第3章4
ホント嫌な奴。胸の内で毒づく。
井口裕子はクラスの中心的な存在で、男子でさえ彼女の陰険な仕返しを恐れて、彼女の我がままに従っていた。言うなれば、彼女がこのクラスの女王であり、それがこのクラスの暗黙の了解だった。
家がお金持ちで、とにかく新しいもの、目立つものにとにかく目がない彼女にとって、美形の転校生はまさに格好の餌だった。
そしてそんな姫守君と隣同士で座り、挨拶を交わした私の存在は、当然目障りで仕方ないのだろう。
ご自慢のロングウェーブの髪をなびかせる拍子に、ゴンッと、もう一度蹴られる。
「ちょっと…」
なけなしの勇気を振り絞り、小声で抗議の意思表示をしてみたが、周囲の声にあっさりとかき消されてしまう。
当然の如く、井口裕子は気に止め様子はなく、他のクラスメイトの中にも誰一人として振り向く者はなかった。
気まずい気分の中、窓の外へ視線を戻そうとした瞬間、人だかりの隙間を縫うように、こちらへ視線を向けた姫守君と偶然にも目があってしまう。
「あっ…」
まさか、さきほどの小声が聴こえたのだろうか?姫守君の表情からは、どこか私の事を気遣うような雰囲気が感じられた。
「あ、ゴメンね。足が当たっちゃった」
すると、姫守君の視線に気づいたのか、井口裕子はわざとらしい謝罪の言葉を述べると、人だかりの隙間に蓋をするように、私たちの視線を遮ってしまった。
二時限目、三時限目の休み時間も、一時限目の時と同じように、姫守君の周りには人だかりができていた。それだけではなく噂を聞きつけた他のクラスの生徒たちまでが、噂を聞きつけ、件の転校生を見ようと集まってきていた。
休憩時間は無理でも、授業中であればまだ会話するチャンスはあるかも、と思っていたのだが、驚くほど授業に集中している姫守君と、反対に驚くほど授業に集中していないクラスメイトたちの視線に阻まれ、結局、四時限目が終わるまで、一度も姫守君と会話することは叶わなかった。
昼休みにはいると、転校生と一緒にお弁当を食べようと、クラス女子たちの多くが結託して、一斉に机を移動させ始める。教室でお弁当を食べようとしていたクラスの男子生徒たちは、有無を言わせない女子たちの圧力に屈し、渋々と教室から追い出されてしまった。
姫守君は自分以外の男子が退出させられ、おまけに自分を取り囲むような陣形で食事をしようとしているクラスの女子たちの謎の行動に、あきらかに戸惑っている様子であった。
「あれ絶対怯えてるよね」ボソッと呟く。
そんな可哀想な転校生に助け舟を出してあげれないなんとも自分が歯痒かい。
そしてそんな私に対しても「お前もさっさと出ていけ」、という無言の圧力を井口裕子から浴びせられ、仕方なく教室を後にする。
廊下に出ると、グゥ~とお腹の虫が鳴る。
そういえば昨日のお昼から何も食べていない事を思い出す。購買部でパンでも買おうかと、財布の中身を確認してみるが、開いた財布には十円玉と一円玉が数枚あるのみだった。
「ひもじい…」
大きなため息をつくと、さて、これからどうしたものかと思案する。
ふと、今朝の出来事を思い出すと方向を変えて、第二校舎へと向かう。
「ええっと……図鑑図鑑は…」
目的の本を求めて、本棚の図鑑の列と探し回ってみるが、すぐに見つかるだろうという予想に反して、これがなかなか見つけられない。
「なんでこんなに昆虫図鑑ばっかりあるんだろう?」
動物図鑑の本棚を見つけたと思えば、その本棚には一列が丸々昆虫図鑑で埋め尽くされていた。
「うわ、『ゴキブリの全て』って・・・。誰が読むの?」
言葉とは裏腹に、若干手に取ろうかと思案しかけたが、鉄の自制心でなんとかその場を後にする。
その後も、周辺の棚を虱潰しに探してみるが、思うような本をどこにもなかった。
「魚類、ペンギン、キツネおしい、けど違う」
思うように見つからず、意気消沈してもう図書館を後にしようかとも考えたが、せっかくここまで来たのだからと、普段利用することのない図書室の中をブラブラと散策する事にした。
ぼんやりと本棚の列を通りすぎながら、目についた本を手に取りぺらぺらと数ページ捲っては元に戻すという行為をしばらく続け、そろそろ飽きてきたなと思い始めた瞬間、ピタリと、ある本棚の前で足が止まる。
その棚は、図書館の蔵書の中でも、特に大判サイズの本が集められた棚のようで、ほとんど本が収納されていなかったため、背表紙ではなく表紙が見える形で本が置かれていた。
クラスの男子が読んでいる少年雑誌よりも、一回りほど大きなその本には表題に『狼と野生の犬』とあった。表紙には雪が降り積もる雪原で一匹の狼が遠吠えをする様子が写されており、その狼のどこか切なくも美しい姿が、昨晩の野良犬君の姿を彷彿させた。
「なんだかあの子にちょっと似てる」
まるで吸い込まれるように、その本を手に取る。
雪原で寄り添う二匹の狼、紅葉した草原を楽しそうに駆ける狼のなど、躍動感たっぷりの写真で紹介されていた。
なかには、狼と熊がツーショットで撮影された写真もあり、隣り合う二匹の肉食動物の奇妙な姿に、不思議な魅力を感じた。
いつの間にか、備え付けの椅子に座り、様々な気候、風土の中で生きるイヌ科の動物たちの写真一枚一枚に心を奪われ、熟読していた。
すると、あるページを捲ったところで手が止まる。
それは北極圏に住むとされるホッキョクオオカミを正面から撮影した写真だった。
一面の雪原の中、凛とした佇まいで真っ直ぐにこちらを見つめている姿には、野生動物でありながら、威厳すら感じられた。
「うわぁ、あの子にそっくりだ」
毛並みの色は流石に違っていたが、あの夜出会った美しくて不思議な動物と瓜二つの姿がそこにあった。
「そっか。犬じゃなくて狼だったんだ。野良狼君だったんだ。…ん、野良狼?」
狼は元々野良なのでは?
僅かではあるが、狼君の手がかりを得られたことが嬉しくて笑みがこぼれる。
「また会えないかな…」
しばらくすると、入口の方から女生徒たちの話し声が近づいてくるのが分かった。話し声から察するに、自分のクラスの生徒たちではなかったが、念の為、入り口近くの隅の本棚まで移動すると、入れ違うようにしてコッソリと図書室を後にする。
調べ物を終えると、そのまま自然と足が屋上へと向かう。
屋上への扉の前まで着くと、ゆっくりと扉を開き、わずかに開いた隙間から屋上の様子を覗いてみる。
普段、天気の良い日であれば、屋上でお昼休憩を取る生徒たちもたまにいるのだが、さすがに今日のような夏の日差しが強く照り付ける日に、わざわざ利用しようとする生徒はいなかった。
屋上へ上がると、ちょうど太陽が分厚い雲に覆われて日差しを遮ってくれていたおかげで日差しもなく、山間からのそよ風が心地よかった。
「ふぅ」と、胸に溜まった息を吐き出すと、今迄、張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと解れていくように感じられた。
すると、気が緩んだせいか「ク~」と、お腹の虫が鳴る。
「やっぱりお水だけじゃダメか」
さきほど、屋上へ上がる途中に蛇口で水分補給をして、空腹を紛らわせようとしてみたが、やはり効果はなった。ただお腹がチャポチャポと音を立てただけだった。
「お昼ご飯がお水だけって、これじゃあ私まるで貧乏学生みたいだ」
みたいではなく、実際に貧乏だった。
ポカポカとした陽気な天気に釣られ、思わずグッと背筋を反り大きく伸びをすると、夏の青空と雲が視界一杯に広がり、なんとも心地よかった。
視界の隅で、一羽のカラスがフェンスの上にとまっているのが見えた。
しばらく辺りをキョロキョロと見廻していたカラスは、こちらの存在に気がつく
と、こちらを見下ろし「クワァ」一鳴きした。
「くわぁ」
なんとなく鴉の真似をしてみる。
興味がなさそうに、また辺りをキョロキョロと見廻し始めたカラスは、今度は屋上の出入口にある屋根へと飛び移り、視界から消える。
視界から消えたカラスは「クワックワッ」と、さきほどとは違う鳴き声を出す。
「どうしたんだろう?」
たしか屋根の上には給水タンクくらいしかなかったはずだけど。なにやら盛んに鳴き続ける鴉に、次第に興味が湧いてくる。
出入り口扉の横に設置されている梯子をそろそろと昇っていく。
ヒョコっと頭を出して屋根の上を覗いてみると、そこには必死にパンくずを漁っているカラスと、その隣で寝そべっている男子生徒の姿があった。
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