第11章3
狼くんが流した血の跡の前で茫然とする。
「どうして…何処に行っちゃったの?」
項垂れて、ついさっきまで狼が横たわっていた場所に目を向けると、血の跡の近くに血痕が点々と残されている事に気がつく。
そしてそれは裏山の茂みの奥へと続いていた。
考えるよりも先に、茂みの中へと飛び込む。
茂みを掻き分けながら、山の斜面を慎重に進んでいく。
流れ落ちた血は僅かな痕跡となって、道標のように残されていた。
茂みを抜けると、開けた山道に出る。
足は既に限界に達して鉛のように重かったが、それでも足を止める事は出来なかった。
すこし進むと、そこが見覚えのある山道である事に気がつく。道にせり出した木の根や、ウネウネと曲がりくねった道。そこは数日前、姫守君の家から学校へ向かう際に通った道だった。
「どういう事?だって、この先には…」
さらに奥へと進んでいく。
息も絶え絶えの中、なんとか山道を登りきると、数日前にお世話になったお屋敷が姿を現す。
足を引きずるようにして屋敷の門の前まで来ると、呼吸を調えるため、僅かな休憩を取る。
「やっぱり、ここなんだ」
ここまで点々と続いた血痕はお屋敷の門の前で、ぷつりと途切れていた。
念の為、お屋敷の周りを確認してみるが、他には血の跡は何処にも見当たらない。
見るからに厳めしく重々しい金属製の門へ近づくと、すこしだけ押してみる。初めてここへ来た時には、姫守君が触れただけで門はあっさりと開いたが、今はピクリとも動かなかった。
呼び鈴はないかと探していると、不意に、鉄柵の上に飾られた金属の鳥と目が合う。
前回、来た時にはきちんと観なかったが、鉄柵の上に飾られている金属の鳥は、ちょうど門の前にいる者を値踏みするように、体は門の外へ向けたまま首だけを捻じる様にしてこちらを見つめていた。そのなんとも不自然な姿に、無機物でありながらも恐怖を感じてしまう。
「あの、私、歌敷舞子って言います。ええっと、姫守君のクラスメイトで以前こちらにお世話になりました。あの、唐突にこんな事を言うのも不躾ですが、ここに怪我をした狼くんがきませんでしたでしょうか?」
門の前から屋敷に向かって精一杯に声を張り上げる。はたして屋敷の中に聴こえているのかは分からなかったが、それでも止めるわけにはいかなかった。
「その子が怪我をしたのは私のせいなんです。私のことを庇ったせいで。だから、どうしても何かしてあげたくて。私に出来る事なんてなにもないかもしれないけど…」
屋敷からは何の反応も返って来なかった。
仕方のない事だというのは分かっていた。突然、家人の友達を名乗る人間が現れて、大声で家に入れてくれと叫んで、すんなり通してくれるなほうがおかしい話だった。
「お願いです。どうか、一目でいいので」
誰もいない門の前で頭を下げる。頬を涙が伝った。
ただ、狼くんの安否が知りたい。
微かな音に顔を上げると、さきほどまで閉まっていた屋敷の入口が、ほんのすこしだけ開いているように見えた。
「あ、あの」
もっとよく見ようと、門に身体を密着させる。すると、さきほどまでビクともしなかった門が、金属の擦れる僅かな音を出しながら開く。
突然の事に、体勢を崩し前めりで倒れそうになるのをなんとか堪えるが、反動で持っていた包帯が腕から転げ落ちてしまう。そのままコロコロと、包帯は屋敷の入口まで転がって行く。
「ミャッ⁈」
扉の隙間から小動物の驚く声が聴こえる。
「もしかして姫ちゃん?ねぇ姫ちゃんでしょ?」
驚かさないようにゆっくりと近づき、扉の隙間から中を覗き込むと、ちょうど姫ちゃんと目が合う。
「ミィ」
まるで、「こっちへおいで」、と言うように姫ちゃんは前足で手招きする。
「おじゃまします」
家人?の許しを得たようなので、ゆっくりと扉を開けて中へと入る。
ちょこちょこと足元に駆け寄ってくる姫ちゃんをやさしく抱き上げる。
「姫ちゃん、あのね、私ここに怪我をした狼くんを探しにきたの」
「ミュ?」
可愛らしく小首を傾げる仕草が、あの狼くんを彷彿させた。毛色の違いはあれど、姫ちゃんの雰囲気は何処となく狼くんと似ていた。
「ねえ、姫ちゃんは狼くんのこと知らない?」
姫ちゃんは、つぶらな瞳でしばらくこちらを見つめていると、腕の中から飛び降り、よちよちと玄関正面の扉の方へと歩いていく。
姫ちゃんの姿を目で追うと、正面扉の前に、以前来た時には無かった椅子が一つ置かれている事に気がつく。椅子の上には見覚えのある白の上着が綺麗にたたんで置かれていた。
手に取ってみると、それは以前に姫守君から借りたパジャマと同じものだった。
「これ、もしかして着なさいって事かな?」
ここまで無我夢中でやって来たため、自分の恰好なんて気にもしなかったが、改めて自分の恰好を見ると、いつ通報されてもおかしくない酷い有様だった。
「ありがとうございます。お借りします」
「ミィミィミィ~」
「どうしたの、姫ちゃん?」
姫ちゃんは何かを訴えるように鳴き声をあげながら、カリカリと扉を爪で掻き始めた。
たしか、正面奥にはお祖母様のお部屋があると姫守君は言っていた。姫守君のお母さんは留守のはずなので、この服を用意してくれたのも、そのお祖母様ということだろうか?
もしかしたら、この奥に狼くんがいるかもしれない。そう思うと、吸い込まれるように正面扉のドアノブに手が伸びる。
扉を開けようとした瞬間、
「ここへ入る許可を出した覚えはないよ」
扉の奥からの咎める声に、反射的にドアノブから手を放す。
「あ、すいません。その、無理やり押しかけてしまって・・・。それに上着あ
りがとうございます」
突然の声に驚いてしまうが、それと同じくらい驚かされたのが、おそらく声の主である姫守君のお祖母様の声だった。お祖母様というからには、それなりに高齢の方を想像していたが、その声は意外にもかなり若々しく、女性というよりは、むしろ少女のような印象を受けた。
「あの子の傷の手当をしてくれたんだろう?ならお礼はいらないさ」
あの子というのは狼くんの事で間違いないだろう。
やはり、狼くんはこの屋敷と何らかの関係があったのだ。
しかし以前、姫守君は自分の家族は祖母と母と姫ちゃんだけだと言っていたはずだけど。
「あ、あの、狼くんは無事なんでしょうか?出来ればすぐにでも病院へ連れて行ってあげたいのですが」
「うん?ああ、心配はいらない。あの子の手当ならもう済んだからね」
扉の奥の人物は、随分と落ち着き払った声でそう告げる。
済ませた?あんなに大きな怪我をして、血もたくさん流れたのに?
「えっ、それは怪我の治療を終えたという事ですか?あれだけの怪我をしたんですよ?それをあなたが一人で治療したという事ですか?失礼は承知ですが、そんなのとても信じられません!」
「ふふふっ」
この人、今笑った⁈こっちはこんなに必死なのに!
あっという間に頭に血が登る。怒りに任せ、再びドアノブを握り締める。
「ああ、すまないね。べつに舞子ちゃんを笑ったわけじゃないんだよ。ただ、なんというか、あの子の事を心配してくれる友人が出来て、それが嬉しかったんだよ。他意はないから許しとくれ」
「はあ・・・」
変な気分だった。扉の奥の女性の声からは、切羽詰まった様子は微塵も感じられず、世間話をしているかのような語気しか感じられなかった。
それが余計に私を苛立たせた。
「あの、じゃあせめて狼くんに会わせて貰えませんか」
「申し訳ないけど、それはできない」
「お願いです!一目でいいので」
「舞子ちゃんがあの子の事を心配してくれるのは、家族としてとても有難いと思う。出来るなら直ぐにでも会わせてあげたいくらいだ。だけどね、今は色々と込み入った事情があって無理なんだよ。なによりあの子がそれを望んでいないからね」
「そんなのどうして貴方に分かるんですか!」
こちらを拒む女性の言葉よりも、狼くんが私を避けているという事実に、カッとなって声を荒げてしまう。
「怪我をしたあの子が、舞子ちゃんの傍を離れて、此処まで戻ってきた。それが理由じゃいけないかい?」
「・・・・」
どうあっても会わせてくれる気がない事だけは理解できた。
いっその事、無理やりにでも部屋に入ってしまおうか。
「ミィ」
いつの間にか足元にいた姫ちゃんが心配そうに、こちらを見つめていた。
「あっ」
そうだった。今の自分は他人の家に無理やり押しかけて、その上さらに我儘を言って駄々をこねているだけの子どもでしかなかった。
「帰ります…」
「すまないね」
その声には、心の底から申し訳なく思う気持ちが込められていて、さきほどまで感情のままに振舞っていた自分が恥ずかしく思えた。
扉に背を向けると、俯いたまま入口へ向かう。
「約束するよ」
「えっ?」
扉の奥からの声に振り返る。
「あの子の怪我がすっかり癒えたら、一番に舞子ちゃんの元へ会いに行かせると約束する。一族の長としてね。まあ、私が言わなくとも、あの子なら自分から進んで行くだろうけどね」
「その、『待ってる』って伝えてくれますか?」
「ああ、かならず伝える」
「よろしくお願いします。じゃあ、姫ちゃんまたね」
奥の扉に向けて一礼すると、こちらを見上げる姫ちゃんの頭をひと撫でしてから屋敷を出る。
「ああ、それと最後に」
「?」
玄関の扉を開けて外へ出たところで、再び奥からの声に呼び止められる。
「あの子の友達になってくれてありがとう」
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