第5章3
渋々、納得した様子の委員長は踵を返し屋上から立ち去ろうとする。だが、途中でふと思い出したように立ち止まるとこちらに向き直る。
「そうだった。肝心な事を訊くのを忘れてたわ。放課後の部活見学、今日は運動部を周るつもりだから、放課後ちゃんと残っておいてね」
「あっはい、よろしくお願いします」
「それじゃあ」
「あの、サンドイッチおひとつ如何ですか?」
自分でもどうしてそうしようと思ったのか謎だったが、ランチボックスを差し出す。
「ありがとう。でも気持ちだけ受け取っておくわ」
わずかに微笑むと委員長は屋上を後にした。
五時限目のチャイムが鳴ると教室へと戻ることにした。
階段を下りて曲がり角に差し掛かると、ちょうど女子トイレから出てきた井口裕子と運悪く出くわしてしまう。
(うげっ)
言葉を交わすことはなく、教室へと向かおうとするが、なぜか井口裕子は歩幅を合わせると、私の真横に立って歩き始める。気分は最悪だった。
気にしないようにはしていたが、それでも井口裕子から向けられる嫌味な視線と口元を歪ませたニヤニヤ笑いは、私の心を容易く揺さぶってきた。
「席が隣同士だからって彼に色目を使うのは止めてくれない?」
「……」
「それとさ、席変ってよ。別にいいでしょアンタは何処でも。ねぇ?私さ、もうすぐ姫くん落とせそうなんだよね~。キスしてるところ撮ったらアンタにも見せたげるからさ」
今にも飛び掛かりたい衝動を必死に押し止める。
「あ、それから毎晩遊び呆けるのは勝手だけどさ、そんなのが教室に居られるとクラスの評判が悪くなんだよね。ね、言ってる意味わかる?」
「……」
拳を強く握りしめて耐える。
「そんなに素行が悪いとさ、近いうちにヤバイ事になるかもよ」
井口裕子は最後に捨て台詞を吐くと、私の目の前ギリギリを横切り教室へと入っていく。
「ハア・・・最悪」
遅れて教室へ入ると、姫守君にやたらと体を近づけて話しかけている井口裕子が目に飛び込んでくる。
「どっちが色目使ってるのよ」
直後に教師が教室に入って来ると、井口裕子は名残惜しそうに姫守君から離れた。
騒ぎが起きたのは、五時限目も終わりに差し掛かった頃だった。
黒板の内容を書き写していた姫守君はペンを握ったまま、突然その場でピタッと動きを止める。そのまま授業には目もくれず、何かを探すように辺りをキョロキョロとを見回し始める。
「どうかしたの?」
先生にバレないよう小声で訊ねる。
「何の音だろう・・・」
「音?」
試しに、耳をすませてみるが、聴こえてくるのは教師の話し声だけだった。
「特になにも」
その時、下の階から誰かの怒鳴り声と騒がしい物音が三階のこの教室にまで響いてくる。
突然の騒音に教室内の生徒たちは動揺する。不審に思った教師は生徒たちに教室で大人しくしているように告げると、下の階へ確認に向かう。
教室から教師が消えると、途端に教室の中は興奮した生徒達の声で騒がしくなる。
階下から聴こえてくる男性の叫び声は次第に大きくなる。男子生徒数人が興味本位で教室の扉を開けようとするが、委員長に厳しく叱られる。
騒ぎの原因は分かっていた。なぜなら以前にも同じ事があったからだ。
(兄が来たんだ)
しばらくすると、階下での喧騒が嘘のように静まり返る。
あと数分で五限目も終了というタイミングで校内放送が流れる。内容は休憩時間中の間も、そのまま教室に留まり自習するように、というものだった。理由も聞かされず、ただ待機を命じられた事にクラスの生徒達は不満を漏らす。
六時限目開始のチャイムが鳴ると、しばらくすると教室に担任の川崎先生がやってくる。
この状況に不満を漏らす生徒たちを無視して、私の席までやってくると、川崎先生はこれから自分と一緒に来るように告げる。
生徒たちの視線が一斉に私へ向けられる。
「どうして歌敷さんだけ呼ばれたんですか?この騒ぎと何か関係があるんですか?」
井口裕子が口元に笑みを浮かべながら大声で質問する。
その質問には答えず、川崎先生は私に早くするようにと催促した。
だが、席から立ち上るができなかった。足にまるで力が入らない。腕は寒くもないのにガタガタと震えた。ただ立ち上がるという行為が今の私にはとても困難な事だった。
業を煮やした川崎先生が私の片方の脇を抱えて持ち上げようとするが、バランスを崩した私はその場で尻もちをつき、へたり込んでしまう。
担任からの叱責が飛ぶがよく聴こえない。
机に手を掛けようとするが、手にはすでに感覚がなかった。
周囲の冷たい視線が氷柱のように突き刺さる。
項垂れたままの私を見かねて、担任はもう一度立たせようとしたが、そこへ割り込むように、誰かが私の身体に手を廻すと、楽々と抱きかかえ椅子に座らせてくれる。
顔を上げると、そこには姫守君がいた。
「辛いなら行かなくてもいいよ」
姫守君は私の凍った手を握りながら、気遣うように告げた。
姫守君の瞳は周囲のクラスメイトの視線とはまるで違った。
姫守君の瞳はとても暖かく、こちらを励ましてくれているようだった。
姫守君の暖かい手を握っていると、まるでそこから自分の中へ勇気が流れ込んでくるように感じられた。
「ありがとう姫守君。大丈夫、ちょっと行ってくるね」
姫守君に支えられながら、慎重に立ち上がる。
「辛いなら一緒に」
「早く行きなさいよ。このままじゃあなたのせいで私たちまで迷惑じゃない」
姫守君の言葉を遮るように、井口裕子が吠える。全ての原因はお前だと言いたげに。
「ごめんなさい。すぐ行くから」
精一杯の空元気で返事を返す。
「姫守君もさ、あんまりその子に関わると危ないよ」
だが、姫守君は井口裕子の声が耳に入っていないように無視すると構わず私を連れ立って教室から出ようとする。
「ねえ、だからやめときなって!」
無視されたのが癪に障ったのか、井口裕子は語気を強める。さらに何かを言いかけたところで、教室の前の席から声が上がる。
「先生。歌敷さんは体調が優れないようですので、私が付き添います」
それは今迄状況を静観していた委員長だった。
言うが早いか、オロオロと事態に対処ができないでいる川崎先生の返事を待つ事はなく、委員長は姫守君が支えている方とは逆の腕をわざとらしく自分の肩に回す。まるで本当に体調を悪くした生徒の扱いだった。
「あとはまかせて」
私と姫守君にだけ聞こえるように、委員長は小声で呟く。
「ええ、そうね。男の子よりも女の子の付き添いの方が、まだ気が楽でしょう」
蚊帳の外だった川崎先生は、委員長の提案に深く考える事もなく納得すると、急ぎ足で教室を後にする。
「斎藤さん。あとはお願いします」
姫守君は委員長にそう告げると、支えていた手を放すと私の背にそっと触れてから席へと戻る。
「それじゃあ行きましょうか、歌敷さん」
委員長はわざとらしくそう言うと、私を支えながら教室を出た。
「あの、委員長ありがとう」
「あなた達二人とも、波風を立てずにはいられない性分なのかしら」
呆れたといった表情で委員長は愚痴を零す。
「姫守君はなにも悪くないよ。ホントにただ優しいだけだから」
「そんなこと、さっきの態度を見ればわかるわよ」
「うん」
「それにしても面倒なことになったわね」
「ごめんなさい。委員長の言葉に従っていれば」
「過ぎてしまった事は仕方ないわ。それに別にあなたを責める気はないから」
「えっ?」
「確かにあなたの行動は軽率だったし、ただの逃避よ。でも別に困難から逃げるのは決して悪いことじゃないわ。あなたの場合は特に自分で解決できる範疇を越えているしね」
どうやら委員長は落ち込む私を励ましてくれているようだった。
「それにしても不思議よね」
「なにが?」
「あなたのお兄さんよ。二日も家に帰らない妹を追って、わざわざ学校までやって来るなんて、…どうして学校に居るってわかったのかしら?」
「それは、たぶん学校に連絡したんじゃない?」
「それなら担任から歌敷さんに何か報せがあるはずでしょ」
「ああ、たしかに」
「まァどちらにしろ、面倒な相手である事に変わりはないわ。言葉が通じない可能性もあるから、ある意味井口さんよりも強敵かもね」
「…うん」
「ねえ、あなたはどうしたいの?」
「私は、できればそっとして欲しい。兄とは元々仲が良かったわけじゃない
けど、朝起きたらおはようって言えるくらいの仲に戻りたい」
それが困難であるという事は自分でも分かっていた。
普段から内向的な兄ではあったが、両親の死と、それが尾を引いて大学受験に失敗してから、以前にも増して怒りやすくなり、部屋に閉じ籠る事も多くなった。
それからというもの、僅かな会話すら意思の疎通が難しくなり、度々意見が食い違うようになる。そしてそれを指摘すると火が付いたように怒り出す。
「戻れそう?」
無言で首をふる。
「まァ、そうよね」
川崎先生は一階の職員室の隣にある用務員室の前で立ち止まる。
「それでもなんとかするしかないのよ」
「うん」
部屋の中からは男性の怒鳴り声が廊下側まで響いていた。
川崎先生は扉をノックすると、そのまま扉の脇へと退く。
「失礼します」
扉の取っ手に手を掛けると、こちらが開けるよりもはやく中から扉が僅かに開いた。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、昨日の早朝、中庭で出会った用務員のお爺さんだった。
「おお、昨日の生徒さんか」
用務員さんは昨日の事を覚えていたようで、見覚えのある顔にすこし驚いた様子だったが、すぐに申し訳なさそうに扉を開けてくれた。
「ご迷惑をお掛けします」
用務員室へと入る。入口手前にはステンレスのシンクと古びたコンロが設置されており、コンロの上には煤の付いた凹んだやかんが乗っていた。その先は一段高くなっており、奥は四畳半ほどのの座敷部屋となっていた。
その四畳半の座敷に男性教師三人と、教師達に囲まれるようにして私の兄である歌敷亮太が土足のまま息を荒げて立っていた。
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