第3章1

 小鳥の囀り声が、かすかに耳に届いた。

 早朝の穏やかな風が、そっと頬をなでる。その感触にゆっくりと意識が覚醒する。


「ん、うぅん」


 ぼんやりとした意識のなか、ゆっくりと目をあける。

 しばし、そのまま茫然とする。目覚めたばかりで頭が動かず、まるで現状が把握できないままボーッと空を眺めていた。


「ここは?」


 徐々に意識がはっきりしてくると、横になっていた体勢から起き上がる。どうやら私はベンチで寝ていたらしい。座り直すと、状況を確認すべく、視線をキョロキョロと動かす。

 やがて、そこが至極見慣れた場所である事に気がつく。見慣れた校舎に、見慣れた花壇、見慣れた風景から、ここが学校の中庭であることに気がつく。


「昨日は、たしか……あれ、でもどうして…」

 

 次第に昨晩の屋上での記憶が鮮明に蘇ってくる。

 私は自殺するために、屋上へやってきて、そこであの野良犬と出会って・・・。


「犬!あの子は!野良犬君は!?」


 咄嗟にベンチから勢いよく立ち上がろうとするが、途端に背中と足に鈍痛が

走り、再びその場に座り込んでしまう。

 

「あ痛っ、いたたたっ」

 

 おそるおそる体に触れてみると、肩や腰など何か所かに痛みが走る。

 最初は骨折を疑ったが、急に動かなければそこまで痛みがないことから、おそらくそこまで重症ではないのだろう。

 ただ、この痛みは昨日、私が屋上から飛び降りたという証拠だった。

 そして何故かはわからないけど、私はこうして生きている。


「あの子が助けてくれたんだ」


 私が落ちていく瞬間、あの野良犬君が私の胸に飛び込んできたのをたしかに見た。

 そこから先の記憶は残念ながら途切れてしまっていたが、不思議とそこだけは確信が持てた。

 冷静に考えれば一匹の犬が落下している人間を助けるなんて事は、到底不可能だ。

それでも私が今こうして生きていられるのは、きっとあの野良犬君が助けてくれたおかげなんだ。

 確たる証拠など何もなく、記憶すら曖昧な状態ではあったが、それだけは紛れもない真実だと私の心が告げていた。


 中庭から窓越しに教室備え付けの時計を見ると、時刻は朝の六時半だった。

 中庭の周囲を隈なく探してみたが、あの野良犬君の痕跡はなにも発見できなかった。万が一と思い、屋上へ行こうともしたが、まだ校舎の扉は開いておらず、仕方がないので引き続き中庭のベンチでぼんやりと時間を潰す事にした。


 校舎の合間、中庭から眺める空は普段と変わらないはずだったが、その景色は昨日までとはまるで違い、流れる雲や木々の葉っぱに至るまで、全てが別の物に置き換わったかのように新鮮に思えた。

 昨日までの自分であれば、その瞳に映っていたのは絶望や周囲の侮蔑で塗り潰されてしまった残酷でくすんだ色の世界だったに違いない。

 それがどういう訳か、今は太陽の眩しい日差しに照らされた物全て、目に映る景色の全てが、まるでキラキラと輝く美しいもののように見えた。

 それはきっと、昨晩のあの野良犬君との出会いおかげなのかもしれない。

 

「また、あの子に会いたいな」

 感情が想いとなり、想いが言葉となり、口から零れる。

「ちょっとキミ、何をしとるんだ!」


 突然の大声に驚いて振り向くと、そこには長年使い込んで色褪せてしまったジャージを着たお爺さんが立っていた。お爺さんの顔にはどことなく見覚えがあった。その

人はこの学校の用務員さんだった。


「あ、えっと、おはようございます」

「おはようじゃなかろう。なんちゅう恰好しとるんだ」


 用務員のお爺さんはそう言うと、まるでこちらを変な人でも見るかのように一瞥すると、手で視界を塞ぐようにしつつこちらから顔を背ける。

 はじめは何のことか判らなかったが、お爺さんの視線からなにやら違和感を覚えて自分の服装を確認してみると、上着のシャツのボタンが全て無くなっており、シャツの前が開け放たれた状態になっていた。


「あっ」

 

 当然、その下にある水色の生地に小さな花模様があしらったブラジャーが露わになっていた。

 

 「きゃああああーーー!」


用務員さんは視線を逸らしたまま、どうしたらよいのか分からずに終始オロオロとしていた。


 その後、用務員さんに保健室まで案内してもらい、替えのシャツと痛み止めに湿布薬を受け取る。

 念の為に、あとで保険の先生にきちんと診てもらうようにと念押しする用務員さんに礼を言うと、そのまま自分の教室へと向かう。

 朝一からとんだ災難に見舞われたが、用務員さんが親切な人でホントに助かった。

 これがもし、最初に発見したのが登校してきた生徒たちだったら、根暗や疫病神に加えて、露出狂なんて呼ばれていたかもしれない。


 一年二組の教室の前までやってくると、いつもの癖でゆっくりと扉を開け、教室の中を確認してから窓際一番後ろにある自分の席に着く。



 ここ県立福田高校は、周囲を山々に囲まれた市の、県境にある山の中腹に位置し、起伏のある山道は、登下校する生徒たちに日夜苦労を強いていた。そのため県外から通う生徒などは、最寄りのバス停からバス通学をしている者も多く、『福田高校前』で下車していた。

 ただ、この『福田高校前』バス停は下車したとしても、そこから学校までは徒歩でも10分近く坂道を歩かねばならず、「どこが高校前だ!」と、通い始めたばかりの一年生は皆口を揃えて文句言うのがお決まりになっていた。



 普段であれば、始業ベルが鳴る直前に、後ろの扉からコッソリと入室するのが日常であったが、早朝だったため、まだ誰も登校していなかった。

 教室備え付けの時計を確認すると、時刻は7時になっていた。あと30分もすれば、クラスメイトたちがぞろぞろと登校してくるだろう。

 そうなれば、またいつもの憂鬱な毎日が始まる。

 

「ハア~」


 頬杖をつき窓の外を眺める。

 それでも昨日までとは違い、幾分か心持ちが楽に感じられた。

 もちろん、それは昨晩のあの不思議な体験のおかげだった。

 自分の周りには敵しかいないと思い込んでいた私を否定してくれた。

 そればかりか、私なんかのために命を投げ出してくれた。 

 もしもあの出会いがなければ、今でも私は鬱屈した感情を抱えたままだったに違いない。

 窓の外、空を流れる雲をぼんやりと眺めながら、昨夜の不思議な出来事に思いを馳せた。


「そうだ。お昼休みにでも、図書室であの野良犬君について調べてみよう」


あれだけ個性的で綺麗な犬なのだから、図鑑で調べれば、きっと何かしら手がかりが見つけられるかもしれない。

 

 ガラガラと扉が開くと同時に「あっち~」と、ブレザーを腕に下げ、シャツを扇ぎながら男子生徒が入室してくる。

 てっきり自分が一番乗りだと思っていた男子生徒は、すでに着席している生徒を見つけると、挨拶しようと口を開きかけたが、それが私だと判ると開きかけた口を閉ざした。そのまま自分の机に鞄を置くと、さっさと教室から出て行く。

 その後も、続々とクラスメイトたちが登校してきたが、誰一人として私に言葉をかける者はなく、あえてこちらに視線を向けないようにする者がほとんどだった。彼ら彼女らからすれば、私は存在しないのと同義なのだろう。

 逆に私の存在を容認する者たちは、決まってヒソヒソと陰口を囁き合い、嘲笑の対象としてしか見ていなかった。

 陰口に参加しない者も、それを止めたりはしない。私に関われば今度は自分たちもいじめの対象になってしまうと判っているからだ。結局誰もが見て見ぬふりをする他はなかった。

 これが私にとっての日常だった。

 毎日毎日、飽きもせず。よくそんなにネタがあるものだと呆れる。

 昨日までの自分であれば、周りのヒソヒソ声を耳にするだけで心に重石を乗せられたようになって俯いてしまうに違いない。

 昨夜の出来事のおかげで、今日はあまりストレスに感じず、幾分かマシではあったが、それでも不快であることに変わりはなかった。

せめて、この場に自分にとって唯一の友人である朱里ちゃんがいてくれれば、願ってみたが、案の定、彼女が登校してくる気配はまるでなかった。

 

「朱里ちゃん、今日も欠席なのかな・・・。」


 親友である神園朱里は、特に体が弱かったり、不真面目という訳でもなく、運動が出来て、勉強もできて、おまけに学年でも指折りの美人だった。学年でもトップクラスで優秀な生徒ではあったが、なぜか入学以来、登校ペースが不安定で、頻繁に欠席していた。

 当の本人に理由を訊ねてみたこともあったが、毎回のらりくらりとはぐらかされてしまい、未だに理由はわからなかった。



 


















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る