第11章

 ガサガサと、腰の高さまで伸びた草を掻き分け、ぬかるんだ土に幾度も足を取られながらも、懸命に歩みを進める。

「ハァハァ」

 すでに制服の下はビショビショになり。靴もドロドロになっていた。

 途中まではまだ良かった。人目を避けようと、姫守君の家へと向かう道を通ったのだが、予想通りその山道は途中までは学校へ続く歩道と並行するように続いていた。

 おかげで学校の校門の近くまで来ることができたが、生憎、道は途中で逸れてしまっていたため、止む無く山の中を分け入る羽目になったのであった。

「ふぅ。・・・わっとっと」

 傾斜に足を取られそうになるのをなんとか堪える。すでに何度も尻餅をついていたため、もう慣れてしまった。

 

 ちょうど第二校舎の裏手に差し掛かる。しかし、まだ兄の姿は何処にも見えなかった。

 そもそも、まだ兄は裏山にいるのだろうか。もしかしたら、すでに校内に入り込んでいる可能性もあった。

「お兄ちゃん、何処?」

 呼び掛けてみるも、当然返事はない。

 すると、チャイムがなり、ガヤガヤと騒がしく生徒たちが校舎から出てくる。ぞろぞろと列をなす生徒たちは体育館へと入って行く。

「そっか。体育館でする事にしたんだ」

 きっと委員長や香さんのおかげなのだろう。生徒たちの様子を見守っていると、視界の隅で何かが動いたような違和感を覚えた。

「なんだろ。気のせいかな?」

 木陰に隠れたまま様子を窺っていると、違和感がした方向の草むらからガサガサと何かが動く気配がする。

「ハア⁈っざっけんなよ!どういうことなんだよ、コレは‼」

 突如、草むらから男性の大声が挙がった。

 その聞き覚えのある声は間違いなく兄のものだった。

 こちらから十数メートルくらい離れた坂の下に兄はいた。

「こんなの聞いてねえぞ!あの女、いい加減な事ばっか言いやがって。見てろよ、あとでアイツも思い知らせてやる!」

 あの女とはおそらく井口裕子のことだろう。なにやら不穏な言葉を口走ると、兄は草むらの中から立ち上がり、そのまま校舎の方へ下りて行く。

「お、お兄ちゃん」

 大声を出したつもりだったが、まるで声は出ていなかったようで、お兄ちゃんはこちらに気づかずに行ってしまう。

「お・・・お兄・・」

 どうしても気ばかりが焦ってしまう。これでは駄目だと、大きく深呼吸すると、丸めた拳をお腹にグッと押し当てながら、肺に溜まった空気を押し出す様にする。

「お兄ちゃん‼」

 背中越しに兄は体を一瞬ビクッと震わせると、叱られた子どものようにゆっくりとこちらを振り返る。

「へ、な、なんでオメエがいんだよ⁈」

 振り返った兄は、私の存在を確認すると途端に上擦った声でこちらを威嚇してくる。

「なんでって、お兄ちゃんときちんと話しがしたくて・・・」

 まるで、私がここにいるのがありえないとでも言いたげな兄の様子に、逆にこちらが戸惑ってしまう。

「ハッ、今更なんの話なんだよ!オメエはいいよな。オレを散々笑い者にしたあげく、オレの家も奪いやがって‼何様だっオメエはっ!」

 兄は顔を歪ませ、両腕を振り乱して、あらん限りの怒りを噴き出した。

「だって・・・、だってそれはお兄ちゃんが学校に」

「うるせぇ‼そもそも最初にオレに泣きついてきたのはテメエだろうが!」

 こちらの言葉待たずに兄はさらに怒りを吐き出した。

「うん、そうだったね、お兄ちゃんにばかり嫌な思いさせて反省してます。だからね、もういいんだよ。お兄ちゃんに頼らずに、なんとかやってみるから」

「ハハッ、なんとかってお前にそんなの出来るわけねぇだろ」

 兄は話の端から笑い飛ばす。

「たしかに私一人じゃ無理だよ。でもね、今は信頼できる友達が出来たんだよ。だからその子たちと一緒に頑張っていくからさ」

「そいつ誰だよ」

 怒りに満ちた目に、一瞬冷ややかな光が宿る。

「えっ?」

「その友達ってのは誰なんだよ。今すぐここへ呼べ。オレが直々に試してやるから」

 何を言っているのか分からない。

 連れてくるって、どうして?

 試すって、なにを?

 そもそも、委員長にあれだけ酷い事をしておきながらどうしてそんな事が平然と言えるてしまうのか、まるで理解出来なかった。

「そんなの無理だよ…」

「無理かどうかはオレが決める事だろ!お前は黙ってオレの言う通りにしてればいいんだよ」

 兄はズカズカと物凄い剣幕でこちらに迫ってくる。

 恐怖から反射的に後退ってしまう。

「お願いだよ、お兄ちゃん。もうお家に帰ろう?ね?私のために無理して頑張ってくれてるのはすごく有難いけど、これ以上はホントに取り返しがつかなくなっちゃうよ。だから……」

 お兄ちゃんの足がピタリと止まる。

 

 一瞬、改心してくれたのかと期待したが、次の瞬間、そうではない事を悟らされる。

「は、お前のため?あ~あはっはっはっは、んな訳ないじゃん!なんでオレがわざわざお前なんかのためにそこまでしてやらなきゃいけねえんだよ!」

「えっ?」

 頭がパニックになりそうだった。だって、今迄散々暴れてきたのは不器用ながらも家族のためだと思っていた。それを兄は、あっさりと否定して笑い飛ばした。

「じゃあ、どうして・・・」

「どうしてって、逆にこっちが聞きたいよ!なんでお前、のこのこ学校に行ってんだ!なに生意気に友達なんて作ってんだよ!オレが、オレだけがこんなに苦しんでるんだぞ‼親父もお袋も勝手に死にやがって、おかげでオレは大学にも落ちちまって、オレはこんなに、こんなにも不幸なんだぞ‼お前もオレの妹なんだったらオレと同じ不幸を味わえ!お前も不幸になるべきだろうがっ‼」

 兄の姿をしたソレは、ひと息で言葉を吐き出すと、荒い息をつきながら地団駄を踏み、こちらを睨みつけた。


 あまりの言葉に頭が理解を拒んだ。そんなはずはないと思いたかった。仲が良いとは言えなかったが、それでも唯一の家族だった。その唯一の家族へ向ける言葉が不幸を願う事だなんて。

「嘘だよね?・・・ねぇ、お願い嘘だって」

 さきほどの言葉を今すぐ否定して欲しかった。

「ハア?なんでわざわざ嘘つかなきゃいけねえんだよ。あ~てか、もうどうでもいいよ、そんなの。それよりもお前にいい物見せてやるよ」

 そんな事の一言で片付けた兄は、ごそごそと上着を捲る。すると、そこにはズボンに引っ掛けるようにして、黒い柄のような物が覗いていた。


 ゾクッと背筋が凍る。

 兄は慣れない手つきで柄を掴むと、革製のカバーから慎重に抜き出す。それは10センチはありそうな刀身に、背部にギザギザの付いたサバイバルナイフだった。

「じゃーん!どうだ、かっけぇだろ!包丁でも良かったんだけど、かっこわりぃからな」

 兄はさらに、ポケットをまさぐると、さきほどのナイフよりも小ぶりで刃が九の字に曲がったナイフを取り出し、それぞれ両手に持つと構えてみせた。

 素人目にも扱い慣れていないことはすぐに判った。

「そんなの振り回したら危ないよ」

「はぁ~お前さ、ホント空気読めないな。これから危ない目に遭うのはオレじゃなくて、ここの学校の生徒共なんだけど?」

 呆れたといった様子で兄は答える。

「そんな事したら警察に捕まっちゃうよ?刑務所に何年も入れられちゃうんだよ。それでもいいの?」

「んあ?べつに?どうせやる事ないし。死刑にならないならなんでもいいよ。もしかしたら精神病院に入って、楽ちん生活できるかもしれないしな~」

 なんて事ないように平然と応える兄が恐ろしかった。

 そして理解した。罪悪感を持ち合わせていない兄に説得は無理だと。それでも如何にかして止めなくてはいけない。

「ま、お前はそこで生徒共の叫び声を聴いてろよ」

 兄は踵を返すと、これから遊びに行くかのような軽い足取りで校舎へと歩いていく。


「あっ、待って」

 躊躇っている場合ではなかった。深く息を吸い込むと、あらん限りの声を振り絞る。

「ま、…待てって言ってるでしょ、この馬鹿兄っっっ‼」

 驚いた兄がこちらを振り返る。しばし茫然とした後、その顔はみるみるうちに紅潮していく。

 今なら逃げられた。でも今すぐに逃げてしまえば、兄は目標を生徒に切り替えるだけだった。なんとか引き付けて学校から遠ざけねばならなかった。

「お前今なんて言った⁈」

 肩を震わせた兄が、こちらに詰め寄る。

「馬鹿って言ったのよ。こ、この馬鹿!」

 いますぐに逃げ出したかった。

「テメェ、兄に向って」

「何が兄だっ!妹の不幸を願うような兄なんてこっちから願い下げだ!刑務所でも病院でも何処ででも一生入ってればいいんだ!」

 怒りを露わにした兄は、さらに一歩二歩とこちらへ迫ってくる。ナイフを握り締める手が怒りのためか震えていた。

「痛い目に遭いたいみてぇだな」

「弱い人にしか強く出れない癖に!お前なんか全然怖くない!」

兄との距離がどんどん狭まっていく。

 兄がナイフを振り上げようとした瞬間、一目散に山へ逃げ込むべく駆け出そうとする。

「舞子さん!」

その瞬間、背後からこの場には場違いなほど明るい声で、誰かから名前を呼ばれる。あまりに突然の事に一瞬動きが遅れてしまう。




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