第5章4

 兄の歌敷亮太はほっそりとした痩せ気味の体型で色白な肌をしている。運動が大の苦手で部屋の前を通るとよくパソコンやお気に入りのアイドルの音が聴こえた。両親が亡くなってからはそれがさらに顕著で顔色も悪く頬は痩せこけていた。知らない人が見たら病院から抜け出してきた患者かと勘違いするかも。

 その兄は今、息を荒げて怒りの籠もった瞳で私を睨みつけていた。

 

「お前なにやってんだよ」

 

 くぐもった声で唸るように言うと、兄は一歩私との距離を縮める。

 心配した男性教師の一人、ジャージを着た長身な体育教師が兄を押し止める。


「関係ねえだろお前ら!部外者は入ってくんな!」

 

兄は顔を歪ませて怒鳴り声を上げるが、その兄よりも一回りも大きくがっしりした体型の体育教師は、兄の怒声にもとくに怯んだ様子はなく、それが余計に兄を苛立たせた。


「わざわざ来てもらってごめんなさい、お兄ちゃん。今日は学校が終わったらすぐに家に戻りますので、どうか家で待っていてくれませんか?」

「ハァー?何寝ぼけたこと言ってんだ!それが出来ないから俺がわざわざ来たくもないのに来てやっただるが!」


 気持ちが昂ると舌が回らず、語尾が聞き取りづらくなるのは兄の特徴だった。


「勝手なことをしてごめんなさい。お兄ちゃん」

 

 普段から同じ家に居ても言葉を交わすどころか、顔を会わす事すら稀だったが、それでも兄には家長としてのプライドがあった。とにかく今は、兄の感情を逆なでしないようして、この状況をなんとかして納めなくてはならない。

 

 「俺は今迄、散々お前に甘く接してきてやっやんだぞ。それなのにお前は好き放題で、ふらふらと遊び呆けやがって。これじゃ親父も由美子も浮かばれねーぞ!」

 

 由美子というのはママの本名だった。兄はパパがいないところでよくママを本名で呼び捨てにしていた。私はそれが大嫌いだった。


「お兄ちゃん、ちゃんとお母さんって呼んで」

「うるせえ!ワガママいってんじゃね、おめえは自分の立場わかってっか?」

「家に帰らなかったことは謝ります。でもそれには事情があって」

「嘘をつくな!嘘をつくな!お前なんかに事情があるもんかっ!」

 端から嘘だと決めつけた兄はずかずかと詰め寄ってくる。

「お兄さん、どうか落ち着いて。」

 周りの教師たちが兄を刺激しないように、ゆっくりと私との距離を開けさせる。

「歌敷。お前が家に帰っていないというのは初耳だけど、それは本当なのか?」

 私たちの間にいた体育教師が訊ねてくる。

「ええっと・・・」


 一日目の屋上での事は話す訳にはいかなかったが、それは二日目も同じだった。もしここで姫守君の名前を出せば、それを知った兄がどんな厄介事を姫守君に起こすかわからない。


「横から失礼します。舞子さんの事情でしたら私が説明できます」



 声に驚いて振り向くと、そこには委員長が立っていた。てっきり教室へ戻ったものだとばかり思っていたのだが、ずっと後ろにいてくれていた。

 

 「発端は先生方の中にもご存知の方も多いかと思いますが、この学校の生徒たちが利用しているSNSです。その中に舞子さんをターゲットに中傷する書き込みを多く発見しました」

「おい、おかしいぞ。舞子はPCもスマホも持ってないだろ」

 兄は話の腰を折るように委員長に怒声を浴びせたが、委員長はまるで動じない。 

「はい。ですから私が舞子さんに教えました。話を続けますが、問題なのはその書き込みというのが次第にエスカレートしていった事なんです。具体的に言いますと舞子さんの日常を曝け出すような内容でした。つまり舞子さんは何者かからストーキング被害に遭っているかもしれないんです」


 困りきった顔の教師陣は、ここへきてストーキングという新たな問題の登場に皆驚愕する。

 

 「ストーカーって、歌敷ほんとなのか?」

 

 どう返事をしたものか分からず俯いてしまうが、それを肯定の意思表示だと取った体育教師は、他の教師達と互いに顔を見合わせて思案顔になる。


「ふざけんなッこんな奴にストーカーなんてつくわけないだお‼」

「あくまで可能性です。完全に一致というわけではありませんが、いくつか学校外での舞子さんの行動と類似している箇所が見受けられました」

 

 そう言うと、委員長は自分のスマホをタッチしてSNSの該当ページを開くと体育教師に手渡して見せる。


「うわ、最近の子はえげつないな~」

 いくつかの書き込みに目を通した体育教師は苦り切った顔で呟く。


「ああ、確かに書いてるな。家に帰らず遊び耽って・・・」

 そこまで読むと、体育教師はばつの悪い顔をしながらこちらに向き直る。


「歌敷。ここに書いてある事は本当のことなのか?」

「家に帰らなかったのは本当です。でも夜中に遊び回ったりはしてません」


結局、当人の私はそこに何が書かれているのか、具体的な事は知らなかった

が、それでもそれが事実ではないことだけは確かだった。

 

「嘘をつくなよ!だったら二日も家に帰らず、何処で何してったんだ!」

 周りの中で、唯一の家族である兄だけが私の言葉を否定した。


「彼女なら私の家にいました」

 驚く私をよそに、委員長はキッパリと告げる。

「それは斎藤が自宅に泊めてあげたということか?」

「はい、その通りです。そもそもSNSについて教えたのは私です。そこで歌敷さんから相談を受けました。確証は持てませんでしたので、数日間、私の家で様子を見る事にしたんです。ただのいたずらなら取り越し苦労で終わりますが、もし本当にストーカーであれば、先生方や警察の方に相談しなければいけませんから」


「ハア⁉相談なんていらねえだろ!俺がいるだろが!」

「「「・・・」」「」

 当然ながら、周囲の中に、誰一人その言葉に同意する者はなかった。

 

「舞子さんは思春期の女の子です。難しい年頃だと思ってどうかご理解下さい」

 あなたもその難しい年頃でしょうが、とツッコミたくなる気持ちを我慢する。

 そして女性特有のナイーブな問題だと言ってしまえば、男性陣で異論を唱えられる者は誰もいなかった。

 いつの間には、場の空気は完全に委員長のペースになっていた。

 兄は肩を震わせて、トマトのように顔を真っ赤にする。


「もういい。そんな御託はまっぴらだ」

 言うや否や、教師達を押しのけて私に詰め寄ろうとするが、またしても教師達に阻止されてしまう。

 すると、さらに顔を赤くした兄は口の端から泡を出しながら聞き取れない喚き声を上げながら正面に立っていた体育教師に掴み掛った。

 意表を突かれた教師は押し倒されてしまい、兄は組み敷いた教師の首を絞めようとするが、慌てて駆け寄った他の教師達に羽交い締めにされて取り押さえられる。

 あまりに突然の出来事に、私も委員長もどちらも動くことが出来ずにその場に固まってしまうが、生徒の危険を感じた用務員さんが用務員室から避難させてくれる。


 用務員室の外では担任の川崎先生がオロオロと落ち着かない様子で立っていた。

 

「どうだったの?なんとか穏便に済みそうなの?」

「中の音が聴こえませんか?」

 委員長はまるで呆れたといった様子で告げると、川崎先生を残したまま、私の手を引きその場から立ち去る。


 用務員室からは、さきほどよりも大きな声が校舎内に響き渡っていた。


「あのままにして良かったのかな?」

「知らないわ」

 その問いに、委員長はあっさり一刀両断する。

「そもそも一高校生の女生徒に大人たちは何を期待してるのよ!」

 委員長は「不甲斐ない」と言いたげに大人達を叱責する。


 そのまま教室へと戻るのかと思いきや、中庭を通り第二校舎へと向かう。


「あの、教室には戻らないの?」


 舞子の質問に「そんな気分じゃない」と答えた委員長は、こちらを振り返らず私の手を引く。着いた先は図書館だった。

 誰もいない図書館へ入ると委員長は適当な席に腰を下ろす。

 

「はあ~~」

 委員長は机に突っ伏すと大きく息を吐く。

 その様子を隣で見ていると、委員長の身体が小刻みに震えているのがわかった。

 どうやら怖かったのは私だけじゃなかったらしい。


 あえて声を掛けることはせず、委員長の隣の席に座る。へばっている委員長

の隣で、昨日見つけたお気に入りの狼の写真集をしばし読み耽った。

 

「あなた随分いい度胸してるわね」

 しばらくすると、ようやく落ち着きを取り戻した委員長が顔を上げる。

「え?」

「この状況でよく平然と本なんて読んでいられるってことよ」

「べつに平気じゃないよ。今だってまだ心臓がすこしドキドキしてるもん。今こうしていられるのも、委員長が傍に居てくれたおかげだし。私だけだったらきっとお兄ちゃんに何も言えなかったと思う。だから委員長にはすごく感謝してる」

「別に感謝なんていらないわ。状況はなにも好転していないんだから」

 

 たしかに委員長の言う通り、状況はなにも良くなってはいなかった。ただそれでも、周りの助けがあったおかげで、あの兄と向き合えた事は、自分にとって何かしら気持ちの部分で前進出来たような気がした。


ほどなく、学校の外からサイレンの音が近づいてくるのが分かった。

「ようやく重い腰をあげたわね。もっと早くやれっての」

「…うん」

 

 時計を見ると、六時限目ももう終わろうという時間だった。

 この上なく憂鬱な気分ではあったが、重い腰を上げると教室に向かう。

 

「この様子だと、今日の部活動は中止になるだろうから、部活見学はまた今度にしましょう。姫守君にもそう伝えておいて」

「うん、わかった」


 教室へ戻ると、クラスメイトたちの視線が一斉にこちらへ注がれる。

 隣の席を見ると、姫守君の席は空になっていた。教室を見渡してみるが何処にもその姿はなかった。

 近くの席の誰かに訊ねようかとも考えたが、迷惑がられることは分かっていたので、敢えて訊ねることはしなかった。



 


 











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