第10章1

「なんだかとっても不思議な子ね」

 委員長と姫守君を送り出すと、二人が出て行った扉を見つめたまま、香さんは呟いた。

「でも、そこが魅力的なんですよね」

 隣で香さんがニヤリと笑う。

 二階からノシノシと180cmはありそうなガッチリとした体格の隆之さんが欠伸をしながら降りてくる。見た目はちょっと強面だが、無口で温厚なパパさんだ。

「パパ、惜しかったわね。もうすこし早かったら噂の姫守君に会えたのに」

 パパさんは聞き慣れない名前にすこし考え込むが、昨夜の会話を思い出したようで「ああ、残念」、と短い感想を述べた。

「パパのご飯の支度できてるわよ」

 香さんの言葉に「おう」、とだけ返事をして隆之さんは居間へ行く。

「さてと、それじゃあ私は家の用事を済ませちゃおうかな。そうだ、気が早いけど今晩の献立、なにかリクエストはある?」

「え、う~ん、私はなんでも」

 香さんの手料理はなんでも美味しかったので、特にリクエストはなかった。

「なんでもが一番困るのよね~。パパは何がいい?」

「…肉」

 隣の部屋からそれだけが返ってくる。

「お肉…お肉。あ、じゃあハンバーグなんてどう?」

「私は大好物です」

「そう、良かった。せっかくだからあとで一緒に作りましょ。とびっきり美

味しいハンバーグのレシピ教えてあげる♪」

「はい、ありがとうございます」


 これから家事をこなさなければならない香さんの邪魔にならないよう部屋へと戻ってくる。

 時計を見ると、時刻は七時半だった。今頃は二人ともバスに乗り込んだ頃だろうか。

「さて、何しよう?」

 最近は一人になる事があまりなかったので、いざ一人で過ごすとなると暇を持て余してしまう。

 「なんだかんだ、一人っきりになる事無かったなー」

 部屋をぐるりと見渡す。まだここへ来て三日目だけど、この部屋にも随分と愛着が湧いてきていた。

 唯一、この部屋にそぐわない物を挙げるとすれば、それは机の上に置かれたお兄ちゃんのパソコンだった。こちらへ来る時に、委員長が持って来た物だった。

 あのメールの後も、委員長は何度も井口裕子と交信しようと試みたが、残念ながら一度として返信はなかった。

「そういえば今日はまだだっけ?」

 確認するのはいつも委員長だったが、隣で何度も見ていたのでやり方は心得ていた。

 パソコンの前に座ると、スリープ状態のパソコンを立ち上げる。キーボードの隅に貼り付けてあるパスワードが書かれたメモを見ながらキーを押していく。

 モニターに福校外のページが表示される。

「よしよし」

 以前まではパソコンなんてまるで興味がなかったが、こうして触れていると案外悪くないように思えてくるから不思議だった。

「私の場合は先に携帯だけどって…あれ?」

 メール受信箱を確認してみると、宛名のない新着メールが一件着いていた。

「井口裕子じゃない?」

 宛名もなく、件名もない、うす気味悪いメールを今すぐ捨ててしまいたかったが、そういう訳にもいかなかった。

 恐る恐るメールを開くとそこには短い一文があった。

 

   【メチャクチャにしてやる】


 それ以外には何も記されていなかった。

 たったそれだけの一文に、言い知れぬ恐怖と、溢れるくらいの強い憎悪を感じてしまう。

 「誰……、ううん、きっと…」

 間違いない。お兄ちゃんだ。


 駆け出そうとする気持ちを必死に抑えて、もう一度だけメールの内容を確認する。怒りをを吐き出すような一文だけだった。はたしてこれを伝えたところで、何か変わるのか分からなかったが、それでも誰かに伝えなければと、心臓が警鐘を鳴らしていた。

 部屋を飛び出し、階段を駆け下りると、居間に置かれた電話機に飛びつく。

「どうしたの⁈そんなに慌てて」

台所で荒い物をしていた香さんが、驚いて訊ねてくる。

「あの、委員長の、雪ちゃんの電話番号を、教えて下さい!」

「それなら電話機の横に電話帳が」

 香さんが言い終わるのを待たず、電話機の傍を探すと手書きの電話帳が置かれていた。急いで受話器を取ると、【雪ちゃん】と書かれた番号を打ち込んでいく。

 三回目の呼出音が鳴ったところで、ようやく電話が繋がる。

「もしもし」

 委員長の声を聞くとすこしホッとする。

「もしもし、委員長!」

「えっ歌敷さん?どうしたの?」

「委員長、あの・・・メールが着てたの」

 こちらの切羽詰まった空気が、電話越しにあちら側にの伝わる。

「・・・そう、井口裕子はなんて?」

「違うの。井口さんじゃなくて、知らない人から。でも、多分・・・」

「でも、あなたのお兄さんと交流があったのは井口裕子だけでしょ?もしそこに井口裕子以外からメールが来るとしたら・・・あっ、本人か!」

 流石に委員長は理解が早かった。

「うん、私もそう思った」

「それで内容はなんて?」

「『メチャクチャにしてやる』って、それだけしか書いてなかった」

「なによ、それ!犯行予告のつもりなら、もっと具体的に書けってのよ!」

 電話越しでも委員長の苛立ちがこちらまで伝わってくる。

「どうしよう?ねえ、どうしたらいいのかな?」

「今、学校へ向かってる途中なんだけど、学校に着いたらすぐに学年主任の先生に伝えておくわ」

 本当に取れる手立てとしてはそれくらいしかないのだろうか?焦りからかまるで頭が動かない。

「ねぇ、大丈夫?何度も言う様けど、あなたが気に病む必要はないんだからね?」

「……うん」

「隣に姫守君がいるけど代わろうか?」

「ううん、平気」

「そう?じゃあまた何か動きがあったら連絡ちょうだい。こちらでも何かあっ

たらすぐに連絡するから」

「うん。ふたりとも気をつけてね」

「ええ、それじゃあ」

 電話が切れる。

 隣で聞いていた香さんが心配そうな表情でこちらを見る。

「部屋に…戻ります……」

「そうね。それがいいわ」

 香さんに見送られながら、重い足取りで部屋へと戻る。


 ぼんやりとその場に立ち尽くす。

「本当にそれでいいのかな・・・」

 姫守君はきっと大丈夫、と言っていた。

 委員長は気に病む事じゃない、と言ってくれた。

 香さんはなにも心配いらない、と言っていた。

 何もする必要はない、と弱気な心が囁いていた。

「そんなの・・・出来るわけないよ・・」

 どんなに労りの気持ちで慰められて、どれだけ気遣いの言葉を掛けてくれても、心の底に泥のように溜まった後悔の念が消える事はなかった。

 いや、消えるはずがない。だって、引き金を引いてしまったのは私なんだから。悪気はなかったとか、こんな大事になるとは思わなかった、なんて言い訳にならない。


「またお兄ちゃんが誰かを傷付けようとしてる」

 なにか、なにか自分にやれることはないだろうか・・・。

 視線をさ迷わせていると、ふとノートパソコンが目に入る。

 今となっては、私とお兄ちゃんが唯一接する事の出来る手段だった。

「もしかしたら、思いとどまってくれるかもしれない」

 画面は、さきほどの兄からのメールが表示されたままになっていた。

 震える手で返信メールを入力していく。しかし、謝罪の言葉を打ち込んだところで手が止まる。

「そうじゃない。そうじゃなくて、私は謝りたいんじゃない」

 謝罪の言葉を口にした所で無意味である事は、先日の学校での一件で嫌というほど分からされた。

「話がしたい。ただ謝るんじゃなくて、ちゃんと話がしたい」

 何が正しいのか分からなかったが、なるべくお兄ちゃんの感情を逆撫でしないように気をつけて、慎重に文章を打ち込んでいく。

「出来た」

 内容はいたってシンプルだった。シンプルすぎてこの切羽詰まった状況には似つかわしくないほどだった。

それでもメールを送信する。

お兄ちゃんに会いたいと伝えた。会って話がしたいと。もう手遅れかもしれないけど、それでもお兄ちゃんの本心と真っ直ぐに向き合いたかった。


時刻は七時半頃。

 おそらく姫守君と委員長は学校へ着いた頃だろう。もう少しすれば校庭に全

校生徒が集まり、朝礼が始まる。時間はもうあまり残されていなかった。

 無反応なモニターの前でジッと待っていると、ポンッ、という今重苦しい空

気には不釣り合いな軽い電子音が鳴る。

画面を見ると、宛名のないメールが届いていた。

 慌ててクリックして開いてみる。


  【メールは読んだ

   もしどうしてもお前が仲なおりしたいなら学校の裏山までこい

   ちゃんと見てるからな。おかしな真似をすればわかってるな!】


 お兄ちゃんは学校の近くにいるという事実が、それだけで最悪のシナリオが頭をよぎる。

 香さんに知らせるべきか一瞬悩んだが、考えるよりもはやく身体が動いてしまう。

 学生鞄からバス定期の入った財布を取り出すと、音を立てないようにそっと部屋を後にした。


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