高だね、そう、自分が思ったことをそのまま葛藤も無く口に出せるところ、君も君で本当に純粋なんだね」


「純粋じゃない……」


「ほら!」


男はまた心底可笑しそうに笑う。


「君はエゴの塊なんだから、もう少し自分に自信を持ってもいいと思うな」


「あ、そう……」


そう吐き捨てて、私は彼から離脱するように早足で歩き、ゆったりと歩く俐人を追い抜いていく。俐人には足並みを合わせようという意思は無いらしく、己のペースで歩いている。


「また明日もこうやって話せることを、楽しみにしておくよ」


背後から投げかけられたその言葉を無視して、私は道端の既視感のある雑草を眺めながら早足で帰路を歩いた。







「愛は何のために生きてる?」


「私は自分のために生きてる」


「誰かのために生きようとは思わないの?」


「思わないよ」


「何で?」


「くだらないから。自分に何の益も無いから」


「そう」


「椿は?」


「私?私は、そうね。私、歌を作りたいの」


「椿が歌?」


「そう、歌」


「へぇ」


「……それでね、一人で歌を作るのは大変なの。そこでね、愛、一緒に歌を、音楽を作ってくれないかしら」


「うーん、何のために作るの?」


「作りたいから作るのよ。誰かのために作る訳じゃない。聞く人のことも案じない、自分の好きなように作曲し、好きなように作詞し、歌う。それだけよ」


「それはいいね、楽しそう」



そう、これは最後の会話。そして、初めて彼女が私に人間らしさを見せた日。






「なんでこんな所で泣いてるの?」


「……泣いてなんか無い」


「そう」


そう言って私より少し小柄な少女は踵を返してどこかへ行ってしまう。何だよ、そう思いながらも内心ではもう少し何か話してよ、そんなことを思ってしまう。どうしようも無く弱っているらしい。でも、私が人に助けを求める資格など無い。全てを見捨てて自分本位で生き続けて、そしてひしがれた私にそんな資格なぞ、あってたまるものか。そんな事を考えていると唐突に頬に何かを当てられ、私は驚いて飛び退いてしまう。


「あ、熱っ!何?」


「……はい」


先程の少女はどうやら飲み物を買ってきたらしい。その手には缶のカフェオレが握られていた。私は今手渡されようとしているそれを見て、


「誰も頼んでない」


そう言い放つも、


「知ってる」


そう言い返され、仕方無く受け取ることにした。


「……ありがとう」


「ここで泣いてほしくなかっただけよ」


これは、初めて会った日。そう、私は、どうしたら、どうやって生きたらいいか分からなくなって、泣いていたんだ。

その日は、初対面だと言うのに、彼女に泣きついては自分の醜さを曝け出したと思う。もう、何を言ったのかも覚えてはいないが、この言葉だけは、しっかりと記憶していた。


「貴方が決めた生き方でしょ。なら、全てを覚悟して強く生きて」


夢はそこで覚めた。昨日と同じ、自身で自身の心を抉って迎える、灰色の朝。私は寝間着を脱いでしわくちゃの夏服に着替える。昨日と同じように、なぜ行かなければいかないのかと考えながら。





「やぁ、今から帰るのかい」


「暇なの?」


放課後、授業が終わり部活動にも所属していない私は我先にこんな所おさらばしてやると教室を出るのだが、校門には昨日のあの男、夢喰 俐人が腕を組み、妖艶な笑みを浮かべていた。

私は無視して校門を出るが、その後ろを俐人が着いてくる。


「何?ストーカー?」


「あはは。そうだとしたらどうするんだい」


「通報する」


「君と話したいだけさ。ならば許可を取るよ。隣、歩いてもいいかな?」


私は熟考しながらも、特に嫌とは思わなかったため、

「勝手にすれば」

そのように答えを返す。すると俐人は本当に、心底嬉しそうに笑顔を浮かべ、跳ねるような足取りで私の隣へやってくる。


「実はね、君に似合う花を見つけたんだ」


「私に花なんて似合わないよ」


「そんなこと言わずにさ。どうせ暇でしょ、近くに花屋があるんだ」


昨日知り合ったばかりだと言うのに図々しい奴だと思いながらも、渋々着いていくと、数分で古くさい八百屋のような花屋にたどり着いた。

だが、花屋のくせに花の数は少ない。ところどころ水だけ入った空の容器が置いてあり、花がまばらに活けられてあった。


「さぁ、この花だよ。アルストロメリアと言うんだ」


俐人が指差すその花は、赤や青、ピンクに黄色に白色と色とりどりの花弁にはまだら模様がついてあり、個性的な花だという印象だった。


「私こんな鮮やかな感じじゃない」


「それは確かにそうだね」


そこは肯定するのかと半ばツッコミたくなるのを我慢する。


「だけど、この花を君に贈りたい。受け取ってくれるかい?」


「……うん」


私が頷くと俐人は赤とオレンジと黄色のアルストロメリアを選りすぐって私に手渡す。

そして俐人は私に優しく笑いかけると、


「今日は悪かったね。また話そう」


そう言い、店の奥に居た老婆の店主に金を支払うと手を振り風のように店を出ていってしまった。

何なんだ、そう思いながらも私は店主によって袋に入れてもらったその花を持って家に帰った。




私達はそれから、毎日下校を共にする、下校時限定の友のようになった。はじめこそ、校門で私を待ち伏せしてはストーカーのように後ろをつけてくる彼に戸惑いと怒りと生理的嫌悪を覚えたが、次第にそれにも慣れ、彼の柔らかな物腰と良く笑う性格、そして妖艶な仕草に惹かれたのか、彼の存在を受け入れてしまったのだ。

私は心にぼっかりと空いた穴を、本当に俐人で補完したのだ。

人は皆、何かの替わりを求める。その内の一つが「友達が欲しい」という欲求である。私も例に漏れずそうであった。

私は、椿のかわりとして俐人を友としたのだ。何て浅はかなのだろうと自嘲する。

だが、これはこれでいいのかもしれないと思うようになった。これも、彼のせいなのだろうか。私は、少しづつ物事を享受することが可能となってきていた。彼の言葉を借りれば、私は少し優しくなったのだそうだ。

そんな変わっていく己に、吐き気を催すことも無くなっていった。私はどうなろうと、私は私なのかもしれない。

私もちゃんと、周りの人間を受け入れ、普通に生きていけるのかも知れない。


だが、それは全て幻想だったと知る。所詮、掌の上だったと知る。




気がつくと埃臭さにむせ込み、私は重い体を起こした。どうやら自室では無いと瞬時に察した瞬間、申し合わせたかのようにか視界の奥の暗がりから俐人がいつもの笑顔を浮かべて歩いてきた。


「やぁ、目が覚めたかい」


「……どういうつもり?」


「あはは、君に危害を加えたくは無かったが、言っても聞いてくれなさそうだから仕方無く、ね」


「……で、何?というかここは何処?病室のようだけど」


私の寝かされているベッドに所々黒ずんだシーツ、倒され脚が折れた木製の椅子に灰色のカーテン、それらを見るにここは廃病院の病室のようだった。


「そうだね、ここは町外れの廃病院。ここなら人は来ない、だからここを選ばせてもらった」


「へぇ、で?私を眠らせてまでここに連れ込んで何をするつもり?」


「僕の欲を叶えるんだ」


「……目当ては身体……か」


「いや、それは勘違いさ」


私は首を傾げる。彼は依然笑みを浮かべ続けている。今はそれがなによりも不気味だった。


「いつもと同じさ。ただ、話をするだけさ。春日 椿の死について、ね」


どういう事だと声を上げようとするも、彼が懐から取り出し放り投げたそれを見て、強制的に黙らされる。放られたそれは大ぶりのナイフであった。


「……春日 椿は何故死んだか君は知っているかい?」


「……知らない。誰も教えてくれなかった」


「そうだろうねぇ」


そう言うと俐人は初めて、口の端を歪め、邪気な笑みを浮かべた。


「彼女は殺されたんだ」


その事実に私は思考が停止し、そして、涙がまず溢れ、その次に感じたことの無い内臓を焦がすかのような憎悪が腹の底から脳へ上っていくのを感じた。

だが、何故こいつが知っている?生徒には伏せられている情報を、世間にも報じられていない情報を、何故、こいつが。答えは、


「君なら勘づいているよね。そう、彼女を殺したのは僕だ」


気づくと私は俐人を押し倒し、先程放られた大振りのナイフを両手に持ち、その首元に突き刺そうとしていた。だか、必死に人としての理性が、それを止めていた。


「どうしたんだい、殺さないのかい?」


「黙れ!!」


いつものように笑いかけるその姿が、火に油を注ぐかのように憎悪をより駆り立てる。だが、私は必死に耐えていた。人殺しになりたくない訳では無い。ただ、まだ彼を友人だと思っているその心が、私の手を止めていたのだ。


「……何で!何で椿を殺した!」


今はそれで時間を稼ぐしか無かった。


「君と、話すためにさ」


そんな理由で殺したのかと、柄を握る私の手の力が強まり、刃はガタガタと震える。俐人はなおいつもの温厚な笑みを浮かべ、その穢れの無い瞳を私に向けてくる。それにさえ、吐き気と憎悪を覚えながらも、まだ、私は彼を殺すことが出来なかった。


「何で……何で!そんなことの為に……椿を」


「僕にとっては重要な事なのさ。僕の目的のために、彼女には死んでもらわないといけなかった」


「……っ……ぁ……」


「君も同じだろう。だが、僕と君の差は行動力の差だ。僕は自身の目的の為には命の垣根さえ超えることが出来る。ね、だから……僕を殺してくれ」


「……は?……」


「僕は君に殺されるために産まれてきたんだと君を一目見た時に感じたよ。だから、春日 椿には、死んでもらった。だからさ、殺してくれ。君には出来るはずさ、今こそ君の在り方を完成させる時だ。さぁ……僕のために、自分の衝動に従って、殺してくれ」


「ッアアアアアアアアア!!!!」


解放、肉感、血飛沫、温もり。


「……君に出会えて良かった」


それ以降、天使の目を持った少年は、彼女に笑いかける事は無かった。





もう何も考えられなくなった。頭がショートしたのだろうか。思考が途切れ、脳は軋み、痛いほど熱を発し、正常を破綻させる。

ただ、本能的にあの河川敷を目指した。全身を血に塗れて髪まで赤黒く染まった姿で、何人もの人とすれ違った。だが、河川敷の、二人並んで景色を見たあの堤防はもう目前であった。ここまでこれたのが奇跡だと、壊れた脳でも理解出来た。

ああ、あの堤防が、椿といつも話したあの堤防が、目の前に。私は獣のように這いつくばって緑が敷き詰められた堤防を登る。登り切ると、いつものように、燃える夕日が私の顔を照らしてくれた。

どこからかサイレンの音が聞こえる。もう猶予も無いようだ。


「……私も、連れて行ってよ」


我ながら馬鹿みたいだと笑いながら私は右手に持つナイフを夕日に当てる。二人もの命を吸ったナイフは太陽の温もりで更に輝きを増したようだった。


『間違えてしまったのね』


突然、何処からともなく懐かしい声が聞こえて、とうとう完全に狂ったのだと自覚する。


「……ええ、そうよ」


幻聴に応答するほど、もう私は壊れていた。


『……これがどこまでも自分の為だけに生きたその末路だよ』


先程のあと男の声も鼓膜を通して脳をふるわせる。


「……そうね」



『これまで幸せだった?』


「……いや」


『どこまでも怠惰だったんだ、君は。常にエゴに身を任せ、思考停止をして、楽に楽に生きようとしてきたんだ』


「……そうかな」


『後悔は無い?』


「無いわ」


それだけは、断言することが出来た。



サイレンがぐわんぐわんと頭の中で揺れる中、虹を見ていた。赤い雨が夕日に照らされ、生じた小さなうつくしい虹。

肉体を構成するピースが足元から瓦解していく感覚、闇に蝕まれていく感覚、そんな中、最後まで虹を見ていた。己の首から生じた虹を。

そして死んだ。

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椿と虹 緑夏 創 @Rokka_hajime

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