5.悠久王国のシロき王子・後編


「ジョアン王が直々にですか……」


 電信口の相手は、本当に王なのだろうか。信じられる事じゃないが、聞こえてくる威厳ある声を通しての雰囲気は王そのもの。そもそも相手の声は、昔、自分が王に謁見した際と変わらぬ気がする。多分……と、いうより、確実に電信機の相手は当代の悠久王だろう。


「申し訳ない。どうやら驚かせてしまいましたね」

「い、いえ……」


 驚きも驚いたが、悠久王は電信機ながら低姿勢かつ優しさが伝わってくる。目の前に居る王子と比べると、本当に二人は親子なのかと疑わしくなる。


(まぁ、とにかく王子について話を聞かねば……)


 アロイスは、彼との出会いまでの一連の流れを説明しようとする。が、王子は父親が電信口の相手だと分かると、それを奪ってしまった。


「借りるぞ!」

「あっ、おい!」


 王子は、奪った電信機を耳に当て、父親に声を上げて何があったかを自分で説明した。


「な、何と。謀反があったというのか! 」

「ロメスの奴はクビにしてよ父上。それに、この生意気なアロイスって男も何とかして!」


 ……助けた相手に何という態度を取るんだ、コイツは。

 アロイスは拳に「ハァーッ」と息を吹きかけて今にも殴りそうに構えるが、ナナは「落ち着いてー! 」と、慌てて抑えさせた。


「シロ、そういう話は色々と済んでからだ。まず、アロイスさんに電信機を代わりなさい」

「でも父上、話を聞いてよ。アイツらが俺を殺そうとしたのはロメスの管理がなってないから!」

「……代わりなさい」


 当代王ジョアンは、静かな口調で諭す。

 さすがにシロも、

「わ、分かったよ……」

 と、渋々電信機をアロイスに手渡した。


「あー……もしもし。アロイスです」

「おお、アロイスさん。息子が大変申し訳ありません」

「……いえ、お気になさらず」

「そう言って頂けると。では、早速、お話をさせて頂きたいのですが……」


 ジョアンは電話口で、これからの事について簡単に説明した。


「すぐ、新たな高速飛行船で迎えの者を出すつもりです。借用を含め1週間は要すると思います」


 1週間。それなりに長い期間だ。でも、まぁ良い。どのみち、ウチで王子を預かる気はなかったからだ。


「……承知しました。王子はカントリータウンの警衛隊支部に預けるという形に致しますね」


 言い方は悪いが、今の王子は爆弾に等しいし手元には置いておきたくない。いつ部下たちが襲ってくるかも分からないし、匿うことはあまりしたくなかった。


「そ、それなんですが……」


 だが、当代王ジョアンは言葉を詰まらせながら言った。


「アロイスさんの場所で匿ってもらえませんか」

「……んっ? 」


 今、何と言った。


「申し訳ないです。今、気のせいかと思いますがウチで預かってほしいと言った気がしますが」

「警衛隊では公になる可能性がありますし、出来る限り穏便に済ませたいのです」

「だったら、内密に支部で預かって頂くという形で宜しいのでは? 」

「謀反者たちについては、アロイスさんの実力があればこそだと思いまして」

「私の実力ですか……? 少し意味が分かり兼ねますが……」


 何を言っているのだ、当代王ジョアンは。

 すると彼は、萎縮して謝りながら言った。


「申し訳ありません。アロイスさんは、以前に私とお会いした事がありましたね。確か、出会った頃はクロイツ冒険団の団員でしたな。覚えております。その後は部隊長として活躍し、今は酒場の主人であるとお聞きしてます。貴方の実力があれば、いざという時に息子を守って頂けると思いまして……」


 それを聞いたアロイスの額に、タラリと冷や汗が流れた。


(……警衛隊のラインを使って情報を調べたのか。さすが王の名を持つ者は違うな……)


 虚を衝かれた気がした。更に、当代王は今一度、電信機の向こうで、依頼を口にした。


「アロイスさん。民家や酒場に息子を預かって貰っていたほうが謀反者たちに見つかる可能性が少なくなると思います。どうかお願いします。こんなお願い、在り得ないとは分かっています。ですが、一人息子を守るために、貴方の実力をお借りしたいのです。どうか、お願い致します」


 重苦しい言葉だった。遠い地の悠久王国の電信機前で、あの王が自分に頭を下げている様子が、まざまざと浮かんだ。一介の王にそこまで言われて断ることなんて、そうそう出来るはずもないじゃないか。

 だが、自分の一存で彼を預かるかどうか決めることは出来ない。電信機を携えながらナナの顔を見た。


「……大丈夫です。お婆ちゃんも許すと思います」


 彼女は頷く。

 アロイスもコンタクトして、王に伝えた。


「ジョアン王、一応ですが、お預かり出来る状況とはなりました。しかしですね、いくら私でも王子を守りきるという自信はありませんし、貴方たちの情報網で調べているのでご存知かと思いますが、私は普通の町民に厄介になっている身です。周りに危害が及ぶ可能性が少しでもあるのなら、直ぐに警衛隊に預けますが宜しいですか」


 ジョアンは、「分かりました」と、了承した。


「それならお預かり致します。私共々、出来る限り面倒は見させて頂きます」

「是非お願い致します。今回のお礼はたっぷりと用意しますので…… 」

「お礼はいりません。早く息子さんを迎えに来て頂ければ私としては幸いです」

「……分かりました。それでは、宜しくお願い致します」


 そう言うと、王は電信機をガチャリと切った。

 しかし、空から降ってきたのは本当の王子だったとは。それに、彼のお守をすることになるなんて。

 アロイスは、吐きたい溜息を隠して王子の名を呼ぶ。


「……シロ王子、ちょっと良いか」


 テーブルに腰を下ろしていたシロ王子の横に、自分も腰を下ろす。


「父上は余を迎えに来てくれるとは聴こえていたぞ」

「ああ、1週間後には来ると言っていた。が、ちょっとでも危険が及ぶようなら俺は君を警衛隊に預けるぞ」

「フンッ。警衛隊のほうがよっぽど安全なんじゃないか。父上はお前を少しばかり信用していたようだがな」


 シロ王子はアロイスを信用していない様子だった。しかし彼の心の中に居る父上が信じた男ということで、僅かばかり心を寄せたようには見える。


「やれやれ、言ってくれるな。俺だって警衛隊のほうが遥かに安全だと思うがね、君の父上から依頼されたら易々と考えを変えることは出来ないんだよ」


 悠久王国といえば、世界的にも有名な国だ。影響力は計り知れず、そのトップに頭を下げられたのなら、中々断ることも難しい。これも世界一の冒険団の元部隊長としての使命なのだろうか。


(こんな子守をしていては、酒場経営も難しいな。少しの間だけ休みとしよう。しかし、何事も無く1週間が過ぎてくれよ……)


 1週間。短いようで長い時間だ。何も無ければいいのだが。

 ……そう願った時。玄関から、

「ただいまさねー」

 と、声が聴こえ、畑仕事を終えた祖母が帰宅した。


「あ、お婆ちゃん」

「ただいまさね。……と、誰だい」


 居間に入った祖母は、見慣れぬ男が一人増えていたことに目をパチクリした。


「あー、俺が説明します。あのですね……」


 アロイスは、祖母に事情を説明した。

 すると、そこは優しい祖母であるし、話を聞いて、王子を受け入れるよう言った。


「大丈夫さね。王子様、狭いうちでよけりゃココにいてくれるかい」


 にっこり微笑む祖母。

 対して王子は「フン」と、鼻を鳴らして返事した。


「父上がココにいろと言ったんだ。余を受け入れるのは当然だろうが。そんな恩着せがましい言い方をするな」


 何て態度だ。アロイスとナナは彼にムッとするが、祖母は微笑んだまま、

「そうかそうか、ごめんなぁ」

 と、答えた。


「謝るくらいなら最初から言うな」


 ぶつぶつと文句を言う。ナナは祖母を邪険に扱われたことに、少し悔しい表情を浮かべていた。アロイスは、その肩を優しく叩いて、王子に聞こえないよう小声で言った。


「1週間だけだ。それだけ我慢しよう。最悪、警衛隊に預けるよ」

「アロイスさん……」

「そもそも俺が間接的に関わっちまったからな。迷惑かけてスマン」

「あ……いえ。アロイスさんは全然。分かりました、頑張ります」


 大体の事柄に許容する心を持っている二人でも、この王子の態度は許せない部分が多かった。


(はぁぁ。謀反者らより、この王子の扱いのほうがよっぽど苦労しそうだ……)


 ひどく苦悶することになりそうだと思った。


 ……そして、最悪な事に、その予感は当たってしまう。


 ナナが悲しみ、アロイスが激怒する結果となったのは、その夜。シロ王子のために晩飯を用意した時のことだった。



「……出来ました! 」

「出来たよっ」


 夜。ナナと祖母は、王子のために腕を振るった晩飯を用意した。

 パン、グリルチキン、魚のオリーブオイル焼き、サラダ、ソーセージ、スープなど。食卓に並んだ鮮やかな料理たちは、見た目もさながら味も美味であって、ご馳走という言葉以上に当て嵌まるものはなかった。

 

「ほお、庶民にしては中々な料理だ」


 テーブルに腰を下ろした王子は、珍しく褒め称えた。

 ところが、料理を見渡すうち、王子はあるものを見て、例の我がままを言い始める。


「む……この魚はオリーブ焼きか。サラダもよく見れば豆が多いぞ。余は魚のフライに、ポテトをたっぷり使ったサラダが食べたい」


 それは、全員が食卓に座ったタイミング。そこで、普通それを言うか。


「ご、ごめんなさい。好みを聞いていれば良かったですね……」


 ナナは謝る。するとアロイスは「気にするな」と、すかさずフォローする。


「二人が作った料理は何でも美味いさ」


 アロイスの言葉に気持ちが和らぐが、王子はそれを無視して言った。


「余は王子だぞ。父は悠久王国の王だと知っているだろ。『余の言葉は父の言葉』だ。余の言うことを聞かないで、どうなるか分かっているのか」


 今のいままで、全てが思い通りになってきた王子にとって、誰かが逆らうことは許せなかった。ましてや、アロイスという男は自分にとって言うことを効かない最低の男で、彼を屈服させるためにも、ここは絶対に我がままを通すと考えていた。


(父上に逆らえなかった男が、父上の名を出せば余にひれ伏すに違いない。ひれ伏せッ! )


 昼間に父上の願いを拒否しなかった男なら、それを言えば言う事をきいてくれるだろう。そう、思った。


「……せっかく用意されたものだぞ。まずは一口でも食べてみないか」


 しかし、アロイスはそれを直ぐに飲み込まなかった。それが王子の面倒な自尊心に傷をつけてしまう。


「な、何だと……! 」


 王子はその場で立ち上がる。そして、あろうことか、魚料理とサラダの皿を持ち上げ、床に引っくり返したのだ。


「お前……! 」


 ナナは慌てて立ち上がって、床に落ちた料理を見てその場にひざを崩す。

 身体を震わせながら一言、

「ひどい……」

 と、涙目で王子を睨んだ。


「何が酷い! お前らが余の好みも聞かなかったのが悪いと謝っただろう。分かったら、さっさと作り直せ! 」


 王子は床に崩れたナナに向かい、指差して言った。

 だが、その瞬間。アロイスは傲慢たる王子の首元を引っ張った。

 王子が、

「うげっ!? 」

 と、苦しそうに声を漏らすも、そのまま、王子を居間から玄関に無理やり引きずった。


 そして、玄関の戸を開き、外の地面に転がす。

 今度は王子が地に這い、それに対してアロイスが、先ほどの王子と同じように見下ろし、指差して言った。


「シロ。お前はふざけた態度を取り過ぎだ。ここから出て行くか」

「な、何だと。余を誰だと思ってこんな乱暴を働いている! 」

「お前が王子だと威張れるのは王国内だけだ。ここはイーストフィールズ、お前の領地じゃない」

「ぐっ、な……何を……!? 」


 シロ王子は歯軋りして、アロイスを見上げた。


「ち、父上に言いつけてやる、こんな事をして……ただで済むと思うなよ! 」

「言いつければ良い」


 アロイスはひざを落とし、彼に目線を合わせて言った。

 ただ、その時の雰囲気はいつもの優しいアロイスではなく、怒りに満ちて戦う意思を持った、恐怖に貶める表情を見せていた。


「ひっ……!? 」


 元服を迎えたかばかり、世間知らずの大人になりきれない子供が、物凄まじいアロイスを前に、心底恐怖した。誰にも本気で怒られないたことのない子供が、自我に目覚めて初めて感じる他人の『怒り』という感覚に、寒気立った。


「く、くっ……!」


 しかし、そこは押されもせぬ王の血筋の所以だったのか、恐怖しても退くことはなく、シロは言葉を欠かしても強気な姿勢を崩さなかった。ここまで来れば、立派な才能かもしれない。


「う、うるさい……。余は王子だ。余は王子だぞッ!」


 だが、その姿勢すらも粉々に崩すよう、アロイスは重くドス低い声で言った。

「だからどうした」と。


「ひぃっ……!? 」

「お前に問う。ナナとお婆さんに謝るか。それが出来るか、出来ないのか答えろ」

「余、余は王子だ……から……」

「どっちだ」

「王子だぞ……」

「どっちだと質問している。ハイかイイエ、どちらだと訊いているんだ! 」


 アロイスは全身から気力を放ち、怒りの雰囲気をかもし出した。

 目の前の猛獣に、王子は震え上がり、

「わ、分かった……」

 いよいよ、屈したのだった。


「なら来い。謝るんだ」


 再び服の首根っこを掴み、猫を運ぶように玄関から居間に連れて行った。そこには汚れた床を掃除するナナと祖母の姿があって、アロイスは居た堪れなくなったが、王子の背中を押して謝るよう促した。


「……くっ」


 それでも王子は渋った。

 アロイスはもう一度背中を押す。手のひらから伝わる怒りに、観念した王子は、小さく小さく言った。


「わ、わる……、悪かった…………」


 悪びれた様子は無かったが、それでも謝罪の言葉を口にした。

 ナナは彼の言葉を聞くと、片付けていた手を止め、立ち上がり、王子に近づいて言った。


「……謝ったところで」


 王子を、ナナは涙を浮かべながら睨んで言う。


「わ、私は貴方を許せません……。だけど、謝った言葉が嘘じゃないと……信じます。だから、私たちが作った料理を今度は一口でも食べてくれますか」


 それを聞いた王子は悔しそうな顔をした。アロイスは三度、彼の背中を押す。


「くっ……。わ、分かった。食べる。食べればいいんだろう。食べるよ……」


 我が侭ばかり言っていた王子が、ついに折れた。側近や兵士たちが見たら、何という状況だと、きっと驚くことだろう。


「じゃあ座って仕切りなおしだ。良いな」

「……」

「良いな、王子! 」

「あ、あぁ……」


 促され、四人は腰を下ろす。そして、ようやく食事は始まった。

 すると何だかんだ文句を言っていた王子も、食べてみれば味わい深い料理に「旨いじゃないか」と、舌鼓を打った。……最初から素直に食べていればいいものを。


(やれやれ、子供にしつけを教えてるようだ。この分で1週間も持つのかねぇ……)


 たかが食事ひとつでこの騒ぎ、本当にこの先が思いやられる。

 出来る事なら、これ以上は問題を起こさないで欲しい。

 

 ……欲しかった。


 王子は素直に食事をしたと思っていたが、実は違った。

 この時すでに、彼の頭の中ではアロイスに対する憎しみが蓄積していたのだ。


(アロイス……。よくも余を愚弄してくれたな……ッ!)


 だが、正面からアロイスに打ち勝つのは到底無理だと本能で悟っている。だったら、こっちも考えがあるのだと。やがて、その思いは王子を行動させた。


「……っ」


 それは、全員が眠りについていた明け方の午前4時のこと。

 居間でアロイスの隣で布団を被っていたシロは目を覚ますと、朝日が完全に昇りきる前に行動を開始した。


(アロイス、起きるんじゃないぞ……)


 ゆっくりと起き上がる。自分の着用していた厚い上着を手に取って、薄っすらと日が差す暗がりの中、辺りを見渡す。


(ここか……? )


 居間にある小さな棚に手を伸ばし、ゴソゴソと金目のものを漁った。


(こんな家、逃げ出してやる……)


 そう、王子の手段とは『逃げる』ことだった。


(直ぐにでも逃げてやる。だけど先立つものが無ければ逃げ出せないしな。こんな家、父上に言って潰してやる! )


 僅かばかりの小銭を見つけ、それを懐に仕舞った。ついでに調理場に足を運んで、昨晩の残り物のパンやソーセージを、わざわざチーズのディップまで付けて朝食代わりに口に入れる。


(もぐっ……。うむ、旨い。では……)


 忍び足で眠りにつくアロイスの横を抜け、廊下に出て、そのまま玄関に抜ける。


(こんな家、さらばだ! 余は一人でも王国に帰ってみせる! )


 そして、外に飛び出した。まだまだ日は出ていなかったが、それでも町へと通じる林道と、あぜ道は何とか見える。走って、走り抜いて、町に出れば何とかなるだろう。


(も、もう少しだ……!)


 商店通りの入り口が見えた。これで何とかなる。そう思った。


「……えっ!? 」


 ところが、その入り口が見えた時。林道を抜ける寸前で、シロの目の前に、筆舌尽くし難いものが見えた。


「な、何で……!」


 揺らぐ指先で、それを指した。

 それは、林道の出口付近の木に寄り掛かって此方を見つめるアロイスだった。



「おはよう、シロ王子。こんな朝早く町にお出かけかな」

「ど、どうしてお前がそこにいる! さっきまで寝てたじゃないか! 」

「あんな物音を立てられたらな。それに、足の遅いお前さんに先回りするくらい訳無い」


 アロイスは寄っかかっていた木から離れて姿勢を直し、のそのそと王子に近づき始めた。


「こ、こっちに来るな! 」

「王子様。本当は他人の子だと思い、手を出そうとは思わなかった。が、犯罪者相手なら容赦はいらんな」

「何! て、手を出すって、まさか……」

「盗人に落ちたのなら、相応の罪は受けて貰う」

「ちょっ……! 」


 胸の前で組んだ指先をボキボキと鳴らすアロイスは、昨日見せた臨戦たる雰囲気で、シロ王子に迫った。


「嘘だ、嘘だ嘘だ。止めろ、余は王子だぞ。余は王子だぞォッ! 」

「今のお前は、王子である前に罪人だ」


 王子は後退するが、アロイスは距離を詰める。


「嘘だ、嘘だろ。余は王子だ、王子なんだぞ!王子は、王子で、王子、王子ッ! 」

「王子様、お前は何の優しさも分からない大人になりきれない子供だ」

「ちょっ……」

 

 アロイスは王子の前で、堂々と太い右腕を構えた。


「人の痛みも優しさも、何の気持ちも理解が出来ないのなら……」

「ちょっ、まっ……! 」


 そして……。


「それを教えるのが大人の役目だッ! 」


「ひぃいやあああっ!! 」


 振りかざす右腕を見て悲鳴を上げる王子の顔面目掛け、その右腕は唸った。

 ……ガンッ!!!


「がっ…… 、がふぅああぁっっッ!! 」


 ズザザァッ!

 顔面を捉えた拳は、鼻を潰し、血を噴出させて地面に転ばせた。王子は咄嗟に起き上がるが、生まれて初めて感じる激痛に混乱する。また、その鋭い痛みに自然と涙が溢れて、ポタポタと溢れる鼻血と、切れた口の中に広がる血流で呼吸が上手く出来なかった。


「い、いはいっ……。な、なんれ……ほんはほほ……! 」


 鼻を押さえ、涙を流しながらアロイスを睨む。


「痛いか。痛いだろうな。だけどお前がナナや婆さんに与えた痛みは、それだけじゃない。いや……お前はどれだけ周りにそんな痛みを与えてきたのか想像がつく。だから、その痛みを胸に刻んだうえで、もっと自分の行動に責任を取って貰うぞ」


 王子は「ま、まらなぐるのは……」と、情けない顔をしながら言った。


「また殴るのか、だと? 殴って責任を取れるのなら、恐らくお前は死ぬまで殴らないといけなくなるだろうよ。だけど、そうはいかん。お前を警衛隊に犯罪者として突き出させてもらう」


 アロイスは痛みに悶える王子の身体を持ち上げると脇に抱え、商店通りに向かって歩き出した。


「よ、よを、けいえいたいにつきらすと……! 」

「大ニュースになるな。あの悠久王国の王子が犯罪者だ」

「ちょ、ちょっほまて……」

「さぞ悲しまれることだろう。お前の父親である王の威厳も失墜して、悠久王国から王は追われる存在になるかもしれんぞ」


 王子は目を丸くする。その反応にアロイスは、わざと面白そうに話を続けた。


「シロ王子様よ。お前一人の行動で王室の全てを壊すことになったな。ま、誰の優しさも分からず踏みにじってきたお前だから、遅かれ早かれ王の威厳は失墜していただろうし、それが、たまたま今日だった……ということだ。父親のジョアン王と仲良く大罪人扱いになってくれ! 」


 ハハハ。アロイスは笑う。

 王子は殴られてズタボロになりながらも、抱えられた腕を外そうと一生懸命になった。


「は、離へ……。そ、そんなことは許さない……!父上が……失墜するなどと……」


 殴られた時の激痛は引いてきた王子は、呂律と力が戻ってきて、アロイスの腕を強く握った。


(ほう……)


 突然力強く反論し始め、父親を想うという発言に、アロイスは、足を止めた。


「じゃあ何だ。お前は罪を犯した事を認めるんだな」

「つ、つみらと……」

「今のお前は犯罪者だ。人の物を盗み、心すら踏みにじる最低の犯罪者だ」

「つみをおかした……のか。い、いや……そうかもしれんが、よは王子で……! 」


 未だ王子であるということに固執するのか。

 もう、その性格は死ぬまで治らないかもしれない。

「お前と話すだけ無駄なようだ」

 アロイスは止めた足を、再び商店通りに向けた。


「ま、まて……。父上に迷惑はかけられないんだ。らから……」

「から、なんだ。俺はお前を警衛隊に突き出すという結果は変わらないぞ」

「くっ……。どうすれば、余をゆるしてくれる……」

「逆に尋ねるが、どうすれば許して貰えると思う」


 商店通りはグングンと近づく。このままだと、陽が周囲を照らす頃には警衛隊支部に到着するだろう。


「どうすれば許して貰えるか、なんて……。許して貰う方法など……」


 今まで我が侭を通してきた身で、どうすれば相手に許して貰えるかなんて考えた事も無かった。


「……ま、待ってくれアロイス」


 だが、ここで王子は昨晩のことを思い出す。そして、アロイスの肩を強く掴みながら言った。


「……す、すまん。悪かった。許してくれ。謝る……謝らせてくれ……」


 その言葉を聞いた途端。

 アロイスは、また歩くの足を止めると、彼を地面に優しく座らせ、見下ろした。


「聴こえなかったな。もう一度、大声で言ってくれ」

「……すまぬ。悪かった、許してくれ……」

「もう一度」

「すまぬ。悪かった。許してくれ……ッ! 」

「もう一度ッ! 」

「すまぬッ!悪かったッ! ゆ、許してくれェッ!! 」


痛みと大声で感極まった王子は、ハァハァと息を荒げて、殴られた時以上に大粒の涙を流した。


「そうか。それほどに許して欲しいか」

「許して欲しい……」


 あまりに高ぶった感情のせいで、王子は唇を噛んで血を滲ませていた。涙や鼻水、鼻血で顔はグシャグシャになって、あの端麗な顔立ちは完全に崩れきっている。


「謝罪の姿勢は良し。なら、その謝罪を本人たちも伝えられるな」

「ほ、本人とは……」

「俺は許しても良いが、盗んだ家主たちにきちんと謝るんだ。出来るな」

「ナナと……あの婆さんか……」

 

 アロイスは「出来るのか、出来ないのか」と訊く。

 王子はその問いに顔をうつむかせ、

「分かった……」

 と、言った。


「そうか。なら、家に帰って謝ろうか」


 謝罪をすると言った王子を見たアロイスは、笑顔で言った。


「えっ……」


 今しがたの怒りに満ちた雰囲気と打って変わったアロイスの態度に、王子は驚く。


「立てるか。ほら、手ぇ出せ」


 アロイスは手を差し伸べる。

 王子は呆気に取られたまま、その手を握りしめると、一気に引っ張られて身体が浮かぶと、両足でトンッと地面に立たせられた。


「ん、立てるな。じゃ、急いで家に帰るから背中に乗れ」


 膝をついて、王子に背を向けてチョイチョイと自分の背中を掴むよう言う。

 王子は「お、おんぶか」と、躊躇った。


 だが「早くしろ」と、いうアロイスの台詞に、王子はゆっくりと彼の背に抱きつくと、刹那、アロイスは王子の体をガッチリと締め、風の如く走り出した。


「な、はやっ……!」


 林道、畑のあぜ道、全てが流れる景色として通り過ぎる。気持ちの良い朝風を感じながら、出始めた陽の光で周りが赤く染まっていく。朝日に映える景色を眺めつつ、強き風を感じ、ひどく痛みは残っていたが、今まで経験したことのない朝の時間に、気持ちがいい感じがした。


(風が心地良い……。何と大きな背中だ……)


 力強く、安心感を覚える大きな背中。

 するとアロイスは、彼にそんな一日の始まりを思わせながら、走る足は止めずに王子に話をかけた。


「王子様よ、話を良いか」

「な、何だ? 」


 また殴られるのかと思ってビクリとするが、アロイスは優しく語った。


「俺はさ、強い王ってのは威張るだけじゃない、人の気持ちが分かる王だと思うんだ」

「……急に何を言う」


 王子はアロイスの耳元で「どういうことだ」と尋ねた。


「簡単なことさ。お前が殴られて痛かったように、生きている限り人には色々な痛みがある。国民の数だけ、それだけの痛みがあるんだ。お前の父親は、そんな無限に等しい国民の痛みに耳を傾け、改善の努力を惜しまないから、国民に認められているんだろう。……だけど、お前はどうだ。人の気持ちや気持ちを考えたことはあるか? 」


 その質問に、王子は答えることが出来なかった。


「殴られたのは痛かっただろ。お前は実際に殴ることはなくとも、他人の心は殴ってきたんだ。自分が王子だからと、我がままに生きてきた。何者にも感謝もせず、それが当然だとふんぞり返った人生は、少なからず他人の心を殴ってきたに違いない」


 ……今まで、彼にとってはそうやって生きるのが当たり前だったんだから、それを直ぐに分かれとは言わない。だけど、少しでも王子には分かってほしかった。


「昨日と今日、お前はナナと祖母の優しさを殴り飛ばしたんだ。意味は分かるよな」

「……余が彼女らの心を殴り、痛ませたということか」

「そういうことだ。お前はさっきのように、心の奥底から二人に謝罪をすることが出来るか? 」


 アロイスが尋ねると、王子は小さく言った。


「……正直分からない。さっきは恐怖で大声を出してしまっただけだし、謝罪を口にすればいいだけで許されるのなら、それを言ってしまえば良いと思ってる。だけどアロイスが言う謝罪とは、そういう意味じゃないんだろう。心の奥底からの謝罪とは……まだ、よく分からん……」


 いいや、違うさ。それだけでも、ほんの少しでも敬おうとする気持ちが生まれたのなら充分だ。

 ……何故なら。

 きっと、王子が最も『優しさ』というものを知って、その本質を考える事になるのは、自宅に戻ってからだろうから。


「ほら、自宅が見えてきたぞ」

「……ああ」


 一戸建ての小さな自宅、あぜ道に沿った垣根を曲がって玄関に入る。

「ただいまー!」

 大声でアロイスが靴を脱いで居間に入ると、二人は既に朝食の準備を終えていた。


「あっ、アロイスさん……て、シロ王子さんっ!? 」


 アロイスに未だ背負われたシロ王子は、殴られた顔面は血だらけのうえ、時間が経って赤く腫れ始めていた。見るも無残な大怪我を負ったような姿に、ナナは驚き、祖母も「どうしたんだい」と尋ねた。


「……ほら、シロ王子。自分の足で立って、何をしたか言うんだ」


 床に立たせたシロ王子。

 小声ではあったが、自ら、今朝、自分がしたことを全て説明した。



「そ、そんなこと……」

「本当に小銭を取って逃げたのかい……」


 彼が、そんな泥棒のような真似をしてしまうとは。

 幾ら酷い態度を取っていた王子とはいえ、二人は信じられないという反応だった。

 王子は「余がやったのは本当だ」と、血と泥に染まった派手な衣装のポケットから、僅かばかりのゴールドを取り出してテーブルに置いた。


「説明は出来たな。後は、分かっているだろう」


 アロイスは促す。王子は「分かってる」と神妙な面持ちをして、深呼吸した。

 そして、彼は。昨日迄とは違い、彼女たちの痛みに対しての気持ちを交えて口にした。


「すみません……でした……」と。


 それを聞いたナナと祖母は顔を見合わせた。それは、昨晩のような面倒臭がっただけの謝罪ではなく、少しでも気持ちの入った謝罪だったから。


「シロさん……」


 あれほど傲慢だった王子が見せた、ほんの少しでも気持ちの入った謝罪。ナナは、居間の棚から傷薬と包帯を取り出して、王子に言った。


「シロさん。私は昨日のことや、私たちを裏切ったことは、どんなに謝って貰っても今はまだ許したくありません。だけど、シロさんが少しでも謝罪する気持ちを見せてくれたから、少しでも許したいと思う気持ちはあります」


 そう言って、ナナはジェル状の傷薬を指先に取って、シロ王子の切れた頬と口元に塗った。


「い、いててっ……。ナナ、余を許したいと言ったな。お前は余を犯罪者として見ないのか」


 王子は尋ねた。その言葉に、ナナは王子を鋭く見つめて返事した。


「勘違いしないで下さい。許したいと思う気持ちがあるだけです。それと、貴方は自分を犯罪者として見て欲しいんですか? 」

「そ、それは困る。余が捕まったら、父上や、父上を慕う民が悲しむ事になる」

「それだけ分かってたら、自分の行動を考え直して下さい」


 包帯を伸ばして彼の頬から耳の下を回しすと、目立たない顎の下でテープを使い接着した。


「処置は少し雑ですけど、傷が治るまで我慢して下さいね」


 ナナは彼の傷を処置すると、包帯と傷薬を棚に仕舞う。

 それを見つめながら王子は指先で巻かれた包帯に触れつつ、彼女に更に尋ねた。


「ナナ。余はお前を傷つけたのに、どうして優しくする」

「どうしてって、目の前に傷を負った人がいたら無視出来ませんよ」

「それが敵であってもか」

「好き嫌いはありますけど、敵とは思いません。それに誰かが困っていたら、助けるのは当然のことです」


 その台詞に、王子は目をギュッと瞑って顔を伏せた。


「嫌いな相手であっても、助けるのが当然か……」


 アロイスに、この頬の痛みくらいに彼女の心を殴ったと諭されておきながら、ナナはどうして余を許せるのか。もしや彼女にとって、昨晩や今日の出来事は何でも無かったという可能性はないか。

 いや、昨晩ナナは余を睨んだ瞳には涙を浮かべていた気がする。本気で怒っていた瞳だった事くらい、理解出来ない馬鹿じゃない。


(そうか。ナナという女は相手を嫌っていても、その相手に優しく出来る気持ちの持ち主なんだ。そんな彼女が昨晩、余に対して涙を見せるくらいに睨んだというのは……。余がしたことは、相当に彼女の心を殴ったに違いない……)


 ほんの少しずつだが、王子には心が芽生え始めていた。

 するとアロイスはその肩に手を置いて、

「腹減っちゃったよ、飯にしようぜ」

 と、祖母とナナに言った。


「そうですね。昨晩の余りものですし、コーンスープを温めるだけで完成しますから」


 ナナはパタパタとキッチンに消える。

 アロイスは「座って待っていよう」と、王子を椅子に座らせた。

 また、対面に座った祖母は痛々しい王子の傷を見て、「痛かったね」と呟いた。


「……痛かった。初めて、殴られた」

「そうかね。じゃあ、これで王子様はまた一人前の男に近づいたさね」

「えっ? 」

「殴られる痛みも知らず、怪我の1つもしないで人の上に立つ人間はいないよ」

「それは……アロイスにも同じことを言われた」


 祖母とアロイスの会話が重なった事に、王子は少し言葉を大きくして言った。

 と、そのタイミングで、出来上がる料理。ナナは温めたスープとパン、昨晩のあまりであるサラダと魚料理を王子の前に並べた。


「……っ」


 温められ、白く湯気の立つ温かなスープと柔らかなパン。

 早朝に隠れて食べた硬いパンや脂ぎったディップ、それらとは比べ物にならないくらい芳醇な香りを感じ、純粋な食欲が腹をググっと鳴らしたる。


「王子、先に食べて良いぞ」


 アロイスの台詞。王子はゴクリと生唾を飲み、熱々のパンを千切って噛締める。甘く温かなコーンスープをスプーンで掬って飲み込んだ時、全身に、えもいわれぬ気持ちが拡がった。


「色々と……あったかいな……。美味しい……」


 手を止め、感傷浸る様子の王子。アロイスは「ハハハ」と、笑い、言った。


「当たり前だ。料理は美味しく食べて欲しいから心を込めて作ってるんだ。身も心も温かくなれるに決まってる」

「料理っていうのは、心を込めて作るのか」

「王城だって専属シェフがいたんじゃないか。王子のために一生懸命にレシピを考えて、少しでも美味いものを食べさせようと努力してたハズだ」


 王子はその台詞にハっとした。

 もしかしたら、自分はシェフらの心を殴っていたんじゃないかと。


(アイツらも、余に美味しい料理を食わせたくて努力をしていたのかもしれない。心を込めて作ってくれていたんだろうか。余は、それを捨て置くように台詞を吐いていたのか……)


 未だ王子は未熟だ。

 この目の前の料理を食して『美味い』とは思ったが、

 『こんな庶民の家で食べた料理が温かで美味しいのだから、きっと王城の者たちはもっと余を想っていたんじゃないか』

 そんな事を考えていた。

 しかし、それも大きな進歩だ。今まで、そんな考えを持とうともしなかった彼が、初めて王城の者たちに感じた有難さだったのだから。


「おら、王子。手が止まってるぞ。どんどん食べてくれよ」


 アロイスは、指をパチンと鳴らして言った。


「わ、分かってる。言われなくとも食べさせてもらう」


 王子は、次から次へと料理を口に運んだ。

 三人は彼のそんな様子を見ながら食事を共に楽しみ、それぞれがお腹一杯食べて満足することが出来た。


 ……が、忙しい早朝に長く休む暇はない。

 一時の休息の後、アロイスは立ち上がり、王子の肩を叩いた。

 

「王子。出かけるぞ、準備をしろ」

「な、何。どこに行くんだ。まさか警衛隊……! 」


 王子の顔が青ざめる。しかし、

「違うわ」

 と、その額に軽くとチョップした。


「いてっ。じゃ、じゃあどこに行くんだ」

「もちろん、畑だ」

「は、畑……?」

「働かざる者食うべからず。ナナ、お婆さん。コイツに畑仕事を教えましょう」


 ナナと祖母は「もちろん」と即答した。



「お、おい。余に畑仕事をさせるつもりか……」

「犯罪者には労働が必要だろう。それとも、断るつもりか」

「……それを言うのか。や、やればいいのだろう! 」


 そう言われては断ることは出来ない。最早、王子はアロイスに従う他はないのだ。


「うむ。そうこなくては。では、準備して向かおうか」


 王子の派手な上着を脱がせ、少し大きいがアロイスの予備用の作業用のツナギを着せる。また、靴は厚い長靴と、手には軍手を着用させた。

 自分たちもそれぞれ同じ格好をして、四人は離れにある畑に向かった。


(な、何と格好悪い。余がこんな屈辱的な格好をしなければならないとは……)


 それにしても、従わなければどうなるか分からないし、文句も言えない。

 そして、どうこうするうち歩くこと数分、王子が落ちてきたあぜ道を抜け、広大な山々が望める平たい農地に出る。そのうち、一際広い赤いロープで囲まれた、黒っぽい土の畑の傍に近づくと、その土に刺さったスコップを取って王子に渡した。


「本当はクワか何かで土起こしをするんだが、お前はスコップで良い」

「土起こしとはなんだ」

「深く掘った土と、表面の土を入れ替えるんだ。出てきた草木や石は取り出して、袋に詰めてくれ」

「……意味が分からんぞ」


 確かに、経験の無い者に説明するだけでは理解できない。

 アロイスは「こうするんだ」と言って、土に刺さっていた幾つかの道具のうちクワを取って、両手で握り、頭上まで高々と振り上げると、一気に振り下ろして土に深く突き刺した。


「そして、こうっ! 」


 刺したクワを、土を引っ掛けながら引き抜く。深い部分に眠っていた土が地面に顔を出して、元々表面にあった土に被さった。また、引き抜いた際に一緒になって飛び出した小石を一個一個取って、畑入り口付近にある袋に詰めていく。


「これが一連の動作だ。畑を耕すってやつだな」

「ほう。見る限り簡単そうだな」


 思ったより単純な作業に、王子は楽観視した。


「へぇー、そうかい。なら、このエリアは任せるぞ」

「エリアとは、どこまでやればいい」

「向こうまで」

「ん、向こうまでか」


 指差した方角に目をやる。が、王子の身体がビタリと硬直した。


「待て、アロイス。向こうまでとは、まさか……冗談だろう…………」


 アロイスが指差した方角は、遥か遠方。霞み掛かるその先、目を凝らしてようやく見えるくらいの果ての果てであった。


「じょ、冗談だろ。これをあそこまでやれというのか!? 」

「あそこまでって、それで終わりじゃないからな。それが終わったら芽の手入れだ」

「……それも同じくらいの距離をか!? 」

「当たり前だろ。ちゃっちゃとやるぞ」


 ナナと祖母はその様子を笑って見ていた。

 アロイスが「ほら! 」と王子の肩を叩くと、渋々体を動かし始める。


「くっ、屈辱だ。殴られた上にこんな庶民の仕事を……」

「庶民の仕事が分かってこそ、他人の気持ちが理解出来るんだろ」

「そ、そうかもしれんが! 」

「父親のような立派な王になるには、1に努力、2に努力だぞ」

「い、言われなくても分かっているッ! 」


 何となく、王子の扱い方が分かってきた。彼はぶつぶつと文句を言っていたが、仕事はしっかりこなしているようだったし、アロイスはそれを見守りながら自分も別の列で彼を追いかけつつ畑耕しに勤しんだ。


 ……ところが、1時間もしないうち。

 5分の1を過ぎた地点にて、王子は「もう、ダメだ……」と、震えた手でスコップを落としてしまった。


「アロイス、手と腰が痛くて……もう動かん……」


 腰を落とし立ち上がるというスクワットのような動作を繰り返す。あまり運動もしていない王子は、普段使っていない筋肉を万遍なく使ったせいで、あっという間に根を上げてしまったのだった。


「おーい、まだ半分もやってないぞ」

「しかし腕の筋肉がビシビシと痛いんだ。腰もズキズキと痛む……」


 よろよろと歩く王子。と、土に足を取られたようで、その場ですっ転んでしまった。


「むおっ!い、いてて……」


 柔らかい土のおかげで怪我はなかった。しかし、転んで起き上がろうとした瞬間、王子は「うわあっ!? 」と声を上げた。


「ん、どうした」


 アロイスが王子を見ると、彼は「ミミズだぁ! 」と、表面の土に蠢くミミズを指差し、泣きそうな顔をしていた。


「おーいおい。ミミズくらいで驚くなって」

「だってウネウネと気持ち悪い! ほ、本物を見たのは初めてだぞ……! 」


 すると、その時。

 近くに居たナナが二人の会話に気づき、王子の傍に近づいた。

 そして、

「ちょっと大きいミミズですねー」

 と、ミミズを持ち上げた。王子はそれを見て、声にならない叫びを上げた。


「ミミズ、さわ……ミミズを触ってるのか、ミミズをぉおおっ!! 」

「王子、そんな邪険に扱わないで下さい。ミミズがいなかったら野菜は美味しく出来ないんですよ」

「や、野菜が出来ないだと? そんな気持ち悪いのが居ないと、野菜が作れないのか!? 」

「この子たちは、野菜が育つ栄養たっぷりの土を作ってくれるんです」


 ナナは、王子の傍に手に持ったミミズを近づけた。


「うぎゃああーーーっ!! 」


 王子は転がるように飛び跳ねて逃げ回る。

 折角自分で耕した土まで踏み抜いて、

「あーらら」

 と、アロイスは笑った。


 そのうち、再び土に足を取られた王子は派手に転ぶ。ゴロンと一回転して土を舞い上げ、柔らかな土をベッドのようにして仰向けになった。


「はぁっ、はぁ……!く、くそっ……! 」


 天を仰ぐと、輝く太陽が眩しかった。

 全身が、稲妻を駆け巡っているように痛む。

 こんなに動いたのは、何時以来だろう。


「……アロイス」


 王子は、アロイスを呼んだ。


「どうした」

「体が……動かん」

「普段に運動しなさすぎだ」

「その通りだ。しかし、畑仕事とは大層なものなんだな」

「畑仕事だけじゃないさ。仕事っつーのは全てが大変なんだよ」

「民はこんな仕事を続けているのか……」


 畑仕事がこれほど大変だとは知らなかった。しかも、任された仕事の半分も終わっていないし、全体的な作業で見れば次も、その次もあるのだという。終わりが見えない。無限に働き続けるのではないかという概念すら生まれる。

 そんな感慨深くなっている寝転ぶ王子に、アロイスは彼を見下ろして言った。


「明日も、明後日も、1週間後も、1ヶ月、1年、それ以上にこういう仕事は続くんだぞ」

「……そんなにか。こんな大変な仕事だったとは知らなかった」

「お前を支える周りの人々は、こういう仕事を繰り返して支えあっていると少しでも分かってきたか」

「嫌でも理解せざるを得ないな。こんなに……きついとは……」


 アロイスは手を差し出す。

 王子は「すまん」と言って、その手を握った。


「この世は持ちつ持たれつ、互いに支えあって成り立っているんだ」


 そう言って、王子を引っ張り上げて立たせた。

 王子は土まみれになった自分の体を見て、こんな汚れた格好をして王子らしさの欠片もないな、と、小さく笑った。


「王子らしさって何だ。王座にふんぞり返ってる王より、今のお前はよっぽど格好良いぞ」

「……こんな汚れた姿なのに、格好いいのか? 」

「民を理解しようとする王の姿だと思うぞ。泥に塗れ、努力した姿を見せるリーダーがいれば、部下は自然と付いてくるもんだ」

「はっ、汚れていても格好良い王か。お前は何とも上に立つ人間を分かった風に言うな」

「あー……。ま、まぁな……」


 元世界一の冒険団部隊長。世界で支部を合わせ千人規模の部下を持つ最強の男が、こんな田舎で畑仕事に勤しんでいるとは思わないだろう。


「おーい、三人とも。少し早いけど休憩にしようさねー! 」


 と、その時。祖母の大声が、アロイスらを呼んだ。

 

「おっ。ナナとシロ、お婆さんが呼んでるし一旦戻ろうか」

「そうですね」

「分かった、休憩だな……」


 畑入り口に戻った三人。小さな土手のような場所に腰を下ろした。祖母が持ってきていたバスケットからサンドウィッチと瓶詰めのお茶を取り出し、それぞれに渡した。王子は早速それを頬張ると、ハムとレタスのシンプルなサンドウィッチだったといのに、今までに食べたことのない美味しさが全身を痺れさせた。


「美味い……」

「当然。働いて、動いて食べる食事は美味いもんだ」

「こんなシンプルなサンドウィッチが美味しく感じるとは思わなかった」

「体を動かすことが最高の調味料だからな。お茶も飲めよ」

「頂くよ」


 個々に用意された小型の瓶茶。蓋を開き、口をつけ、優しく喉を潤す。これもまた、今までに感じたことのない最高の味わいだった。


「……っ」


 瓶の中で揺れて光る茶。王子はそれを傍に置くと、両膝を折り畳み足首に両手を回した体育座りの姿勢で、顔を隠した。


「どうした。殴った傷でも痛むのか」


 アロイスが尋ねる。王子は「違う」と答えた。


「何となく、余が見下してきた者たちを考えた。……何とも言い知れぬ気持ちになった」


 ちょっとずつだが、王子の心に他人の理解という思いが育ち始めている。今までそうして生きてきたのだから、決して楽な道のりではないかもしれないが、王子の心に小さな芽生えが見えた。


「王子、人が変わるのは一瞬だ。もし今までしてきた事に何か辛く感じることがあっても、明日には変わればいい」

「変われば良いか。簡単に言ってくれる。他人の気持ちを理解できるようになっても、余を嫌うやつ等はもう余を嫌いになったままだろう」

「……なら彼らに謝れば良い」

「謝って済むものなのか」


 アロイスは首を横に振った。


「お前が今まで心を殴った人間は、そう簡単に許しはしないさ」

「じゃあ謝る意味はないじゃないか」

「いいや、ある。行動で示せ。人の気持ちを理解するよう努力する姿勢を見せるんだ」

「それでも許してくれなかったら」

「一生謝り続けて、一生行動で示すだけ。俺ならそうする」

「……難しいな」

「難しいけど簡単だ。人らしく生きれば良い。他人に優しくすることを考えて生きていけば良い」


 アロイスはお茶を飲みながら、静かな口調で話を続けた。


 「たまに我が侭を言っても良いかもしれないが、お前も他人の気持ちを考えて我が侭を聞いてやれ。そうすれば一人、また一人とお前を信頼する者が増えていくだろう。それは、いつか周りがお前を王として認めるその日まで……。いや、その日からもずっとずっと優しくあることが最も大事だろうがね」


「……」


 王子は黙ってアロイスの話に耳を傾けた。どこか重みを感じる台詞に、真剣にその話を聞いていた。


「アロイス。お前の言葉は、何となく余の心に響く」

「そうか。お前の心に響いたのなら何よりだ。……よし、それじゃあ仕事の続きをするか! 」


 立ち上がったアロイスは尻の土を払う。

 王子も「もう休憩は終わりか」と重い腰を上げ、スコップを手に取った。


「もうひと踏ん張りだ。終わらせるぞ、王子」

「……出来るところまでな」


 二人は農耕具を持ち、自分の担当の場所に向かっていった。

 その、後ろ姿を見送るナナと祖母。二人は笑顔で言う。


「お婆ちゃん。なんていうかアロイスさんらしいね」

「ふっふっ、王子様もすっかりアロイスさんのペースに乗せられてるさね」

 

 結局、何だかんだでアロイスに乗せられた形となった王子。

 それから1週間、みっちり諭され、働かされ、飯を食い、健康的な生活を送った王子の考え方は次第に変わっていった。


 そして、1週間後の【2080年5月30日。】

 ついに自宅へと、王子の迎えが訪れる。


「こちらに、アロイス・ミュール様はいらっしゃいますでしょうか! 」


 それは早朝の出来事。

 銀色の金属鎧と、長剣を身に着けた兵士が大人数現れ、自宅を取り囲んだのだ。

 誰かお客さんだと思って玄関で迎えたナナは、その人数に驚いて声を上げた。


「な、なんかいっぱい来ましたけど!? 」


 それを見たアロイスも「随分と大勢で」と、さすがに驚きの言葉を口にする。

 だが、事に関しては当然だという雰囲気の王子は、

「よく来てくれた、ご苦労」

 と、玄関を出て片腕を上げて合図し、兵士らは王子に向かって統率を取って頭を下げた。


 王子はすっかり腫れの引いた顔を擦りつつ、迎えに来た兵士らを見渡すうち、ある事に気づいて兵士の一人に訊いた。


「……おい、ロメスはどうした。余を迎えに来なかったのか」


 訊かれた兵士はハっとして、小声で答えた。だが、以前の王子なら露知らず、今の王子にとってはかなりショックを受ける言葉が飛び出した。


「ロメス殿は……行方不明です」

「何? 」


 王子は自分の耳を疑った。


「ロメスが行方不明とは、どういうことだ」

「飛行船から貴方様が襲われたと無線電信機にて連絡を受けた後、飛行船は墜落したんです……」

「なっ……! 」

「焼け落ちた飛行船は海に落下して沈んでしまった為、全員が行方不明であるという扱いに……」

「ロメスが、馬鹿な! まさか、アイツが死……」

「それは……ッ」


 首を横に振る兵士に、愕然とした。あのロメスが飛行船と共に消えたというのか。

 この地に落ちた時、確かにロメスの行動に対して怒りをもった。だが今は違う。ロメスは最後の最後まで自分を助けようとしてくれていたと分かっていたから。


「くっ……!?」


 これが余の傲慢たる態度に対する罰だというのだろうか。


「……いや、待て。考えを改める。行方不明なだけ、そうなのだろう。ロメスは生きているに違いない。アイツは、余の側近だぞ」


 今までの自分なら「ざまぁみろ」と見下していたに違いない。だけど、今は生きていて欲しかった。


「シ、シロ王子様…… 」


 その台詞に兵士らが驚いた。兵士らも、王子はきっと見下す言葉を吐くのだと思っていたからだ。


「本当はロメスが迎えに来てくれると思っていた。この1週間をどんな風に過ごして来たか話をしてやろうと考えていたんだがな……」


 これから、余はどうすれば良いのか。とにかく一度王城に帰ろう。父上に自分の無事を伝えに戻ろう。


「……では、アロイス」


 玄関に戻り、此方を見つめるアロイスに声をかけた。


「王子様、色々あるみたいだが、気持ちを大事に持つんだぞ」

「世話になった。本当に色々とな。お前くらいだぞ、余の頬を殴り飛ばしたバカは」

「お前がまた道を逸れるようなら俺は殴りに行くぞ」

「……それは困るな。もうあんな痛い思いはしたくないからな」

「なら他人にもその思いをさせるなよ」


 王子は「出来る限り努力はしようと思う」と、だけ答えた。


「その答えだけでも十分だ。……と、そうだった王子。忘れるところだった」

「どうした」

「すぐ持ってくるから、待っててくれ」


 アロイスは急いで居間に戻って、小さな酒瓶を1本と、悠久王国を象徴する例のエンブレムを持ってきた。


「まずは、これはお前のものだ。王子、この証を大事にしてくれ」

「これは……王室のエンブレムか。そういえば、落下傘のリュックに付いていたんだったな」


 本当にロメスは優秀だった。落ちた先でも王子である証を残すように最初から仕組んでいたのだろう。王子は、その輝くエンブレムを受け取ると強く握り締めた。


「そして、お前へのプレゼントだ」


 次に渡したのは、小さな酒瓶。栓は開いていない新品の酒で、ラベルには青々とした葉が描かれ、その上に『Caipiroska』と文字があった。


「これは酒か? カイピロスカ……と書いてあるのか」

「カクテルの1種を瓶詰めしたものだ。十分に美味い酒だぞ」

「……どうしてこれを余に渡す」

「カクテルには花言葉を同じように、様々な意味を持っているのは知っているか」

「いや。カクテル言葉なんてあったのか」


 当然王子は知るわけもなく、ナナも「へぇ」と驚いていた。


「ああ、カクテル言葉はあるぞ。そしてな、そのカクテル『カイピロスカ』の意味は……」


 王子の両肩を強く掴み、微笑んで言った。


「明日への期待、だ」


 その言葉を聴いた王子は、彼の台詞に完全に心打たれたようだった。


「明日への期待か。余に、この言葉を送るというのか……」

「俺らは、お前の明日に期待する。過去に学び、明日を生きてくれ。そして、いつか王になって……」

「全ての民へ、明日への期待を持たせろ……と、いうことか」

「そういうことだ。お前の明日は、民の明日だと思って欲しい」


 最後の最後に何たる物を贈ってくるのだ、この男は。だけど、こんなに嬉しいプレゼントも中々無い。


「……この酒、ありがたく受け取る」


 酒瓶を持ち上げ、乾杯するようにアロイスの方へ振った。アロイスも親指を立てて笑う。


「フフッ、明日への期待か。それでは、余からもコレを受け取って欲しい」


 そう言って、王子は、アロイスに何と『王室のエンブレム』を投げ渡した。


「お、おい。これは王室の……」

「お前は確か酒場経営をしているのだろう。いつか客として飲みに来る。悠久王のご用達の店として、そのエンブレムを飾っておけ。良いな」


 アロイスは目を丸くして、頭を描く。


「おいおい、結局は傲慢な王になりそうだな。一介の酒場すら王子様の物にする気かい」

「ハッハッハ、そうかもしれん。しかし、そう言うな。頬の痛みに誓って、努力はするつもりだ」

「期待してるぞ。明日への期待を」

「ああ。では、またな」

「酒場で待ってるぞ。また会おう」

「また……」


 最後に酒瓶をもう1度持ち上げた王子は、もう振り返ることなく、兵士らと共に、悠久王国へと帰っていった。

 アロイスは受け取ったエンブレムを手のひらに乗せ、嬉しそうに眺めていた。


「これ、大事にしなくちゃいけないな」

「そうですね。でも、王子ってば出会った時よりずっと優しくなった気がします」

「変わるきっかけなんて一瞬だからな。とはいえ、幼い子供がちょっとばかし大人の階段を上っただけさ」

「ふふっ、そうですね」


 ……大人の階段をちょっと上っただけ。そうだ。


 だが、王子は、この日を境にして大きく成長していくことになる。


 長き道のりは決して楽なものではないが、彼は誰もが認められる『王』となっていくのだ。


 そして、まだまだ語りきれぬ彼の物語は、また別の機会がありますれば……。


 ……………

 ……

 …



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