第11章2

「えっ⁈」

 反射的に声のした方へと振り返る。

しかし、声の主を視界に捉えることはできず、逆に、ナイフを振りかざした兄との距離を、さらに縮める結果となってしまう。

 すでに、手を延ばせば背に触れるのではと思えてしまうほど、兄はこちらに接近していた。今から山の斜面を登り始めても、すぐに捕まってしまう。

 咄嗟にルートを変更し、学校の敷地沿いの柵に沿って走り出す。

 このまま柵に沿ってぐるっと回って行けば、すぐに校門に辿り着く。

 運が良ければそこで誰か人がいて、助けを呼んでもらえるかもしれない。


「はぁっはぁっはっ」

 さきほどまで山の中を歩いてきたため、すぐに息も荒くなり今にも心臓が爆発してしまいそうだった。

 曲がり角の柵を曲がると、百メートルほど先に校門が見えてくる。

 突然、何か窪みのようなものに足を取られてしまう。

 前のめりになりながらも、なんとか堪えたと思った直後、背中に強い衝撃が走り、胸から強かに地面に倒れ込んでしまう。

「ごほっごほっ」

 あまりの衝撃に、肺の中の空気が全て口から出てしまう。なんとか呼吸をしようと喘ぐが、背中を押さえつけられているため、満足に呼吸ができない。

「ハアハァ・・・どうだ、どうだ、いい気味だぜ」

 満足に声が出ず、振り向いて睨みつけるが、それを負け惜しみと捉えた兄は満足気に薄ら笑いを浮かべる。

 兄は私の目の前にナイフをちらつかせる。まるで舌をチラチラと出す蛇のようなその行為を一頻り楽しむと、兄はおもむろに私のお腹を蹴り飛ばした。

「うぅっ‼」

 呻き声を上げて苦しんでいると、兄は仰向けになった私の身体にのしかかり、私の顔を手で押さえつけた。

 ギラギラと光るナイフが次第に顔に近づいてくる。

 兄の顔も、周囲の景色も、まるで霞が掛かったようにぼやけていく。

 硬くて鋭い感触が頬に触れるのが分かった。

 恐怖のあまり目を瞑る。


 すると、不思議な事に気がついた。

 目を閉じていると、今迄、耳が周囲の音に紛れて気がつかなかった奇妙な音を聞き分ける。その音は「ザッザッ」、と草の上を跳ねるような音だった。

 遠くにあるように感じた音は、しかしあっという間にこちらへと迫ってくると、次の瞬間には私の頭の上を突風のように駆け抜けていく。

 何事かと身体が竦むが、すぐに変化に気がつく。さきほどまで兄に押さえつけられていた身体が自由になっていた。

 急いで起き上がると、近くで兄の悲鳴が聞こえてくる。

「いってぇ、いてぇ、ちくしょう、なんだよ!なんなんだよ⁈」

 声のするほうに目を向けて驚愕する。

 目の前には、あの時の狼くんがいた。

「グルルルルゥゥゥ!」

 眉間に深い皺をつくり、口元からは大きな牙を剥き出しにして、怒りを露わにした狼くんは、兄の前に猛然と立ち塞がると、唸り声をあげて威嚇する。

「ひィィ、よ、寄るな!このバカ犬!」

 尻餅をついた兄は、ナイフを乱雑に振り回して牽制する。

「なんだよ、なんでお前がまたいんだよ⁉いつも邪魔しやがって」

 兄の「また」という言葉に、すぐに思い当たる記憶があった。

それは二日前の晩に委員長が話していた、自分が助けられた時の違和感の話だった。きっとその正体がこの狼くんだったのだ。

「ウウゥゥッガウゥッ‼」

 狼くんはあの夜の出会いの時とはまるで違う、威圧的なオーラを放つ。

 ただ、それでも兄は震える手でナイフを構えて狼くんに食い下がろうとする。

 そうまでして私の人生をめちゃくちゃにしたいのだろうか。その姿に怒りを通り越して憐れみのような感情を覚える。

 今迄、私は自分がこの世界で一番心の弱い人間だと思い込んでいたが、そんな私よりもさらに心の弱い人がこんな身近にいた。

「なんだよ、その目は!お前程度がオレを見下してんじゃねえ!」

 兄はこちらにナイフを向けるが、狼くんがひと吠えすると、すぐにその手を引っ込める。兄も負けじと狼くんに怒声を浴びせてみるが、狼くんはまるで怯む様子はなかった。


 じりじりとした間が続いたが、狼くんの威勢に圧されて、徐々に兄の顔から焦りの表情が見えてくる。次第に及び腰になり、このまま逃げ出すのも時間の問題に思えた。

 その時、視界の隅にチラリと何かが映った気配がした。反射的にそちらへと視線を向けた瞬間、何かが目の前一杯に広がり、直後に額に鋭い痛みが走る。

「あっっ⁈」

 痛みのあまり、その場で蹲ってしまう。足元に拳くらいの石ころが転がる。

 痛む額を押さえながら、石ころが飛んできた方に目を向けると、フェンスの向こうに走り去る長髪の女生徒の後ろ姿が見えた。

「クゥ」

 突然の異変に狼くんがこちらを振り返った。

「あ、駄目」

 狼くんの一瞬の隙をついて、こちらに飛び掛かろうとする兄の姿がはっきりと見えた。

 距離を詰めた兄が真っ直ぐに振り下ろしたナイフは、しかし、私に刺さる寸前のところで防がれる。

「ぎゃあああァァァーーーー」

ナイフを持つ兄の腕に狼くんの鋭い牙が突き立てられていた。

 痛みに顔を歪ませた兄は、自由な方の腕で狼くんを必死に引き剥がそうとするが、押しても叩いても放す気配がない事を早々に悟ると、今度はズボンのポケットから何かを慌てて取り出す。

 その手には、小さいがすぐに凶器と判る銀色の光を発する刃物が握られていた。

「やめてっ⁉」

 兄はギラギラと光るナイフを狼くんの横腹に突き刺した。

 あまりの光景に心臓が止まりそうになる。

 それでも狼くんは噛みついた腕を放そうとはせず、逆に痛みに堪え切れず、兄は遂に握っていたナイフを落とす。

 兄がサバイバルナイフを落としたのを確認すると、ようやく狼くんは噛みついていた腕を放すと、すばやく兄から距離を取る。その腹部からは真っ赤な血がダラダラと流れ落ちていた。

「血っ!血がっ、止めなきゃ」

 止血できるものはないかと、制服のポケットを調べてみるが、急いで飛び出して来たため、何もなかった。

「ちくしょう、いてぇ…痛いよぅ……うぅ…」

 兄は顔をくしゃくしゃにして悲痛な声を上げると、血がにじむ腕を押さえながら、校門の方へと小走りに逃げていく。

 兄が戦意を失くした事を確認すると、狼くんは重い足取りで体を引きずるよにして、よろよろと草むらの中へと入って行こうとする。

「ちょっと待って、そんな状態で何処行くの⁉」

 慌てて狼くんに追いすがると、咄嗟に狼くんの体を抱き止める。袖にべったりと血が付着する。

 狼くんの口元からは、ヒューヒューと苦しげな呼吸音が聴こえてくる。

「そうだっ!」

 急いでシャツを脱ぐと、包帯代わりに狼くんの胴体にぐるりと巻き付ける。

かなり不格好ではあるが、無いよりはマシなはずだ。

上着はシャツしか着ていなかったため、ブラジャーが露わになるが、今はそんな些細な事を気にしている余裕はなかった。

「お願いだから、ここで待ってて。保健室で薬を取ってくるから、ね?」

 狼くんの瞳を覗き込み告げると、狼くんはただジッとこちらを見つめ返す。

 心なしか、その瞳の中の光が次第に弱々しくなっているように思えてしまう。

「やだよ、死んじゃやだからね!絶対だからね!」

 2メートルほどのフェンスを乗り越え、校舎へと走る。

「先生っ!」

 保健室の扉を開けると同時に保険の先生を呼ぶが、室内の何処にも先生の姿はなかった。

「いない。どうして…あっ」

 今が朝礼だという事を思い出す。

 仕方がないので、薬品棚から消毒薬やガーゼを取り出すと、それを抱えて保健室を後にしようとする。が、ふと視界の中に、壁に掛けられた電話機が目につく。

「そうだ!」

 抱えていた物を一旦机に置くと、勢いよく受話器を握り締める。急いでダイヤルを押すと、発信音を待たずに受話器を耳に当てる。

「はやく、はやく…」

「はい、110番緊急電話です。事件ですか?事故ですか?」

「あ、えっと」

 電話口から凛とした女性の声が聴こえる。慌てていたため119番ではなく、110番に掛けてしまったが、この際どちらでも構わなかった。

「あのナイフで怪我して、それで救急車を呼んでほしいんです。私、福田高校の生徒で、今、保健室から掛けてます」

「ナイフ?それは誤って怪我をしてしまったという事ですか?それともナイフで切られたという事ですか?」

「そうです。お腹を切られて、それではやく救急車を」

「障害事件ですね、わかりました。それで被害に遭われた方の容態や人数は分かりますか?」

「えっと、お腹を切られて怪我をした子が一匹」

「え、一匹?」

「あ、いえ一人です、一人。お願いですから急いで下さい」

「大丈夫ですよ。すぐにパトカーと救急車を向かわせます。それで犯人の特徴は」

 受付の女性が言い終わるよりも早く電話を切る。救急車が人間専用だという事はもちろん分かっていたが、それでももしかしたら何か助けになってくれるかもしれない。藁にも縋る思いだった。

 机に置いた薬品を抱え直すと、急いで校舎を後にする。

 さきほど越えてきたフェンスの手前まで来たところで足が止まる。

「え、嘘でしょ……」

 さきほどまでそこにいたはずの狼くんの姿は、何処にもなかった。

「馬鹿…」







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