親愛なるあなたへ

麻城すず

親愛なるあなたへ

 明日の朝、私は冠を頂きに乗せこの国の王となりましょう。

 貴女との決別から幾年を数えたのか、今では記憶も不明瞭で当時の思いなど失われましたが、それでも一つだけどうにも失いがたいものがあるのです。

 私が貴女の犯した罪を知ったあの時、どれだけの衝撃を受けたのかを貴女はきっと考えることすらなかったでしょう。それは当然だと分っております。私は国のために個人の感情すら封じねばならない立場にありました。常に顔には笑みを貼りつけ、誰からも好感を得、安心を与えてやらねばならぬ。ですから貴女の不貞を知っても素知らぬ振りを貫きました。しかし、決して物思わないわけではなかったのです。

 幼い頃から感情を殺せよ、物事を主観に左右される事なく見極めよと帝王学を叩き込まれた私に子供らしい甘えを持つと言うのは許されざる事でした。

 父はその立場ゆえに高く近寄りがたい存在であったし、貴女は私の甘えを受け入れるにはあまりに高慢であった。

 誤解なきように。貴女を責めているわけではありません。

 我が国よりは貧しい国から財政支援を得る為に望まぬ男の元に嫁がれた貴女には、婚姻は国と国との血の通わぬ取り引きの一端に過ぎなかったでしょうし、私を出産なさったこともその契約を遂行なさるための手段に他ならなかったはずです。そんな子供に愛情を持てなどと言う事がどれほど酷なことであるのか、今ならよく分かります。

 しかし父や母に甘えられず、乳母や側近に弱みも見せられぬ子供の感情でそれを知るは、残念ながら容易ではありませんでした。

 その頃の私が知っていたこと、それは貴女が深夜時折そっと寝室を抜け出し、離宮にある王弟君をお訪ねになっていることでした。

 子供というのは、得てして大人の言いつけに意味も無く反抗をしたがるものです。

 ある日、城中が寝静まった夜中に私は夜の闇に浮かぶ煌めく星を見たいが為に寝室の窓からそっと表に出たのです。皆に知られれば大騒ぎになると知りつつ、好奇心を押さえる事は出来ませんでした。

 生まれて初めて見る夜の光景に私の胸は高鳴りました。見慣れた花壇の花はすぼみ、取り巻く闇から逃れようとするかのように頭を垂れています。昼間は鮮やかな緑で足下を彩る芝生は黒く影を落とし、どこも地の底に引きずり込まれそうな塗り込まれるような闇。ただ月の光の当たるところだけが一筋の道のように明るく輝いておりました。

 天上で華やぐ星々、冷えてしっとりと纏わりつく澄んだ空気。私を取り巻くもの全てに誘われるように足を進め、着いた先が白亜の離宮でありました。

 これもまた月の光を受け神々しいまでに美しかった。しかし、その美しさに似つかわしくない禍々しいものを幼い私は感じたのです。

 黒のトーガに身を包んだ者が、一人の従者に手を引かれ、建物の前までゆっくりと歩いて来るのが目に入り、姿を見咎められるわけにはいかない私は慌てて近くの木陰に潜みました。

 その時は、それがよもや貴女であったなどと想像する事すら出来ませんでした。仮に分っていたとしても、貴女と王弟君が館の中であんな姦計を図っていたなどとたかだか十二、三の子供には知る由もありません。

 しかし子供ながらに嫌な空気を感じ取った私は、その後も度々夜中に城を抜け出し白亜の離宮を訪れました。そして数年後、いつもトーガを纏い現われる人物が貴女であることに気付いたのです。

 そうなると今度は、あなたが何故夜中に密んで王弟君に面会をされるのかが気になり出しました。しかし、その頃には私自身も男女の恋慕について些かの知識、経験を持ち合わせておりましたので大方の事は察する事も出来ました。

 政略結婚の相手を嫌い、その側にいる一見すれば関わりのない者に、偽りの婚姻には求められぬ愛情を見出だそうとすること。それを責めることは出来ません。貴女のお立場からは決して許される事ではありませんが、心情は分かり得るものです。

 ですが貴女は感情に任せて破滅を辿る愚かな女ではなかった。狡猾で浅ましい、狂気の人。

 王弟君には枕事の合間に愛の言葉と恨み言を囁き王の暗殺を唆した。すっかり貴女を信頼しきったこの愚かな男はその甘言に惑わされ兄の盃に呪われた悪魔の血をそっと垂らした。

 貴女の用意したその毒はこの国の物では無かった。それ故王の暗殺は貴女の独断では無く貴女の国の意思であったことが明らかになりました。しかし貴女はそこまでご存じなかったのでしょう。

 この国と貴女の国は気候も似ており、風習や食べ物にも大した差は無い。育つ植物の違いなど、学者でも無ければ当然考えもつかないでしょう。貴女はこの国の事になど、関心もなかったでしょうから尚更です。

 突然の王の不在、後継は未だ成人していない王子が一人。王弟君の即位は、当然の事でした。

 しかし年を経て、私が大人になるに従い貴女の計画には綻びが出始めました。王弟君は王の権力を用いて前王の妻である貴女を正妻とし、そして目障りな私を政治の場から遠ざけようとなさいました。

 伯父と入れ替わるように白亜の離宮に軟禁された私でしたが、正当な後継者として支持する者も多かった。その者達の助力を得、私は成り上がりの王と貴女の不正の証拠を上げ断罪し、この国の王子と言う本来の立場をもって貴女の国へ攻め入った。

 王の暗殺などと言う重大なる裏切りを画策した国と最早同盟など結ぶ事は出来ません。隣国も巻き込んだ数年に渡る戦争の結果、貴女の故国は今では我が国の同盟国から従国という立場に成り下がりました。

 先陣を切って出た戦の場で私は片足を失いはしましたが、体を張った甲斐があり、明日皆に認められて王となります。

 戴冠式の後私の最初の仕事は、計画の発覚から早数年、王族として贅を尽くした者には耐えがたいであろう陽の差さぬ不潔極まりない牢獄に幽閉されていた貴女と王弟君の処刑に関する書類への決裁となるのですが、どうしても気になる事があるのです。

 父を毒殺した時、なぜその血をひく私を殺さずに軟禁などされたのですか。

 真相を知った私の行動が予測出来なかったなどという、野暮な理由で誤魔化す事はなさらないで頂きたい。

 私には一つだけ、どうにも失いがたいものがあった。普段私の甘えを許さなかった貴女が、時折見せた悲しげな瞳。その瞳で私を見つめ、私の手を取り優しく撫でてくださったという幼い頃の朧気な記憶。

 貴女は冷たく高慢な態度の裏で、私を僅かにでも愛してくれていたのでしょうか。あれは暗殺すべき王の息子に情けをかけてはならぬと戒めながらもつい出てしまった私への憐れみであったと思ってもいいのでしょうか。私を殺せと言った王弟君に取るに足らずやと進言してくださったのは、愛する私を守るための言葉であったと、そう考えてもいいのですか。

 私が貴女にお目にかかることができるのは、明後日断首台に乗せられた貴女へ血族の者として、恐怖を和らげる為のワインを差し上げるその僅かな時間だけとなります。

 罪人が私と言葉を交わす事は許されません。ですから私が貴女の真意を知る事はないでしょう。

 貴女は私を愚かな王だとお笑いになるかも知れません。

 親愛なる母上様。

 私はそれでも貴女をお慕いしておりました。王として君臨し、一時すら自分の感情を出されなかった父よりも、高慢な目に時折揺れる影を落とす貴女に、私は親としての愛情を求めておりました。小さな希望に縋って、貴女を慕い続けた私。未だにこんな戯言を口にする私は愚王にしかなれぬであろうと笑い飛ばしてくださって構いません。お慕いしておりました。

 断首台で私と目があった時には、一つだけ頷いて下さいませんか。私への愛情を肯定する印に一つだけ。嘘でもいいのです。ただ何も考えず、一つだけ頷いてくだされば私はそれを糧に、これからを生きていきましょう。











 ………………。

 ――ああ。私はなんと愚かしいのだ!

 年若い男は、向かっていた寝台脇の小さな机に力任せに拳を振り下ろした。勢いに煽られ、手元にあった数枚の書面がヒラヒラと下に落ち、インクの瓶は倒れて中身が彼の手を汚す。

 若いとはいえ、苦労を重ねてきたのだろう。或いは心労のせいか。まだ三十路に掛かる前のその額には、顔を険しく見せる皺が数本うっすらと刻まれており口元には法令線が浮かんでいる。

 ――このような物を渡せるはずがないではないか。私は王、あの方は罪人だ。

 落ち着かねばならぬと、危うく過去に陶酔しかけた頭を振り自分を戒める。

 そう、この男は数時間後には冠を頂きに乗せこの国の王となるのだ。国を治める王が一介の罪人にこのような感情的な手紙など送る事は許されぬ。たとえ相手が己の母であったとしても。

――戯言はここまで。貴女は罪人、私は王。父と母を、権力に群がり渦巻く陰謀に因りて失った私は孤独な王。

 彼は床に散らばる数枚の書面を拾い、一枚ずつ明かり取りのランプの火に翳していった。少し湿気を帯びた明け方の空気のせいか火のつきが悪く、全てが燃え尽きるまでに持ち上げていた腕はすっかり痺れてしまってその不快感に顔をしかめたが、しかしふと思い直したように笑みを浮かべた。法令線はしっくり馴染み、彼が長い間その表情を繰り返ししていた事を物語る。

 恐らく、彼は二度とその表情を崩す事はないだろう。幼い頃からそうなるべく育てられてきたのだから。

 空が白み始める。戴冠式の後の一番最初の仕事に思いを馳せ、その顛末を目を閉じて想像する。彼の笑みは引かない。

――失い難し思いは今、あの方への手紙と共に燃やした。問題ない。あの方が首を刎ねられる様を思い浮かべていても尚、まだ笑えているではないか。大丈夫だ。私は父上と同じように国のために感情を封じよう。常に顔には笑みを貼りつけ、誰からも好感を得るよう、そして民には安心を与えてやらねばならぬ。

 その頬を伝うものに彼は気付いていなかった。

 半刻もすれば王付きの女官が眠っているはずの彼を起こしにくるだろう。大国の王という、生涯逃れられぬ長い苦行の中に身を置く彼の、最初の一日が間もなく始まろうとしていた。

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